虚な世界
ふと、聞こえたきた鳥のさえずり。
風で木の葉がサーっと揺らめく音。
優しい風がわたしの身体を撫で、それに乗せられた青臭い匂いがわたしの鼻腔に伝う。
とても心地が良かった。
——もう少し寝よう。
感じたことの無い清涼感に、簡単に目覚めてしまうのがもったいなく感じたわたしは、目を開けることを拒む。
わたしを包む風は布団。
鳥のさえずりは子守歌。
自然が生み出した最高の寝床に、わたしはその意識を微睡みに任せる。
「ん……?」
わたしは大きな違和感を感じ、微睡みに失いかけていた意識を取り戻す。
パチッと目を開けたわたしの視界に入るのは、木の葉の間から差し込む朝日の光。
がばっとその体を起こして周囲を見渡すと、その眼前に映ったのは、うっそうとした木々が何本も不規則に並び、風でその蓄えている葉を揺らめかせている光景。
「……え?」
思わず、気の抜けた声が漏れた。
不意に少し強めの風が吹き付け、わたしの髪が揺れる。
――髪?
恐る恐る、自分の髪の毛を触ってみる。
しっとりと滑らかな手触りだ。前髪は目にかからないくらいまで伸びており、後ろ髪は肩にかからない程度に切り揃えられており、そしてなにより……。
「白い……」
透き通るような綺麗な白髪だった。
その時、服の間から入った冷たい空気が私の肌を直接伝い、肌寒さを覚え、自分の姿を確認すると、ボロ臭い薄緑色のワンピース一枚と、腰に革のベルトを巻き付けてあるだけであった。
その下は、身に着けた覚えも、所持してる覚えも無い、可愛げの欠片も無いような白い下着。
「何この格好……」
そして、全く身に覚えのないネックレスを身につけいる。
手にとってみると、透き通るような水晶で装飾が施されている。
「綺麗……」
自分の置かれている状況に納得いく答えを模索しようと、更に辺りを見渡すが、自分の視界に違和感のある無機質なものが見えている事に気づく。
視界の左上に《HP》という緑色のバーと、《MP》という青色のバー。さらに左にはその二つのバーと繋がるようにオレンジ色の円形のゲージ。そして円の中央に100と表示された数字。
それらはわたしの視界に映り続け、目を瞑らない限り、消える事はない。
このバーの意味することが私には理解できなかったが、非現実な事象を目の当たりにして、やっとわたしは思い至る。
――そうだ、私……ゲームをしてるんだ。
――――――――――
わたし倉木 永遠は、一歳の頃に重い病気を患った。
詳しい病名など、説明したところで意味もないので省略する。要は通常の人より寿命が短いという事で、二十歳まで生きる事ができないと言われている。
ほんの少し歩いただけで身体中の骨が折れてしまう為、ずっと病院のベッドで暮らしていた。
――暮らしと呼べるような人間らしい生活は送ってなかった気がするけど。
そんなわけで、わたしは病院の外の世界を知らない。
一般人の感覚で言うと、ベッドが自分の家。自室が外。その他病院内が外国みたいなものだろうか。……病院の外は、宇宙?
少々過剰な表現をしたかもしれないが、それほどわたしの行動範囲は狭かった。
両親はどうしているか? 当然の疑問だろう。
お父さんは大企業の社長……らしい。こうして医療設備が潤沢に整っている病院にわたしを長年預けられているのもそれが理由だ。
お母さんは、わたしの事をずっと心配してくれている優しい人……だった。まだ幼い頃、毎日わたしに会いにきてくれていた。最後に顔を見たのは、七歳の頃だったか。
お父さんは、わたしの事をそもそも愛してなかった。
お母さんは、弱っていくわたしを見守っていけるほど強くなかった。
――ただ、それだけの話。
言い忘れていた。この春、わたしは十九歳になった。「おめでとう」の代わりに言い渡されたのは、余命宣告。
宣告通り、後半年でわたしのこの空虚な人生が終わるらしい。
悲しかった? それとも嬉しかった? ……よく分からなかった。
ただ、死んだらどうなるのだろうと、少し考えただけ。もう何も期待なんてしないし、全てに諦めもついていた。
わたしの現実世界の憧れは、膨らませれば膨らませるほど、虚しく、悲しく、妬ましくなるだけ。それに気づいてから、病室からテレビを撤去してもらい、ありとあらゆる外の情報を遮断した。
そんなわたしの人生を写したような空っぽの部屋で、普段一体何をしているのかと思うだろうが、退屈はしてなかった。
ライトノベルに異世界転生というジャンルがあるのをご存知だろうか。
基本的な流れとして、主人公がなんらかの原因で死を迎え、こことは異なる異世界……剣と魔法のファンタジーの世界に転生し、冒険をするというものだ。わたしは仲の良い看護師に頼んではライトノベルを買ってきてもらい、それを読み漁っていた。
