第48話 紅月ストリップ
なにも見えないビン底眼鏡の奥――
彼女の紅い瞳から昏い光が発せられる。
その妖しい雰囲気に私は『冗談だよね』なんて訊けるわけがなく――
「作戦は?」
机の上で身を低くし、囁くようにそう尋ねた。
それに対し、隣にいた紅月が口をあんぐりと開けて私の顔を見てくる。
なに、私だって本気で倒しに行こうなんて考えちゃいない。
紅月よりも強いあの鎧武者を、加減したまま一瞬で倒した魔王アスモデウスに、容赦ない雷を落とす天使だ。
私なんてひとたまりもないだろう。
確かめているのは彼女の本心。
これが冗談ならよし、それ以外なら――
「……ぷ」
もっさんは頬をぷるぷると膨らませると、そのまま堪え切れなかったのか、楽しそうにケラケラと笑い始めた。
「なんつって! ごめんごめん、冗談スよ、冗談! すげー前向きに来られたから、つい笑っちゃったっス」
普段はただの気のいい変態なのに、たまにこういう態度でくるのは本当にやめてほしい。
マジで心臓に悪い。
とはいえ、もっさんの性格もだんだんわかってきた。
彼女は真面目な冗談が好きなのだ。
だから真剣に乗っかってあげると――
笑ったままの顔で、ほんの一瞬だけその紅い目が私を射抜いた。
その奥にあった色は、とても冗談のそれには見えない。
「まぁ、どうしてもってんなら、これ、お願いするっス」
そう言ってもっさんがどこからともなく取り出したのは――
「ペン?」
それは黒光りする細身の万年筆だった。
装飾らしい装飾はなく、ただ真っ直ぐに、書くことだけのために無駄が削ぎ落とされた形状。
だが、軸の部分には長年の使用でついた微細な擦り傷が無数にあり、手によく馴染んだような艶を放っている。
キャップの金具やペン先にはくすみひとつなく、こまめに手入れされてきたのが一目でわかった。
「……見覚えないっスか」
「見覚え? 私に?」
急に変な質問をしてくるもっさん。
それは、どっちの意味なのだろう。
万年筆というペンに見覚えがあるかを訊いているのか、それともこのペン自体に見覚えがあるかを訊いているのか。
前者はある。
日常的には使用していなかったが、文具店でたまに見かけていたし、それが万年筆であるという知識はある。
後者はない。
魔王アスモデウスの持ち物である万年筆なんて、今まで見たことも聞いたこともない。
もちろんもっさんが、わざわざそんな意味のない質問をしてくるとは思えないので――
「あるよ、見覚え。万年筆でしょ?」
私はそう答えた。
「だいぶ使い込んでるみたいだけど、この世界にもあったんだね」
「まあ、そうっスよね……そうなっちゃうっスよね……」
もっさんはすこし悲しそうな声でそうつぶやいた。
どうやら私の回答はあまりお気に召さなかったようだ。
一体どういう意図での質問だったのだろう。
「これはあたしが漫画描いてるときに使ってるペンっスね」
「でもこれって、万年筆だよね? これで漫画って描けるの?」
「描けなくはないっス。たしかにあたしの周りで、これ使ってるのは見ないスけど。あたしはもうこれに慣れちゃったので」
「そうなんだ……」
このペンのことを話す時、彼女の声のトーンが優しくなっているのに気づいた。
どうやら彼女は相当、このペンに思い入れがあるようだ。
「これはあたしが昔、とある……ひと……から貰った物なんス。その時はまだ漫画って文化がこの世界には存在しなかったし、あたしも漫画を描いて、人間から精気を取ろうなんて考えてなかった頃っス。それに当時はあたし、今と違ってまともに文字も書けなかったっスからね」
「それで、その人からもらったんだ?」
「そうっス。たまには人間の文化に触れてみるのもいいものだって、渡されたんスよね。……まぁ実際、漫画始めるまでは一切使わなかったんスけど」
「なるほど。だから万年筆だったと……それで、このペンをどうすればいいの?」
「修理してほしいんスよね」
私はもう一度、もっさんが差し出した万年筆を見た。
修理ってことは、綺麗だけど壊れてるってことだよね、これ。
万年筆は手入れさえしていれば一生使えるって聞くけど、さすがに魔王の寿命には勝てなかったのかな。
「修理って……私が?」
「もしまっさんが出来るのなら、それが一番いいんスけどね。この白雉国の隣、丹梅国にいる〝ビアーゼボ〟ってヤツに渡してほしいんス」
「へえ、じゃあその人なら直せるん――」
ガタン。
本日二度目。
紅月が血相を変えながらその場で立ち上がる。
「な、なに、どうしたの?」
「どうしたもなにも、貴女知らないの?」
「知らないって、なにがよ」
「ビアーゼボっていったら魔王よ」
「え?」
