閑話 麗しき君の名は【牙神視点】
「五月蠅すぎる」
この下品で不快な騒音は宴会場のほうからだろうか。
そういえば今日、この部屋へ戻ってくるとき、何人かのガラの悪い男共とすれ違ったことを記憶している。
なぜあんな連中がこのような高級宿に用があるのだと思っていたが、なんてことはない、貧乏人なりにすこし背伸びをしたかったのだろう。
いつもは見逃してやるところだが、今日の騒音はさすがに度が過ぎている。
この国の呪法について勉強していたが、こんな状況で集中できるはずがない。
この勇者牙神が直々に怒鳴り込んでやれば、やつらも震え上がり、ピタリと静かになるだろう。
「ククク……」
僕はやつらの慌てふためく顔を想像しながら部屋を出た。
それにしても、昔の僕からは到底考えられないな。
ペタペタと館内移動用のスリッパを踏み鳴らしながら、僕は思案する。
この世界に来るまではあんな低俗な連中、遠巻きに見て、一笑に付すだけで関わり合いになろうとすらしなかった(決して怖がっていたわけではない)。
だが、今では本当に彼らが猿のようにしか見えないのだ。
この前も、僕にデカい態度を取ろうとしたやつを泣かせてやったっけ。
あれは傑作だったな。
あんなに図体も態度もデカい男が、目の前でほんのすこし魔法を見せただけで、僕に泣きながら命乞いをしてきたんだから。
さすがに殺しこそしなかったが、あいつはそれ以降、僕を前にするとペコペコと頭を下げるようになった。
この世界はいい。
たしかに最初こそ、あの危険極まりない残響種という魔物と戦わされたり、その過程で同じ世界の人間が惨たらしく殺されたり、あとは……あの……名前をド忘れしてしまったが、眼鏡にパーカーの妙な女にデカい顔をされたりと、散々ではあった。
だがここは、受験のためだけの無駄な勉強もしなくていいし、僕に嫉妬して突っかかってくるだけの、無能なクラスメイトと顔も合わせなくて済むうえに、己の醜い承認欲求を満たすための道具としてしか僕を見てこなかった親とも、金輪際、食卓を囲わなくていいのだ。
本業である勇者としての活躍も順調だし、まさに言うことはない。
やがて旅館のフロントに差し掛かった時――僕は思わず足を止めた。
女性。
……女性だ。
そこには今まで見たこともないほど美しい女性がいた。
その艶のある黒髪は長く、後ろで綺麗にまとめ上げられており、薄桃色の花模様があしらわれた袴をなんの衒いもなく着こなしている。
そしてなにより、目元に冷たさを宿したその顔。
肌は透き通るように白く、目鼻立ちはくっきりとしている。
どこか気の強そうな印象のある顔つきなのに、どことなく寂しげな美しさを感じさせた。
眉の形ひとつ取っても、自分に自信のある人間のそれだ。
そして、ちょうどそのとき彼女はスッとバランスよく立ったまま、ブーツに足を入れているところだった。
僕はそれが艶めかしくも、どこか美しいと感じてしまった。
やがて彼女は僕の存在に気づくと、ちらりとこちらに視線を寄越してきた。
鋭くも、どこか遠くを見ているような、そんな目。
見抜かれるという感覚があるなら、おそらくそれが表現としては一番近いだろう。
「……あれ、牙神じゃん。何してんの、こんなところで」
「あ、え、あ……」
急に、それも気安く声をかけられたせいか、うまく言葉を紡げない。
苗字とはいえ、敬称を省いた名前で呼ばれたのは、かなり久しぶりだ。
おそらく僕のことを一方的に知ってくれている、ファンかなにかなのだろう。
たしかにそんな人は少なくはない。
なにせ勇者だ。
救世の象徴にして、悪を断罪する光の刃。
このような麗人が知っていたとしても、なんら不思議はない。
しかし、まずは平常心。平常心だ。
とりあえず深呼吸して心を落ち着かせよう。
これではとてもじゃないが、話なんてできる状態じゃない。
