第58話 前の世界での東雲真緒
「真緒、もうすぐ燦花に着くみたいよ」
翌日の昼。
甲板で釣りをしていた私のところへ、紅月がやってきた。
どうやら例の件の、話がついたようだ。
「そっか。……で、どうだった、弁償額のほうは?」
「舷墻の破損分はまけてくれたわ。弁償は帆柱だけでいいそうよ」
今回の天使騒動において、船体の破損の原因が自分にあることを、紅月は乗組員に告げたらしい。
そりゃそうだ。
やったことに対して責任を取らなければならない。
それは彼女が一番わかっているだろう。
「……でも、帆柱だけっていってもこの船大きいし、それなりにするんじゃないの?」
「そうね。概算だけど、見積り書は二度見したわね」
「……大体どれくらい?」
「ギルドで働いていたときの給料の、一年分くらいは軽く吹き飛んだわ」
「吹き飛んだわって……そんな大金、今持ってるの?」
「持ってないわよ。もちろんツケ。とりあえず燦花に着いたら、まずは銀行へ行って、お金を下ろさなきゃね」
「銀行」
「なに? 銀行がどうかした?」
「え、いや、この世界にも銀行ってあるんだなって……」
「あ、あのねえ……銀行くらいあるわよ。というか貴女、冒険者なのにギルドに口座作ってなかったの? どうやって報酬金受け取ってたのよ」
「いや、こう、手渡しで……」
「須貝組は――はぁ……まあいいわ。燦花に着いたらとりあえず、貴女の口座作るわよ」
「う、うん……」
「それが終わったら、べつの船に乗り換えて、丹梅国に向かうって流れ。わかった?」
「おっけ。わかった」
「それと……これなんだけど……」
「うん?」
そう言って紅月が私のところに持ってきたのは、例の万年筆だった。
「おお、それはもっさんの。よく見つけたね」
「そりゃあね。血まなこになって探したわよ」
「血まなこって……。それで、どうすんのそれ?」
「証拠よ、証拠」
「なんの?」
「今回このバカ高い船の修理を払わされたのも、もしかしたら魔王アスモデウスの仕業かもしれないから、その証拠」
「天使騒動がもっさんのせい? なんで?」
「覚えてない? 魔王が貴女に天使の討伐を頼んだ話」
「覚えてるけど……あれ結局、もっさんの冗談だったじゃん」
「いいえ、本気だったわ」
「根拠は?」
「魔王は、私の悪感情に敏感だった」
「どういうこと?」
「つまり、私の考えがある程度読めていたのよ」
「……まぁ、たしかにそんな節があるのは薄々感じてたけど……」
「そうじゃないと、初対面の私に向かって『まっさんが傷つくのも厭わない手段を平気でとる』なんて言わないわよ」
「まぁ、それもそっか。……それで、悪感情に敏感なのと、天使の件とはどう繋がんの?」
「……妙だと思わない?」
「たしかにもっさんは常に妙だとは思うけど」
「そうじゃなくって! なぜ魔王アスモデウスが急に、万年筆にありったけの魔力を込めたり、わざわざ天使が出現する条件を、私たちの前でしゃべったと思う?」
「……天使と戦わせるため?」
私がそう尋ねると、紅月は静かにうなずいた。
でも……そうか。
あの万年筆に魔力を込めるくだり、もっさんなりの無茶苦茶なネタだと思ってたけど、そういうふうにも考えられる。
天使が出てくるかもしれないって話も、そもそももっさんが魔力を込めなければいいだけ。
それになにより万年筆がなければ、今頃私たちは、海の藻屑になっていた。
「じゃあ、つまり……もっさんは、首輪とかで的確に紅月を追いつめて、天使を呼び出すしかないような状況に、あんたを誘導した?」
「確たる証拠はないわ。けど、その確率は高いわねって話よ」
「なるほどね。もっさんならそういうこと……するのかなあ? もっさんだよ?」
「真緒、貴女が自然に魔王アスモデウスの肩を持つように、私たちは自然と魔王を疑っているの。そこだけは理解してね」
「……まぁ、今までもっさんと絡んだ人たちの反応を見るに、私のほうが少数派ってのはわかるけどさ……それで、仮にその話が本当だとして、紅月はもっさんをどうしたいの?」
「立替させるわ」
「立替……って、帆柱の費用を?」
「そうよ。まんまとハメられた私も間抜けだけど、魔王のせいで大金を失う謂れもないでしょ」
「そりゃそうだ」
「……大丈夫。魔王アスモデウスからすれば、帆柱の一本や二本、麩菓子と変わらないわよ」
「さすがにそれは言い過ぎだと思うけど……そっかぁ……」
紅月をしてそこまで言わせるんだもんな。
もっさんももっさんで、相当金をため込んでいるのだろう。
「……でも、純粋な疑問なんだけどさ」
「なによ」
「そもそも、もっさんって、金をため込む必要あるのかな」
「それ私に訊いてる? 知らないわよ、魔王のことなんて」
「たしか、もっさんの主な栄養源って、人間の精気だよね」
