第22話 罠と誘導
私の気持ちに反して朝の山の空気は澄んでおり、ひとたび吸い込めば肺の中に新鮮な空気が充満していく。
鳥のさえずりが遠くで響き、昨晩の出来事がまるで夢だったかのように思えた。
でも、あれは決して夢じゃない。
本当の正念場はここからなんだ。
「じゃ、俺たちはこれで。本当にお世話になりました、夜屋久さん」
「ありがとうございます。なにからなにまで……」
荷物を背負った雨井が、背中を軽く丸めながら夜屋久に頭を下げる。
私もその隣で軽く一礼する。
「そうかい。気をつけて行くんだよ」
夜屋久さんは昨夜と同じ穏やかな微笑をたたえたまま戸口に立っていた。
まるで何も知らない、ただの山奥の老婦人のように見える。
「あの、本当によろしかったのですか……」
雨井が懐から巾着袋を差し出すと、夜屋久さんはそれを両手で押し戻した。
「気持ちだけもらっとくよ」
「ですが……」
「久しぶりに人と話せて、楽しかったんだ。……なに、老い先短い婆さんが金もらったところで使い道なんてないさね」
夜屋久さんは相変わらずの笑顔でそう答えた。
もういっそのこと、今この場ですべてを問いただしたい。
しかしここで変に警戒されてしまうと、このあとの行動に差し支えてしまう。
私は出かけた言葉をぐっと飲みこんだ。
「ほら、そんな無粋なものしまって」
私が冗談ぽくそう言うと、雨井は渋々といった様子で巾着袋を懐にしまった。
「では、本当にお世話になりました」
最後にそう言葉をかけ、私たちはそのまま家を後にした。
すこし歩いてからちらりと振り返ると、夜屋久さんはまだこちらに向けて小さく手を振ってくれている。
「……なんか、あれだな。騙してるみたいで気が引けるな」
雨井が前を向き、歩きながら話しかけてくる。
「いや、どの口が……って、そっか。そうだね。昨日のは、夜屋久さんを安心させるための方便だもんね」
「……なぁ、仮におまえの言うことが本当だとして、なんで夜屋久さんは、酒呑童子と手を組むなんて真似してんだ?」
「動機? さあね、戸瀬にすごい恨みを持ってる。……なんてのはなさそうだし……」
たしかに考えてみれば妙ではある。
酒呑童子をけしかけて人々から金品を奪うわけでも、人里を襲わせているわけでもなさそうだ。
昨日一晩泊まっただけだが、夜屋久さんはただあそこで質素な生活を営んでいただけ。
そんな夜屋久さんが酒呑童子と手を組む理由――
「まぁ、調べていくうちに明らかになるんじゃない?」
「相変わらず楽観的だな。……それより、本当にこのまま綾羅に帰っていいのか?」
「帰って準備しないと、野営できないっしょ。夜屋久さんが尻尾出すまでに、何日かかるかわかんないんだし」
「それもそうだが……」
なにやら雨井の表情がすぐれない。
そんなにも私の作戦が気に入らないのだろうか。
「気が進まない?」
「……いや、そうじゃないんだ」
「じゃあなに?」
「改めて、昨日の夜は運がよかったなと思ってな」
「運?」
「だって、そうじゃねえか。勝手に酒呑童子が驚いて、逃げてくれたからよかったけどよ、あのまま戦闘ってことになってたらって思うとな……ゾッとしねえよ……」
雨井はまるで感触を確かめるように、何度も右手を握っている。
たしかに雨井の視点からすると、勇者戸瀬を重体に追い込んだうえに、触れれば未知の毒に侵されるという、危険極まりない敵に見えただろう。
けど、正直なところ私はそうは思わなかった。
昨日の一件で、あの毒の対処法がわかったからだ。
もう一度やることがあれば、今度は私たちには効かない……はず。
戸瀬がやられた理由も、今ならなんとなく理解できる。
……まぁ、そんなこと言っといて、奥の手とか持ってたらまずいんだけどね。
「いやほら、そもそも私たちの任務は酒呑童子の討伐じゃなくて、情報収集だからさ」
