第33話 不戦敗とメタモルフォーゼ
「いない……ここにも……」
私は大きく開け放たれた障子の奥を覗き、そこに誰かの気配がないことを確認すると、すぐさま次の部屋へ向かった。
ここは旧武家屋敷を改装した修練場……といっても、その広さはそこそこ大きい神社の境内くらいはある。
庭先を囲むように建てられた廊下が四方に走り、それぞれの部屋が縁側越しにつながっている。
ぐるりと回れる造りとはいえ、この広さでは隅々を探すだけでも骨が折れる。
「……いない、ここも……いない、ここにも……っ」
一部屋ごとに、
畳の上に座布団だけが置かれた控え室。
今は誰も使っていない稽古用の道場。
使い古された木剣が乱雑に立てかけられた倉庫のような部屋を確認していく。
しかしその中のひとつとして、鰤里さんの姿は見当たらなかった。
それでも足を止めるわけにはいかない。
須貝さんと雨井がギルド側と交渉して、得た猶予はもう残っていない。
私は廊下を曲がり、さらに奥へと踏み入っていく。
通路の向こうからは、軽食を手にした見物人や、腰に手ぬぐいを巻いた者が、厠へ向かう姿もちらほら見える。
中には先ほどまでの試合の感想を語り合うギルド関係者の姿もあったが、どうやら皆自分の用事で手一杯の様子だ。
まるで球場のような様相を呈しており、幸いにも、この場において誰も私を気に留めてはいないようだ。
「いったいどこに――」
〝ドン!〟
前方への注意が疎かになっていたせいで、誰かとぶつかってしまう。
私はじんじんと痛む鼻先を押さえながら、その人に謝った。
「す、すみません……急いでいまして……」
「ったいのぉ……って、東雲はんやないか。どないしたん」
「え、愚堂さん……?」
見ると、頬にガーゼを貼っている愚堂さんが立っていた。
そういえば鰤里さんは愚堂さんに付いて行っていたはず。
それなら――
「ぐ、愚堂さん!」
「お、おう、なんや急に大声出して……」
「鰤里さん、見ませんでした?」
「庵人? いや、見てへんけど……あいつ、どっか行ったんか?」
「え、愚堂さんは知らないんですか?」
「ああ、知らん。たしかに医務室まで付き添ってもろてたけど、僕が治療受けてるときに帰ったからな」
「それ以降は……?」
「そっからは会ってへんからようわからんけど……てか今、どないなっとるん?」
「次鋒の上流さんも負けて、後がない状態です。そのうえ鰤里さんもいないので、今、なんとか須貝さんと雨井……さんに場を繋いでもらってる状態なんですけど、いつまで持つか」
「そうか……ここで駄弁ってる暇は無さそうやな。ほな僕も探すから、二手に分かれよか」
「わかりました。それで、どういうふうに……?」
「東雲はんが見落としてる可能性もあるから、僕は東雲はんが来た道もっぺん探してみる。東雲はんはこのままで頼むわ」
「わ、わかりました」
「ほな、見つけたらそのまま控え所まで連れて行くからな」
「はい!」
愚堂さんはそう言い残し、足早に立ち去った。
探すとは言ったが、もう時間がない。
無理言って先に副将戦から始めてもらったほうがいいのかな。
いや、無理言って時間作ってもらってるのに、その結果いなかったので、先進めてくださいってのはちょっと……とりあえず一度戻って、二人に事情を説明したほうが……って、こうしてるうちに鰤里さんが戻ってる可能性もあるし、いや、もし戻ってたら開始の合図が鳴ってるはずだし――
「どうしたら……!」
「なにがスか?」
「……ス」
突然、私の背後から妙に聞き覚えのある語尾が聞こえてくる。
「も、もしかして、鰤里さん……!?」
私は嬉々として振り返るが、そこに立っていたのは――
「観に来たっスよ。まっさんの雄姿を」
よれよれTシャツの魔王だった。
もっさんは露店で買ったのか、水あめを美味しそうにペロペロと舐めている。
「なんでこんなところに……」
「まっさんに出版差し止められたっスからね。暇になったんで、こうやって観戦に来たんス。それにしてもピンチっスね。もう後ないじゃないっスか」
