第3話 市井千尋の戦う理由
「でた」
万が一いるかなとは思っていた。
でもまさか、あんな高級そうな宿で出るとは思わなかった。
きちんと対策しているものだと思っていたのだ。
「でたでたでた……! う~わ……でちゃったよ……!」
私はあまりのことに自分がインドア派であることも忘れ、一目散に宿を飛び出し、夜の闇に紛れようとした……のだが、どうやら今日はお祭りらしい。
宿を出てすぐ、ほんのりと甘い香りが風に混じって私の鼻先をかすめた。
ドロドロになるまで煮切った醤油と砂糖がすこし焦げたような、なんともいえない食欲を掻き立てられる香りである。
この世界だと、何にぬって食べているのだろう。
餅か、鶏か、トウモロコシか、はたまた――
気が付くと私は、祭りの参加者の一人として人混みに混じっていた。
Gもわざわざ私の部屋に来るより、こちらに来たほうが食料とかいっぱいあったのに。
「おう! イカ食ってくかい?」
呼ばれた気がして見てみると、すでに茶色く変色している鉄板の上で、ジュウジュウと景気よく焼かれているイカが目に入ってきた。
派手な色でも、大きくも小さくもない、何の変哲もない普通のイカ焼き。
「おいしそう……」
気が付くと、私の口から言葉が自然と出ていた。
とはいえ、これで懸念点のひとつである食糧問題が解決した。
食文化に関しては、我々と非常に近いものであると断言できる。……したい。
これで変な味だったらどうしよう。
立ち直れないかもしれない。
「だろ? ……にしても姉ちゃん、面白い服着てるね!」
面白い服。
たしかに私の周囲には着物を着ている人ばかりだ。
そんな中でパーカーとデニムの組み合わせが、人の目を引くのも仕方ないというものだ。
「外国から来たのかい?」
「え? ええ、まぁ……」
嘘……ではないはず。
まぁ、間違ってはいないと思う。
「それにしても、今日は何かの記念日なんですか?」
「ああ、外国人の姉ちゃんなら知らないのは当然だな。今日は勇者様が降臨なさる日でね。こうして街をあげて、歓迎してるところなんだよ」
「へ、へぇ……そう……なんスね……」
当の本人はなにも聞かされてなかったのだが。
「で、どうだい?」
「へ? なにが?」
「イカだよ。姉ちゃん美人だし、まけといてやるよ」
「じゃあ……まぁ、一本」
十中八九営業トークだろうけど、ちょっぴり嬉しいから買ってしまう。
私はギルドからもらった財布から小銭を取り出すと、イカ焼きと交換した。
「まいど! 明日もやってるから、よかったらまた来てよ!」
「明日……」
よかった。
私だけ知らされてなかったからハブられたのかと思ったけど、これで合点がいった。
つまり〝祭りは連日やるわけだから、べつに転移したばかりの今日は疲れてるだろうし、誘わないでおこう〟みたいな感じで、追々ギルドの誰かから祭りについて聞けるようになっていたのだろう。
……そうであってほしい。
「さて……」
私は周囲を見回すと、とりあえず落ち着ける場所を探した。
歩きながら食べるという行為に慣れていないし、誰かの一張羅を汚して迷惑をかけるのもわるいからだ。
私は人混みの間を抜けるように、石畳の上を歩いた。
屋台のちょうちんがふいに風に揺れ、影が地面に踊る。
ふと祭りの喧騒からはすこし離れた場所、川の畔に目をやると、そこにはひとりぽつんと腰を下ろしている女性がいた。
肩を落とし、その視線は綺麗な月でも川でもなく、自身の足元に注がれている。
手は膝の上に置かれており、力なく組まれていた。
それに加えてあの凶悪なフォルム。
まず見間違えるはずはない。
市井さんだ。
私は声をかけるかどうか迷ったが、その今にも消えてしまいそうな様子の彼女を放っておくことが出来ず、おそるおそる近づいていった。
「や、やぁ、こんばんは……月とか、綺麗ですね……」
これからする話は、どう足掻いても楽しくなるようなものじゃない。
ならせめて最初は明るく振舞おう。……と思ったが、どうやら不発だったようだ。
私が話しかけると彼女はわずかに肩を震わせ、ゆっくりと私のほうを向いた。
「あ、東雲さん……」
「大丈夫ですか……って、大丈夫なわけないですよね……」
「……ありがとうございます」
「へ?」
「あの時、私をかばってくれようとしたんですよね?」
「え、いや、そういうわけじゃ……」
本心はそうだったかもしれないが、実際に言葉は私の口から出てこなかった。
ならそれは何もしてあげれてないのと同じだ。
「隣、どうですか? すこし汚い場所ですが」
市井さんは冗談っぽく言うと、そのまま横に少しズレてみせた。
さきほどの私の小粋なギャグに対してのカウンターだろうか。
特に気の利いた返しが思い浮かばなかった私は、そのまま彼女の隣、すこし地面が露出した場所に腰を下ろした。
「……ずるいですよね、私」
「ずるい……ですか?」
「こちらの世界の方々は、自分たちが大変なのに、私たちの為にお祭りを開いてくれたりしていて、けど、肝心の私は怖気づいて動けない」
「いや、正直私含め他二人がおかしいだけで、市井さんは普通だと思いますよ」
「そんなことはありません。人のために何かをする。何かができるということは、それだけですごいことだと、私は思います」
誰かの為に、ね。
戸瀬さんはともかく、牙神くんのほうは私と同じく、この世界に興奮していたように見えたけど――
「あいだっ……!」
私がほんのすこし内省を深めていると、近くで何やら声が聞こえてきた。
見ると、十歳くらいの男の子がうつぶせの状態で地面に倒れ込んでいた。