「お、おう。それもそうだな……!」
雨井は安堵したのか、胸をなでおろしている。
怖がってしまうのも無理もないとはいえ、図体のデカいこいつがここまでビビり散らかしてるのも面白い。
昨日のことが相当堪えているのだろう。
「んじゃ、有益な情報のために頑張りますか」
「おう。……それにしても、鬼に薬……って、どっかで聞いたような気が……」
◇◇◇
「……御者の人、不思議そうな顔だったね」
「そりゃあな。こんな、なんもないところで降ろせって言われりゃ、そりゃ変に思うだろ」
私たちはそれなりの準備をしてから、夜屋久さんの住んでいる山のふもと、その街道付近まで戻ってきていた。
陽はとっぷりと沈んでおり、代わりに少し欠けた月が顔をのぞかせている。
辺りにはキモい虫たちが奏でる美しい音色が響いていた。
すかさず私はステータスオープンを使い、周囲に酒呑童子がいないかどうかを探る。
映し出されている名前は私の名前と、雨井の名前と、さきほどの御者さんと思しき名前のみ。
これからは一瞬たりとも、この能力を閉じることはできない。
常に警戒を怠らないようにしないと。
なんてことを考えていると、御者さんの名前がリストから消えた。
ある程度距離が離れればここに表示されなくなるからだ。
ステータスオープンは今日も問題なく作動している。
「……じゃあ、消すね」
私は雨井に断りを入れると、画面を透過させて私にしか見えないよう調整した。
夜間だと画面がボーっと光って、目立ってしまうからだ。
「お、おう。……やっぱすげえ能力だな」
あと、私の能力についても、簡単にではあるが雨井に紹介した。
そのうえで昨晩のアレが酒呑童子であることも納得してくれた。
「まだアンロック……解除されてない能力もあるけどね。最初はいろいろ文句言ってたけど、今はこの能力でよかったと思ってる」
「解除の方法についてはわかんねえんだっけか?」
その問いに一瞬、千尋の顔が思い浮かぶ。
「……そうだね。なにが切っ掛けになってるかは、わかってない」
「まぁ、どのみち、そいつが俺たちの命綱なわけだからな。しっかり見といてくれよ」
「わかってる……って……」
私がそう言い終えるよりも前に、スッと名前が表示される。
〝夜屋久扇猫〟
私は画面から顔を上げると、改めて周囲を見回した。
月明かりに照らされてはいるものの、かなり暗い。
「なんだ。どうした、いきなり」
「いや、なんか夜屋久さんの名前が表示されて……」
「ここまで来たからだろ?」
「ううん、家までは相当距離がある。ここで表示されるってことは――」
「近くに……」
私は黙ってうなずくと、即座に画面を切り替えて明るさ調整で、明度を調整した。
月がまるで太陽のような光を放ちはじめ、辺りが真昼のごとく明転する。
目が闇に慣れていたため、ほんのすこし眼球が痛むが、それでも私は改めて周囲を見回した。
「……いた」
白髪の頭にピンと伸びた背筋、その後ろ姿。
夜屋久さんだ。
幸い、私たちの存在に彼女はまだ気づいていないようだ。
「どこだ」
「私の視線のずっと先。いまはしゃがみこんで、何か……草みたいなものを摘み取ってるみたい」
「草? ……薬の材料か?」
「そこまではわかんない。でも、たぶんそうじゃないかな」
「……にしても、暗くてぜんぜん見えねえな。それも真緒の能力ってやつか?」
「そう。だから今、あんたの頭、えぐいぐらい光ってて眩しい」
「そ、そうか。じゃあ、俺の頭も明るさ調整しとくか……」
雨井はそう言って、持ってきていた手ぬぐいで光る頭を隠した。
「あ、動いた。どっか行くみたい」
「追うか?」
「もちろん。できるだけ静かにね」
「わかってるよ」
こうして私たちは夜の山中、夜屋久さんの後を尾行することになった。




