空想の存在
突如、わたしの前に現れた人ならざる緑の鬼の化け物。その恐ろしい姿は空想でも映像でもなく、実際に質量を持って確かにわたしの目の前に存在している。
一瞬止まった心臓の鼓動が、今度は激しく鳴り響く。ゴブリンの持つ、ぎらりと光る錆び付いたナタが視界に入るたび、無事では済まされないという直感が、わたしの恐怖心を加速させる。
――おかしいよ、こんなの!
異世界転生の主人公なら、転生前に女神様とかそんな感じの存在にチートスキルでももらって、易々とこの窮地を脱するのだろうが、わたしは主人公でもないしチートスキルをもらっていないどころか、武器すら持たされていない。
ついさっきまでは、ベッドで横たわることしかできなかった、ただの病人だ。
ゴブリンは低い唸り声を上げ、ナタを振りかざし、わたしへ飛びかかる。
「ひぃ!」
やっとの思いで発せられたわたしの声は、あまりに情けない悲鳴だった。
ゴブリンは決して速くない。見てから避けるのは容易なはずだった。しかし、わたしが恐怖しているのは、化け物に刃物を振り下ろされているという事実。
この突然の非日常感に、まったく頭が働かなくて、それ故に……体も。
ザシュ!
肩から胸に走る衝撃――心臓を直接殴られたかのような息苦しさ。
わたしの体は宙に浮き、砂利だらけの地面に叩きつけられた。
「うぐぁ!?」
斬られたのか? 衝撃は感じたが、痛みは感じない。ゲームだから?
視界のHPバーが二割ほど削れていることに気づく。このバーの意味するものは、おそらくわたしの生命力。このまま攻撃を受け続け、HPバーがなくなったら、わたしは死ぬ。
――殺される? 死んだらどうなる?
このゲームで死んだらどうなるのか、その説明すらされていないではないか。
分からない以上、簡単に殺されるわけにはいかない。第一、いきなり訳も分からない森で何の説明もなしに、ゴブリンに黙って蹂躙されるなんて、そんなのはモブの死に方だ。
一度斬られて吹っ切れたからか、少しだけ冷静になった気がする。丸腰で、よく分からない状況に、目の前には刃物を持った化け物。ならば、取るべき手段は一つ。
――逃げる!
わたしは化け物に背を向けて走り出そうと、きびすを返した。
「なっ!?」
後ろにいるはずのゴブリンがなぜか目の前に。
その黄色い双眸を歪ませて笑い、わたしへナタを振り下ろそうとしていた。
「うっ!?」
その凶刃はわたしの体を激しく斬りつけ、その衝撃で体は宙に浮く。
――なんでゴブリンが急に後ろに!?
地面に体を打ちつけるまでの刹那、わたしは思い至った。
――二体……!
HPが半分まで削られてしまう。二体もいるとなると、逃げるのも難しい。
「……あーあ」
わたしは大の字で森の吹き抜けから覗く青い空を見上げた。
「ほんっと、綺麗な空」
どれだけ理不尽で不親切であろうと、《夢想世界》の空は極めて美しかった。
そういえば、病院のテラスから、良くこうやって理由も無く空を眺めていた。
こうしてみると、《夢想世界》も《現実世界》の空も、何も変わらない。あらゆる理不尽がひと時だけ、どうでも良くなるくらい雄大で広い。
一応ゲームであるわけだから、死ぬわけでもないだろうし、潔く受け入れよう。
――もしこれがライトノベルなら、誰かが助けてくれて、運命的な出会いを果たすんだろうなぁ。
なんてことを考えて、わたしは目を閉じて、自分のHPバーがなくなるのを待った。
――――――――――
――あれ? これ、死んだの?
体に何の衝撃もないまま、数十秒が経過した。
おそるおそる目を開けてみると、HPバーは半分あり、目を瞑る前から変わっていない。
――死んでない?
次の瞬間、わたしの顔を覗き込むようにして視界に突如入ってきた影。
今どき風の黒髪マッシュに、青く吸い込まれそうな瞳、耳にはピアス。
「新しいゴブリン……?」
「誰がゴブリンだ」
黒髪の青年は間髪入れずにそう答える。
紛れもなく、人だ。
「運命的な出会い……きた?」
「何寝ぼけたこと言ってんだ」
彼は呆れたように眉をひそめ、すぐさまわたしの腕を取り、引きずるように私の体を起こす。
「立てるか?」
「あ、う、うん……」
少しよろめいてしまうが、青年はわたしの体を支えてくれる。「ありがとう」と乾いたような声で伝えた。
わたしは周りを見渡すと、先ほどまでいた二体のゴブリンは跡形もなく消えている。
彼がやっつけてくれたのだろうか? こんな一瞬で?
「もしかして、助けてくれた?」
「……こんなところで何してる?」
質問に質問で返してくる青年。
何をしているか聞かれても、何をしているかは答えられない。何をするべきか分からないんだから。
「わからない……」
わたしがそう答えると、青年は少し考えてつぶやいた。
「記憶喪失系か……」
記憶喪失……?
わたしは別に記憶を失ったわけではない。まだこの世界に降り立ったばかりで何も分からないから、記憶がそもそも無いと言った方が正しい。
とにかく人に会えたのだ。このゲームのこと、聞きたいことが山ほどある。
「あのっ……」
口を開こうとした時だった。
プーッ!プーッ!
――また警告音!?
思わず耳を塞ぎたくなるようなやかましい音に、顔を歪める。
目の前に表示されるのは《Emergency!!》の文字。
――あれ、さっきは《Warning!!》じゃなかったっけ?
黒髪の青年は少し複雑な表情を浮かべた後、手を前にかざす。すると、ガラスを打ち付けるような高い音と共に、わたしの背丈近くはありそうな長さの長剣を出現させる。青年はためらいなくその長剣を片手で振るい、わたしの周囲を一瞥した。
「下がってろ」
彼の言葉と同時に、森の奥からざわり、と不穏な風が巻き起こる。枝葉の向こうから先ほどよりも大量の黒い煙が立ち込め、ゴブリン――いや、それよりも遥かに大きい、醜悪な巨体が闇から這い出してくる。
冗談みたいに巨大なその存在は、見るからに異常なオーラを発していた。わたしはただ呆然と立ち尽くすしかない。HPバーが減るどころか、今度こそ一撃で消し飛ばされるだろうという直感が全身を走った。
「あれとやる気!?」
片手に巨大な斧を携えており、その斧を地面に叩きつけると、轟音と共に空気が震えるのを感じた。
その気迫に、わたしは無意識のうちに後ずさりをしていた。
「逃げ出すなよ。背を向けたヤツを積極的に狙ってくる」
その青年の言葉にわたしは「はっ」として、足を止める。
こんな正真正銘の化け物の相手を、人が務まるのだろうか。文章や想像の世界を遥かに凌駕する緊迫感に、わたしはごくりと唾を飲んだ。
「安心しろよ。何度も倒したヤツだ」
青年はそう言った。しかしその表情は真剣そのもので、あまり余裕は感じられなかった。
モンスターも人も、部位によってや攻撃の当たり方によって細かくダメージが変動します。
あまりにも強い攻撃に当たると、部位が欠損したりします。プレイヤーも同じです。