おそらくド派手に顔からいったのだろう。
泣くぞ、すぐ泣くぞ、なんて思っていると、隣にいた市井さんが立ち上がり、男の子のほうへ駆け出した。
そのあまりの敏捷性に私はぽかんと口を開けるのみであった。
「大丈夫?」
「う、うん……」
さっきまであんなに泣きそうだったのに。
綺麗なお姉さんの前で強がりたかったのだろうか、男の子は口を堅く一文字に結んで耐えている。
「お、偉いね。でも……あちゃー、ちょっと膝擦りむいちゃってるね」
「うん……」
「ごめんね、ちょっと痛むかもだけど、我慢してね」
「え?」
市井さんはそう言うとどこからか水を取り出し、それを患部にかけたと思ったら、今度は自分の服を破って、その傷が露出しないように縛り付けた。
まるで何百、何千回と繰り返しているような手慣れた動きだ。
「うん、とりあえずこんな感じかな。傷はあんまり触らないでね。治りが遅くなっちゃうし、痕になるかもしれないから」
「う、うん……! ありがとう、お姉ちゃん……!」
男の子はそれだけ言うと、照れくさそうにまた祭りの喧騒の中へと紛れていった。
市井さんも市井さんで、何かを噛みしめるように、男の子が見えなくなるまで見送っていた。
やがて満足したのか、市井さんはまた私の横に腰を下ろす。
「……私、看護師なんです」
「ああ、どうりで……」
テキパキしてるはずだ。
「はい。……昔、私の母が重い病気に罹ったことがあって、父は仕事が忙しくて全然お見舞いとか来れなかったんですけど、私は学校が終わったら毎日行ってて、でも母は基本的に寝たきりで、起きている時は気丈に振舞ってくれてたんですけど……」
「けど?」
「こうして看護師になった今だと病状もわかったりするから……」
「当時はかなり無理をしていたと」
私がそう言うと、市井さんはゆっくりと頷いた。
「そう……だったんですね……いいお母さんだったんですね」
「あ、ちなみに母は今は全然ピンピンしていますよ?」
「な、なんだ……」
よかった。
てっきり市井さんのお母さんは……と思ったけど、大丈夫だったのね。
「けど、そんな母や私を励ましてくれたり、看護してくれたのが、すごく素敵な看護婦さんだったんです。後に母から聞いたんですけど、もしあの人が担当じゃなかったらどうなってたかわからないって」
「なるほど、それで……」
「はい。その看護婦さんに少しでも近づこうと思って、私は看護師になったんです」
「すごいじゃないですか。子供のころからの夢をかなえることが出来て」
「……いえ、全然ですよ。私が手に入れたのは、勉強で得た肩書だけ……」
市井さんはそう言って、自嘲気味に微笑んだ。
それでも私からすると十分すごいと思うんだけどな。
「だから、あの看護婦さんには全然近づけていない。現に私は、自分が怖いからという理由で、この世界の皆さんを、私から遠ざけようとしていたんです。東雲さんたちは前へ進んでいたのに……」
「市井さんだって進んでると思いますよ」
「え?」
「こうやって悩んで、他人と比べてみて、自己嫌悪に陥って……たしかに一見、その場に停滞してるように見えるけど、たぶん市井さんはちゃんと進んでるんですよ」
「東雲さん……」
「というか、前へ進むための段階を踏んでるんだと思います。蝶だって一旦サナギにならないと羽化できないでしょ?」
私が苦し紛れっぽく励ますと、市井さんは目をきょとんと丸め――
「……ぷ。あははは……!」
噴き出してしまった。
私は私で、なんか急に恥ずかしくなってきて、手にしていたイカ焼きをバクバクと頬張ってしまう。
それを見ていた市井さんは余計に楽しそうに笑った。
多少冷めてしまったが、焦げた醤油のタレの香りとイカの旨味が融合していて普通にうまい。
もう帰ろうかな。
「ご、ごめんなさい……急に笑っちゃって……真面目に良い話をイカ焼き片手に言われるのが面白くて……」
「ほふか」
「……それ、美味しそうですね」
「ふまいふよ」
「なら、一緒に屋台回りませんか? もらったお金ですが、私が奢りますよ」
「……もういいの?」
私がそう尋ねると、市井さんはすこし間をおいてから頷いてみせた。
「はい。今まで見えなかったものが見えたといいますか、改めて自分が何をしたかったのかが分かった気がします」
「そ、そっか」
なんかよくわからんが、立ち直れたのならヨシ。
「ほら東雲さん、あっちのタコ焼きみたいなの美味しそうですよ!」
◇◇◇
「……うぷ」
結局、屋台メシをほぼコンプリートしてしまった。
後半はほとんど拷問だったが、千尋のアレが凶悪な理由も、あの大食いにありそうな気がする。
だが、よかった。
体は、特に胃がはち切れんばかりだが、心は充実している。
なにより千尋とちゃんと話すことができた。
私はのそのそとした足取りで、再び宿の暖簾をくぐる。
「あら、おでかけしてらしたんですね、勇者様」
出迎えた(というよりはたまたま通りかかった)のは宿の女将さんだった。
まぁ、お出かけというか、出かけさせられたというか。
というか、もうGは消えてくれたのだろうか。
ここはすこし皮肉交じりに尋ねてみるか。
「ええ、なにぶん部屋にアレがでてしまったもので」
「……あれ?」
女将さんが不思議そうに首をかしげた。
「虫ですよ、ムシ。茶色くて、すばしっこくて、追い詰めたら飛ぶヤツ」
本当にわかっていなさそうなので、私はあえて口に出してみることにしたが――
「あの……当宿は〝虫除けの結界〟を張ってますので……虫は入れないはずですが?」
「……え?」