「あー……そういえばここ、例の旅館だったね」
「……例のとは?」
片足に体重を乗せ、前髪を指でかき上げて、悩ましげな視線を送る。
どうだ、この余裕たっぷりな仕草、立ち居振る舞い。
とてもDTとは思えまい。
「いやほら、最初に呼び出された時に用意してもらった旅館じゃんか、ここ。まだ使ってたんだねって」
ああ、なるほど。
そこまで詳細に僕の情報を知ってくれているとは。
どうやら彼女は、僕が召喚されたころからの熱心なファンのようだ。
すこし気恥ずかしいが、なかなか見る目があるじゃないか。
「……でも、それもそうだよね。掃除も洗濯もしなくていいし、それにごはんも三食付いてくるんだから、わざわざ自分で家買ったりとか、面倒くさいよね」
「そ、そう……だな! なかなかの……住み心地だ……!」
僕がそう言うと、彼女は眉をひそめて小首を傾げた。
どうかしたのだろうか。
もしかして知らないうちになにか、デリカシーに欠けるような発言をしてしまったのだろうか。
「……あの、やっぱ怒ってる?」
「怒る? 僕が? ……なぜだ?」
「気づいてたよね、魔法のこと……」
魔法……。
つまり彼女はなにか魔法に関することで、僕に迷惑をかけたと思い込んでいる。
ということだろうか。
そういえば――そうだ。
先日の依頼でずっとこの身に纏わりつくような視線を感じていた。
殺気というか、敵意のようなものは感じなかったので、放置していたが……そうか、あれは彼女だったのか。
なるほどなるほど、話は全てつながった。
「ククク……」
「えぇ……」
彼女はずっと待っていたのだ。
僕に話しかけられる、このタイミングを。
魔法というのは、おそらく僕が監視者(彼女だとは知らなかったが)を追い払うために連発していた高威力魔法のこと。
調子に乗って(決して怖かったからではない)、何度も放ったせいで早々に魔力切れを起こし、依頼がすこし滞ってしまったことを彼女は謝罪しているのだろう。
そうか。そういうことか。
僕の魔法を目の当たりにしたのにも拘らず、なかなか逃げ出さないなとは思っていたが、なんてことはない。
彼女のその美しい瞳には、僕の魔法ではなく、僕だけが映っていたのだから。
「……いや、気にしなくていい。それよりも怖がらせてしまったようだ……な」
「べつに怖がってはないけど、とりあえず、あのときは助かったよ」
助かった……?
ああ、そうか、僕が魔法を放つ姿を見て色々と助かったということだな。
「ふむ、そうか。キミの一助になれたのなら、僕も本望というやつ……さ」
「お、おう……まあ、牙神が気にしてないなら……そうだ、それなら補充がてら、また頼めたりとかって、できる?」
補充……?
ああ、そうか、また僕が魔法を放つ姿を見て、明日を生きる糧にするということか。
「……お安い御用さ」
「お、さすが。太っ腹だね。じゃあまたこっちから誘うよ、今度は二人でね」
「ふ、ふた……ッ!?」
「そう、誰にも見られたくないしね」
「みみみみ、見られ……!?」
それはもしや、デートというやつではなかろうか。
それに誰にも見られたくないとは、やはりそういう……?
なんということだ。
まさか彼女が僕に対してそこまで本気だったとは。
いいだろう。僕としても些かも吝かではない。
ここは男らしく、きっちりと、礼節を以て彼女をエスコートしてあげよう。
「そんじゃ、またね」
「あ、ああ……ま、また……」
いつの間にか彼女はブーツを履き終わっており、元気よく僕に手を振って、そのまま玄関口から出ていってしまった。
「ふむ……」
まだかまだか、と思っていたがついに僕にも訪れてしまったようだな。
モテ期というやつが。
さっそく部屋に戻って、万全の準備をしなければ。
そう考えて僕は踵を返すが、ふとそこで足をとめる。
「そういえば……名前、訊いてなかったな」




