第53話 天より降り立つもの
牛鬼。
牛の頭に、蜘蛛のような節足動物を思わせる無数の脚を持った魔物。
群れではなく単体で行動し、水辺ならこのような沖にでも出現し、なんでも食べる。
もちろん人間も。
その体躯も大型の熊をも遥かに凌ぐため、基本的には冒険者の、それも銀級以上の資格を持つ者のみ討伐を許されている危険な魔物……らしい。
綾羅を出る前に〝実録! よい子の世界あぶない魔物百選!(海編)〟で読んだ気がする。
そして、そんな魔物が、縦真っ二つになって甲板の上を転がっている。
切り捨てたのは浪人風の冒険者さん……ではなく、笠をかぶった僧侶風の冒険者。
その太刀筋は一切見えなかった。
というか、剣を抜いたところも、それを仕舞うところさえも見えなかった。
私は再び手元の見取り図を見る。
「……うん、わかんない」
あたりまえだけど、そこには各々の配置と名前しか載っていなかった。
そりゃそうだ。自分さえ分かってれば、それでいいんだからね。
そんなことを考えていると、浪人風の冒険者さんが、その人に歩み寄った。
「流石の腕前。感服にござる。拙者は歳野左近と申す。等級は銀。貴殿は……白雉国で御目にかかったことはござらんな」
歳野さんがそう言うと、僧侶風の男性はふいっとそっぽを向いた。
私の時と同じような反応だ。
たぶんすごいシャイな人なんだろう。
せめてそうであってほしい。
「フム、馴れ合いは好かぬか。……これは失敬。些か、出過ぎた真似をしたようだ」
歳野さんは怒ることも非難することもせず、頭を下げ、ただ自身の非礼を詫びた。
大人だ。
牛鬼を一刀両断してみせたのは僧侶さんなのに、なぜか人間としての格の違いを見せつけられている。
「はぁ……はぁ……」
私たちからすこし遅れて、堂州さんも息を切らせながらやってきた。
「ああ、もう……終わっていましたか……さすがですね、園場様」
園場。
堂州さんが僧侶の人をそう呼んだ。
改めて見取り図を見ると、右舷に園場鎬と記載がされていた。
「では、引き続き皆様には船の警戒を……おや?」
そう息を整えながら喋っていた堂州さんが、突然空を見上げる。
さきほどまで快晴だった空が、いつの間にか灰色の厚い雲に覆われていた。
そういえば、先の著書にも〝海の天気は変わりやすいから注意〟と書いてあった。
それがまさかここまでとは思ってはいなかったが、これは早めに船内に退避したほうが――
「まさか……こんな……!」
堂州さんが空を見上げながらポツリとつぶやく。
なんだろう。
なにか気になるなら結論から言ってほしいものだが……堂州さん的にはこの天気は引っかかるのだろうか。
「堂州殿、如何された」
「あ、ああ……申し訳ありません……じつは雲が……」
「クモ……? 言われてみれば、たしかに。先程まで陽光が照り付けていたが……いつの間に曇天に……」
「そうなんです。我々は雲へ向かっていたわけではありませんし、それに、このような雲がこんなに短時間で急激に発生し、発達するというのは……」
「堂州殿?」
「……申し訳ありません、私は先に船内へと戻ります。皆様は予定通り、警戒のほうをお願いします」
それだけ言って、堂州さんは早歩きで船内へと戻っていった。
残された私たちは互いに顔を見合わせ、なにが起こっているのかも理解できていない。
「魔物の出現報告を聞いていた時はまだ冷静だったが……」
その場にいた冒険者の誰かが発言する。
「ああ、さっきの堂州の慌てようは普通じゃなかった」
「つまり、牛鬼以上の脅威が差し迫ってるってことか……?」
「なにも魔物じゃなくて、普通に考えて嵐とかなんじゃねえの」
「……フム。堂州殿の言う通り、今は魔物の警戒にあたったほうがよかろう。どのみち、嵐の心配をしていても、それは我らが領分ではない。我らはただ与えられた役に注力するのみ」
たしかに歳野さんの言うとおりだ。
天気は堂州さんが気にしてくれている。
なら、私たちは私たちがやれることをやるべきなのだ。
私たちは互いに頷き合うと、改めて自分たちの持ち場へ移動を始めようとしたのだが――
「園場殿、如何した」
ぼーっと空を見上げて立ち尽くす園場さんに、歳野さんが話しかける。
すると園場さんは相変わらずの無言で、今度はゆっくりと、空の、ある一点を指さした。
その場にいた冒険者は皆、彼の指の先に注目する。
柱。
光でできたような円形の柱が、分厚い雲を貫き、ゆっくりと降りてくる。
まるで空の上から、誰かが巨大なストローでも差し込んでいるかのように、その柱は私たちの進行方向の海上まで降りてきた。
「お、おい……あれ……雲からなんか……」
誰かが声を発し、海面を見ていた私たちは再び顔を上げてそれを見た。
光の柱の中をゆっくりと降りてきたのは……人だった。
……いや、人と呼ぶにはあまりに異質だ。
緑の髪が風とともに舞い、その背からはどの鳥にも例えられないほど大きく、荘厳な翼が生えている。
衣は純白に輝き、胸元から裾にかけて淡い渦の文様が刻まれていた。
その姿を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。
美しいなどという言葉では追いつかない。
畏怖と崇拝が心の中で膨れ上がっていく。
そして本能で理解する。
それは紛れもなく天より遣わされた存在。
天使であると。
緑髪の天使は、感情のない琥珀色の瞳を細め、ゆっくりと甲板に降り立った。
「その髪……その翼……もしかして……ラファエル……様……?」
誰かがその天使のものと思しき名を呟いた。
そしてそれを肯定するかのように、ラファエルと呼ばれた天使はただ冷ややかに視線を巡らせる。
その圧倒的な光景に誰もが言葉を失うなか、ただ一人、天使の前に躍り出る者がいた。
「……天使様!」
紅月雷亜、彼女だった。
そしてその手には、もっさんから渡された万年筆が握られている。
「どうかお聞きください! 私は紅月雷亜! この名、この願いをどうかお聞き届けください!」
ラファエル(?)は無表情のまま紅月を一瞥した。
「……ご覧いただけますでしょうか、私の首にあるこの輪を! これは忌々しき魔王の権能、悦服の首輪なるものです! 私はこれに縛られているのです! ですのでどうか、この枷を、私にお慈悲を……!」
そして、ほんの一拍の沈黙の後に、淡々と告げる。
「分析。確認。……肯定。残滓を視た。魔王アスモデウスの穢れが、その首輪と、筆には宿っている」
その声音に慈悲の響きなどは微塵もない。
ただ事務的に、そこにある事実を確認し告げているだけ。
「而して人の子よ。汝の願い聞き届けた」
「あ、ありがとうございます……! ありがとうございま――」
「では疾く首を垂れよ。苦しまず、優しく、汝の正確に刎ねよう」
「す?」
紅月の顔が固まった瞬間、甲板の空気が一層冷え込んだ。