「……ごめん。いまもっさんと話してる場合じゃないんだ」
「おや。なにかあったんスか?」
「次、中堅戦なんだけど、その人が消えちゃってさ」
「敵前逃亡っスか」
「そうじゃない……と、思いたいけどね」
「まぁ、組み合わせ的に次負けたら終わりっスからね。気負いすぎて嫌になって逃げちゃった……って気持ちも、わからなくはないっス」
「……そうだ。もっさん、魔王の力を使って人探しとかできないの?」
「あはは。いいっスね、それ。でもごめん。あたし、そんな力ないんス」
「な、なんだよぉ……って、そういえば――」
今更だが、この違和感に気づく。
周囲の人間が至って普通に、歩いたり話していたりしているのだ。
特にこちらを気にする様子も、警戒する様子もない。
ここに魔王がいるにもかかわらず。
寿司屋ではあれだけ女将さんに怖がられていたのに。
ギルドではあんなに恐れられていたのに。
「……もしかして、もっさんの姿って今、私にしか見えてないとかじゃないよね?」
「ああ、これっスか? 今は普通に姿を晒してるっスからね」
「姿を……晒す……?」
「そういえばまだ言ってなかったっスね。あたしは不特定多数の認知を歪めること。……平たく言えば、変身をすることが出来るんス」
「変身?」
「ま、厳密には変身とはちょっと違うんスけどね。……今、まっさんの前にいるのは、紛れもないあたしなんスけど、こうやって――」
〝パチン〟
もっさんが指を鳴らすと、途端に周囲の視線がこちらに……というか、もっさんのほうに注がれた。
もっさんになにか変わった様子はない。
しかし、明らかにさきほどまでと同じ空気ではない。
そして――
「ま、魔王だあああああああああ!」
ひとりの声を皮切りに、この場が阿鼻叫喚に包まれる。
皆、叫び声を上げたり、逃げ惑ったりしている。
しかし再びもっさんが〝パチン〟と指を鳴らせば――
「ど、どうしましたか……!?」
騒ぎを聞きつけたギルドの職員らしき青年が現れる。
「ま、魔王が……! 魔王がいたんだ……! 急に現れて……!」
「ま、魔王!? そ、それはどこに……!?」
「す、すすす、すぐそこ……に……あれ?」
男性はもっさんを指さしながら、きょろきょろと辺りを見回している。
「あ、あの……魔王は……?」
職員が再度、男性問いかけるが――
「い、いや、いたんだ、たしかに……みんなも見たよなあ! なあ!?」
まるで狐にでもつままれたように、皆は首を傾げたり、男に同調したりしている。
パニックは収まったが、場は軽い混乱状態だ。
これはどういうことだろう。
相変わらずもっさんの姿形は一切変わっていないのに、ここにいる人たちの反応はがらりと変わっていた。
まるでさっきまで本当に魔王がそこにいたかのような――
「これが、認知を歪ませる力っス」
「めた……」
なんかそれっぽい名前が出てきたな。
「まっさんからはあたしが変わったようには見えなかった。けれど、周囲の人間はあたしが一瞬、魔王に見えた」
「じゃ、じゃあ……あの、お寿司屋さんの時も……?」
「ああ、あれは〝魔王アスモデウス〟と会っている証拠が必要だったから、魔王として入店してたんスよ。そうじゃないと鉄級そこらの人間が、魔王と話してました……なんて、信じないでしょ?」
「な、なるほど……たしかに」
「要するに、見せたい対象に見せたい姿形を見せる力っスね」
一見、面白そうな能力だと思ったが、なんて恐ろしい能力だ。
なにせ、見せたい対象にどんな姿形でも見せられ――
「ん? どんな姿形でも……?」
「どうしたんスか」
「ちょっと待って。ひょっとしたらそのもっさんの能力、使えるかも」
「まぁ便利っスよ。とはいってもこれ、あたしだけの力じゃ――」
「いや、そうじゃなくて、今まさに私に必要なものだと思うんだよね」
「え、どういうことっスか?」
「うん。それに、その語尾もいい」
「な、なんなんス……」
「ねえ、もっさん。ちょっと耳貸してくれない?」