「ああ、独り言ね。いいわよ、聞いててあげるから」
「活版印刷がこの世界で普及したから大量に本を刷って、それを読んで満足した人間から、自動的に精気を集められるシステムを作ったから、ある意味、もう働かなくてもいいのでは?」
「いや、お金がなかったらどうやって本を印刷するのよ……」
「そう、そこなんだよね」
「どこよ」
「本を刷るのも、アシスタント雇うのも、建物を建てるにも、全部お金が必要になってくる」
「あたりまえね」
「でも、それって結局、人間のルールなわけじゃん?」
「……まぁ、そうね」
「魔王なんだからさ、人間が流通させた通貨なんて使わず、それこそ力で上から押さえつけて、無理やり言うこと聞かせればよくない?」
「けれど、それだとやっぱり、人間たちからの強い反発に遭うんじゃないかしら。それを力で押さえつけたとしても、結局、人間がいなくなって困るのは、魔王アスモデウスだし」
「そっか……そうだよね。だからこそ、魔王は人間と共存関係にある。そう考えると、この世界の魔王って、今更だけど、なんか俗っぽいね」
「……ちなみに、真緒の世界って、どうなの?」
「私の世界?」
「そう。どんな魔王がいるの?」
「いるわけないじゃん、そんなの」
「え、いないの、魔王?」
真面目にそう訊かれてしまうと思わず笑ってしまう。
けど、紅月にとっては魔王がいるこの世界こそが現実なんだよね。
まぁ、私もその現実にこうやって、足を踏み入れてるわけですが……。
「……いないって。私の世界だと、それこそ小説とか漫画みたいなフィクション……物語にしか登場しない、空想上の存在だよ」
「へぇ、そうなんだ、考えられないわね。……そうだ、いい機会だし、貴女の世界のこともっと聞かせなさいよ」
「私の世界……?」
「そう、東雲真緒が居た世界の話」
「いや……べつに話すほどのものじゃないよ。だって、普通だよ? 聞いたってつまんないって」
「今さっき、その普通が普通じゃないって話をしたの、忘れたのかしら?」
「まあ……そうなんだけどさ……」
考えてみれば、初めてかもしれないな。
この世界の人間に、私の世界のことを話せとねだられるのは。
けど、彼女なりに私のことを知ろうとしてくれているのだろう。
そう考えると、すこし微笑ましいというか、照れくさいというか……。
「じゃあ、まずは貴女の仕事からね。真緒はこっちに来る前は、何をしていたの?」
「私? 私は普通に会社員やってたよ、いわゆるOLってやつだね」
「へぇ、おーえる……って、なにをするものなの?」
「なにって、そりゃ会社員だから、会社のために仕事をするんだよ」
「ふうん? じゃあ、その会社は何をしているような会社なの?」
「何をしているって、そりゃ社会の為に……なるような……こと……だよ……」
「……なんかそれ、ずいぶん抽象的すぎない? もうすこし、私でもわかるような仕事内容とかないの?」
「わかりやすい……仕事内容……」
「たとえば、ほら、会社なんだからお金の流れを管理したり、記録したり……とかさ」
「管理……記録……流れ……」
そう尋ねられて、私は改めて自分が何者であったかを思い出そうとする。
思い出そうとする。
思い出そうとする。
思い出そうとする。
思い出そうとする。
思い出そうとする。
思い出そうとする。
思い出そうとする。
思い出そうとする。
思い出そうとする
思い出そうとす
思い出そうと
思い出そう
思い出そ
思い出
思い
思
「――緒……! 真緒! どうしたの!?」
――頭痛がした。
そんな気がした。
気が付くと――
気が付くと私は、紅月に両肩を掴まれ、ゆさゆさと前後に揺すられていた。
なんだ。一体。何が。起こった。のだろう。
頭がぼーっとする。うまく脳が働かない。
なぜ私は紅月に揺すられているんだっけ。
なぜ私はこんなところにいるんだっけ。
「真緒……!」
「わ。」
「き、気が付いた……の?」
「ごめん、そんなに強く揺すらないで。頭がガンガンする」
「ご、ごめんなさい。……でも、よかった……話の途中で急に目が虚ろになって、口が半開きになったから……」
「だ、大丈夫、大丈夫。なんか急に眠くなっただけだから……」
なんてこった。
そんな間抜け面を晒していたのか、この私は。
「そう、それならいいんだけど……」
「それで私たち、何について話してたんだっけ?」
「え? 貴女の仕事のことについてだけど……」
「あ、そうそう。私の……仕事……」
……あれ?
なにも……思い出せない。
私の世界がどういう世界だったのかは思い出せる。
文明も、社会も、人種も、歴史も思い出せる。
けど、なぜか私の職業についてはなにも思い出せない。
それどころか――
「私の……東雲真緒のことについて、なにも……思い出せない……?」