異世界転生に強くひかれた理由は、別の世界で新たな生を受けるという共通の設定だ。わたしが死んだら、別の世界で生まれ変わって、色んなところに行って、色んな人と出会って……そんな空想を何度も思い描いていた。
分かっている。ただのフィクションだって事。そんな事起きるわけない夢物語だって事。
しかし、異世界の冒険物語を夢想するのは私だけじゃない。
世界中のみんなが憧れる異世界。その憧れに、健康で普通な人間も、余命宣告を受けた寝たきりな人間も、関係なんて無い。
そんな憧れに慰めて貰う毎日に、転機が訪れる。
きっかけは、担当医である久瀬 春樹に、とあるものを渡された事からだった。
それは、ヘッドセットにも良く似た白い機械。形状からして、頭に装着するものだと言う事は想像できるのだが。
「それはゲームだ」
久瀬先生は唐突にそう言った。
ゲーム、どういうものかは知っている。だが、わたしの知っているゲームとはおおよそかけ離れているその形状に、わたしは首を傾げる。
素っ頓狂なわたしの様子を見た先生は、目の前の椅子に腰掛けて言った。
「やっぱり知らないんだな」
「だって、テレビとか見ないし」
先生の言い方からして、そこそこ有名なゲームという事なのだろうか。
五年程だろうか、外の情報を絶って生活していたのだ。どれほど人気だろうが知る由も無い。それに、今更ゲームなんてやらない。やる体力も無いし、興味も無い。
「先生の意図は分からないけど、今のわたしにゲームは……」
そんな私の言葉を遮るように先生は言った。
「異世界転生。好きだったな」
無意識のうちにわたしの眉はぴくっと動いた。
そんなわたしの僅かな表情の変化を見抜いたのか、先生は畳みかけるように話し続ける。
「このゲームの舞台は、剣と魔法の世界。永遠ちゃんのよく知るファンタジー世界だ」
と、淡々に話す久瀬先生。
異世界が舞台のゲームだからなんだと言うのだ。異世界はどう足掻こうがフィクションの世界。
画面越しに、わたしでない誰かが異世界を走り回るのを眺める事が、空想で異世界を思い描くことと何が違うのか、少なくとも私には分からない。
先生には悪いが、断りを入れようと口を開こうとした時だった。
「その機械は、お前の意識のみをゲームの世界に連れて行ける代物だ」
――意識のみをゲームの世界に連れていける?
たしか、ライトノベルにそんなジャンルがあった。読んだことは無いが、確か……。
「《仮想世界》……VRって事ですか?」
さっきまでの興味無さげな反応とは、うって変わったわたしの態度に、先生は「ふっ」と笑って言った。
「そう捉えて貰っても構わないが、人類が実現したのは《仮想世界》じゃない」
先生は自分の頭を人差し指でトントンと軽く叩いて言った。
「人々の夢を操って作り出した世界、《夢想世界》だ」
――――――――――
突拍子もない話だった。
人の無意識下……つまり夢の世界で、限りなく実体験に近い体験ができる《DR》(Dream Reality)という技術。
それが今、オンラインゲームとして一般家庭に普及、一週間前から世界的ブームになっているという事。
「ここ数年、メディアに触れてこなかったお前には信じられない話かもしれないけどな」
わたしは先生に渡された、例のオンラインゲームの資料に目を通す。
《DRMMORPG ディザイア・オンライン》
全世界のプレイヤー達と見る……共通の夢。
途方も無い話過ぎて、想像できない。夢をコントロールなんて、どういう理屈が存在しているのか。
いや、そんな事はどうでも良いのだ。知りたいのはそんな事じゃない。
わたしの聞きたい事が分かっていたのか、久瀬先生は先に口を開いた。
「《夢想世界》は正しく夢の世界だ。人々の記憶や願い、想いから作られている。そう、自分の分身もな」
「その、《夢想世界》でなら、わたしは……」
「お前がそれを望むなら、きっとそうなる」
仮初とはいえ、自由な体を手に入れる事ができるという事。《夢想世界》という異世界を冒険できる事。
そんな喜びや期待という感情が、わたしの中で弾けると、自分でもそう思っていた。
……思っていたのに、そんな感情はまるで一陣の風のように吹いて消え、代わりに私の中に渦巻いた、ある感情。
――これだけ技術が進歩しても、わたしの病気は治せないんだ。
「……わたし、そのゲームやるよ」
わたしは細く呟いた。
現実から目を背ける為、夢の世界に逃げる。
――これは希望じゃない、ただの慰めだ。