「魔王アスモデウス……様と同じ、始まりの七柱の一柱じゃない」
「……ち、ちょっと待って。ビアーゼボってのが魔王なのは……この際置いといて――」
「あはは、あいつが置かれてるの笑えるっス」
なぜか楽しそうに笑うもっさんは、この際無視だ。
「そもそも魔王ってそんなにいるの?」
「『そんなにいるの』って……あ、貴女、鉄級で一体なにしてたの?」
「普通に依頼こなしてましたが……」
「こ、これだから鉄級は……! この世界の常識じゃない!」
「なんだこれ……なんで私怒られてんだ……」
「……ちょっと待ちなさい。もしかして〝神魔大戦〟についても知らないとか言うんじゃないでしょうね?」
「えっと……」
もちろん存じ上げておりません。
言葉には出していないが、私のその気配を察したのか、今までにないほどのため息が紅月の口から漏れ出た。
「……貴女やっぱり、世界を見て回るとか言って、本当は興味ないんでしょ」
「ひどいこと言うなあ……」
もちろん興味はある。
とりわけ今の興味は美食と呼ばれている丹梅国の食べ物にだ。
歴史に関しては……まぁ、おいおい知っていけばいいだろうと思っている。
できれば知らなくてもいいだろう……とも思ってる。
「おろ? まっさんってば、白雉国から出ていくんスか?」
なぜか嬉しそうなもっさん。
それ、私がこの国から出ていくことに対してじゃなくて、たまたま目的が被ったから嬉しがってるだけだよね。そうだと言ってくれ。
「……まあね。今回の訪問、じつは別れの挨拶も兼ねてたんだ」
「なるほどなるほど。良いと思うっスよ、世界を見て回る……か。うんうん、素晴らしい」
なんか知らんが、喜んでくれるからヨシ。
「そうじゃなくって……!」
紅月が緩んできた空気を引き締めるように、テーブルに両手をつく。
「魔王様、なぜわざわざ丹梅国へ行って、あちらの魔王様に万年筆の修理を頼むのですか!?」
「……うーん、なんとなく?」
「万年筆の修理なんて、白雉国国内でも可能です。なにもビアーゼボ様のお手を煩わせるまでもないのでは?」
「いや、それがっスね……」
そう言って、もっさんはテーブルに置かれていた万年筆をひょいっと持ち上げると、ぐっとなにやら念を込め始めた。
やがて万年筆全体を包むように、紫色の薄い膜のようなものが張られる。
「じつはこの万年筆は特別で、魔力が込められてるんス」
込められてるもなにも……どう見ても今、もっさんが込めたような気がするんだけど。
「だから、普通の人じゃ直せないんスよね」
「いや、いやいや……いやいやいや、むしろ今、魔王様が直々に、手ずから込めませんでしたか? 魔力?」
「……込めてないっスよ」
「いえ、見てましたよ。なにか念じてからこう、ブゥンって……!」
「ハエじゃないっスか?」
「そんなわけないでしょう! ふざけている場合じゃないんですよ!」
「……どのみち、これで魔力は込められたんスから、ビアーゼボじゃないと直せないようになっちゃったっス」
「ああっ!? ずるい! そんな横暴いくらなんでも――」
もう慣れてしまったのか、紅月はもっさん相手に人差し指を突きつけた。
――が、それがよくなかったのか、もっさんはそんな紅月の首元になにかを取り付ける。
彼女の紅い髪を引き立てるように、艶やかな黒革で編まれた細身のチョーカーのような装飾品。
首にぴたりと沿うその中央には、薄桃色の小さなハート型ストラップが揺れている。
「な、なんですか、これ……!」
紅月はそれを引き剥がそうとするが、どうやらビクともしないようだ。
もっさんは紅月の問いかけを無視するように、私に向けて言う。
「……まっさん、試しにその人間に、何かしてほしいこと言ってみるっス」
「はあ!?」
紅月が素っ頓狂な声を上げ、私は確信する。
これはもしかして、アレなのでは……?
私は紅月に向き直ると、おそるおそる口を開いた。
「……紅月、ここで下着姿になりなさい」
「なっ……!? そんなこと、私がするわけ――」
突然、するりと紅月の柔らかそうな肌が露出する。
当然私はなにもしていない。
何かをしているのは目の前の紅月だ。
「うそ!? うそうそうそ! やだっ! なにこれ……!」
だんだんとあられのない姿になっていく紅月。
彼女は涙目を浮かべているが、体は決してその動きを止めない。
その姿に私は不覚にも――
「フム。こいつは……」
私は顎に手をやり、この如何ともし難い状況を憂うようにつぶやく。
いつの間にか店内からも男女問わず歓声が沸き起こる。
みないつの間にか紅月の健康的な肢体に注目していたようだ。
そしてその日、私は改めて紅月が着痩せするタイプだということを認識した。




