第10話 世界の楔
「戸瀬さんがいらっしゃらないようです」
「……え、今なんて?」
そう紅月が報告に来たのは、丸い月がほぼ真上に昇った頃だった。
千尋と、音子ちゃん邸にて、眠っていた時の出来事だった。
とりあえず寝ている音子ちゃんを起こさないよう、私と千尋と、私たちを呼びに来た紅月で家の外に出てみると、そこには既に身支度を終えていた牙神の姿があった。
「紅月から聞いたな」
「いや、え、戸瀬が……?」
「ああ。行先はもう大体察しがつくだろ」
「……うん、でも……マジで? なんで?」
「知るか」
「あの、そもそもどうやって気づいたのかな?」
「あ、ほんとだ。千尋の言うとおり、書置きなんてするタイプじゃないでしょ、戸瀬って」
「私が最初に気がついたのです」
紅月が申し訳なさそうに名乗り出る。
「引き止めなかったの?」
「申し訳ありません。村民になにかを訊いて回る、戸瀬さんの姿はお見掛けしていたのですが……」
「ああ……なるほど、ミカミ山の場所訊いてたね、それ」
「はい、おそらくは」
「で、気になって見に行ったら……って感じ?」
私がそう尋ねると、紅月はゆっくりと頷いてみせた。
「おい東雲。ここでダラダラ呑気に話している場合じゃあないだろう。もしかしておまえまだ様子見を――」
「ううん、追いかけよう。ここまで来たらもう、夜だとか準備だとか言ってらんないよ」
「そうだよな。……フン。どいつもこいつも世話が焼ける」
〝人生で一度は言ってみたい台詞〟の実績をひとつ解除したであろう牙神は無視し、私たちは一路、ミカミ山へと急いだ。
◇◇◇
「今更だが東雲ここでいちおう確認しておきたい」
先頭を早歩きで進む牙神が振り返ることなく、言葉を投げかけてくる。
すでにここ、月明かりに照らされている街道を歩き続けて、はや一時間ほどになる。
紅月が言うにはミカミ山まではまだあるらしいが、すでにここに来るまでにいくつかの戦闘の痕跡を見ている。
おそらく戸瀬が魔物と戦ったものだろう。
「いまの僕たちの目的はなんだ」
「……暴走した戸瀬の捕獲だね」
私はステータス画面を見ながら答える。
これは主に索敵のためだが、戸瀬のお陰か、今のところ一度も会敵していない。
とはいえ、常に画面と地面とを交互に見ながら歩くのは、まだ慣れない。
「ほ、捕獲って……真緒ちゃん……」
「それよりも先に戸瀬がオオムカデと戦闘をしていた場合はどうするんだ」
「それは……まぁ、その時考えようよ」
「おいおいいいのかそれで問題を先送りしているだけじゃないのか」
「うん、たしかにそれもあるよ。今はそんなことあんまり考えたくないって。でも、今からあれこれ想定して動きたくないんだよね」
「なぜだ」
「ある程度想定して動いて、相手がその通りに動いてくれるなら、それが一番いいけど、実際、そうじゃないでしょ?」
「フム。たしかにな。敵の戦力は未知かつ強大。もし想定していた事柄ではない事が一度起こってしまえば立て直しに時間が掛かりその時点で詰む」
「まぁ、そういうこ――」
その瞬間、ステータス画面に何かが映りこむ。
職業 : 繧ィ繝ュ貍ォ逕サ螳カ
名前 : 鬲皮視繧「繧ケ繝「繝?え繧ケ
レベル: 貂ャ螳壻ク崎?
なに……これ。文字化けしていて何も読み取れない。
でもわかる。
これは今までにない――
「みんな! 警戒して! 何かいる!」
私の声を合図に皆が一斉に固まり、円を作る。
この円陣だけは事前に決めていた行動だ。
これにより360°どこから敵が襲い掛かってきても――
『フリムクナ』
冷たい、まるで背筋の凍るような声が背後から聞こえてきた。
おかしい。
さっきまでそこには何も、誰もいなかったはずだ。
それなのにこれは――
『オマエ タチハ イマカラ センタクヲ セマラレル』
「選択……? それはどういう――」
『ヒトツ ウシナウカ ヒトツ ウシナウカダ』
「いや、どっちも失うんかい」
『サラバダ マタ チカイウチニ アイマミエル デアロウ』
「え、あ、ちょ――」
私はすぐ振り返ってみたが、そこには皆の背中があるだけ。
何かは一方的に意味不明なことを言って、立ち去ったようだ。
「あれは一体……紅月、わかる?」
「い……いえ……」
紅月が珍しく取り乱すように、口をパクパクとさせながら答える。
それは他の二人も一緒だったみたいで……。
「真緒ちゃん……さっき……よく……しゃべれてたね……」
千尋も喉を押さえて苦しそうにしている。
「え、たしかに背筋がゾクゾクってする感じはあったけど、しゃべれないほどじゃ……」
「それより東雲、さっきのヤツはなんだったんだ。おまえ、ステータス画面を見ていたんだろう?」
牙神が珍しく早口ではなく、息継ぎをする話し方をしている。
彼もさっきの魔物(?)の変な気に中てられたのだろう。
「あ、それなんだけどさ、たしかに名前とか職業とか映り込んではいたんだけど……」
「だけど、なんなんだ?」
「文字化けみたいなことになってて、全然わからなかった」
「文字化け……野伏餓鬼の時はなんともなかったんだよな?」
「うん。そもそもの試行回数が少ないってのもあるけど、こういうことは初めてで……」
「現地人である紅月にも心当たりはなく、画面にも文字化けして映る……これは……」
「なにか心当たりでもあるの?」
千尋がおずおずと尋ねると、牙神はこくりと頷いた。
「超常的存在……ッ!」
「……ん?」
「おそらくこの時点で戦うには早すぎる、この世界におけるラスボス的な存在だろう。少々メタ読みっぽいがな。僕にはわかる」
牙神の発言でその場がしんと静まり返る。
「……申し訳ありません、私には牙神様がなにをおっしゃっているのか……」
紅月が困惑したような声で小さく手を挙げる。
「あー……大丈夫。彼が言ってるのは、私たちの世界にあったゲームとか漫画の話だから」
「なる……ほど?」
紅月はなんとか納得してくれたみたいだ。
この世界にもそういう娯楽ってあったりするのだろうか。
それか、これ以上この話を深掘りするのをばかばかしいと思ったか。
……おそらく後者だろう。
彼女の瞳には若干、落胆の色が見える。
「……それよりも、さっきの人? 魔物? が言ってたこと、ちょっと気になるね」
千尋が速やかに本題に戻してくれる。
「うん、たしかに。ひとつ失うか、ひとつ失うかの選択を迫られるってことだよね」
「どういうことなんだろ……」
「どのみちここで悩んでいても仕方がないだろう。僕たちは先に進まなければならない」
「……うん、それもそうだね。気を取り直していこう」
多少の足止めは食ったものの、私たちは気を取り直し、再びミカミ山へ向かって歩き始めた。
……心に刺さった超常的存在が放った言葉を感じながら。