ザーザー……
真元海が波がうねり、潮の満干く様に揺れ動いていた。
視界いっぱいに広がるのは淡い赤色。もはや一転の青銅の海ではなく、赤鉄の海となっている。
空腔の四壁は輝く薄膜で覆われ、二転初階の象徴だ。
赤鉄真元海は空腔の四割四分を占め、その上空に春秋蝉が姿を現わしていた。
約一年の休眠を経て、その姿に回復の兆しが見える。
以前は枯れ朽ちた薪のように光沢なく荒れた表皮だったが、今は薄らかに油の光を宿している。
秋風に舞う枯葉のようだった羽根には微かに緑がかった新芽のような色合いが加わり、縁取られた黒線が欠損部を補い、完全な弧を描いている。
「春秋蝉……春と秋を経て回復するのか。再生から一年、つまり一巡の春秋を経たからこそ回復したのだ」
方源は春秋蝉を凝視しながら、新たな理解を得た。
蛊師の煉り・養い・用いる——その「用いる」には多様な方法が存在する。方源は春秋蝉と日夜接する中で、その本質を徐々(じょじょ)に把握しつつあった。
「だが春秋蝉は未だ虚弱だ。瀕死の崖から数歩這い出したに過ぎぬ。使えるのはその威圧感で蛊虫を制圧し、単煉効率を高めることだけだ」
合練成功率を向上させるのは他の特殊蛊の領域。専門分野があるのだ。
春秋蝉の他に、海面では丸々(まるまる)と太った酒虫が球体になり海水に浮かび、楽しげに漂っている。
瓢虫のような白豕蛊と翡翠色の玉皮蛊が互いに周回しながら飛び回っている。
方源はゆっくりと瞼を開き、自らの右手の平を広げた。掌の中央には三日月と二つ(ふたつ)の五芒星の紋が浮かんでいた。
錆蛊二匹と月光蛊が宿る証しである。
床に坐禅する方源の視線が敷き布団へ移る。
その上には三つの錢袋が置かれていた——二つは膨らみ、残り一つは半分以上が空になっている。更に猪王の雪白き牙が象牙のように方源の脚に寄り添うように横たわっていた。
病蛇小組が死力を尽くして猪王を倒した後、電狼群の襲撃に遭い、猪王の肉体の大半が喰い荒らされた。残された二本の純白の牙が唯一の戦利品だった。
族規に従い、猪王討伐の功労者である方源は無償で一本の牙を獲得していた。
「元石が底をついた……残りで合練一回分か」方源は眼前の品々(しなじな)を見詰めながら眉を寄せた。「成功しようが失敗しようが、これで経済は破綻する。だが十日も経てば元石の消耗で合練すらできなくなる」
七匹の蛊を飼育する経済的負担に加え、丙等資質の壁を突破するため酒虫を頻用した結果、元石消費量が常軌を逸していた。
最近は空腔の真元回復に元石を使わず、自力で赤鉄海を維持している。
「崖縁にぶら下がり、掴んだ草が切れかけている……」
今の彼に必要なのは、残された草を手掛かりに崖を攀じ登る決死の跳躍だ。
成功すれば遺産を手に新天地を拓け、失敗すれば再起に膨大な時間を要する。
「とにかく、始めるぞ」方源は深く息を吸い、目に決意を燃やした。
白豕蛊と玉皮蛊が空腔から這い出し、方源の眼前に浮かび上が(あ)がった。
「合せ!」心で喝を入れると、二匹の蛊が眩しい白光を放ちながら激突した。
衝撃音も無く、光の塊が生じる。白き輝きは前回より強烈で、両蛊の意識が融合しつつある証しだ。
光団を意識で維持しつつ、方源は錢袋から元石を次々(つぎつぎ)と投げ込んだ。
光が元石を飲み込む度に、白い粉が布団に散らばった。光団は天然真元を吸収し、洗面器大きさから石臼程まで膨らんだ。
「頃合いだ」方源が細目になり、猪王の雪白き牙を握りしめ光団へ投じ入れた。
この行為を見れば常人は驚愕するだろう。白豕蛊と玉皮蛊の合練法は千年も前から知られており、牙の追加など聞いたことが無いからだ。
しかし過去に無くとも未来はある。実は150年後、ある蛊師がこの秘方を改良し、猪牙添加で成功率が飛躍することを発見するのだ。
方源は500年後の知識を携えて転生したため、この秘訣を知っていた。
雪白の牙が光団に投げ込まれると、不思議な変化が起きた。
眩しかった白光が瞬く間に柔らかな輝きへ変わり、四方八方へ放射していた光線が波紋のように流転し始めた。
方源が見守る中、光団は徐々(じょじょ)に収縮し、最終的に大気中へ溶け込んでいった。
玉皮蛊も白豕蛊も消え、新しい蛊が静かに浮遊している。
楕円形の玉石のような姿。全身は宣紙の白でも牛乳の白でもない——玉のような光沢を帯びた潤いのある白色だ。
これこそ二転蛊・白玉蛊。
「……成功か」ここに至って、方源はようやく安堵の息を吐き、胸のつかえが下りた。
一見単純に見えるこの過程にも、実は数多の危険が潜んでいた。
第一、意識の融合――多意識操作の要
普通の人間が片手で丸を描きつつ、もう片方で四角を描く「一心二用」すら困難だ。ましてや「一心多用」となれば、途方も無い修練が必要。失敗を重ね、天分も必要とする。方源がこれを軽々(かるがる)とこなせるのは、五百年に及ぶ経験の賜物に他ならない。
第二、蛊虫への深淵なる理解
蛊師が蛊を理解すればするほど、合練成功率は上昇する。この真実は三百年後に広く認知されることになる。長年使い込んだ蛊ほど合練しやすいのも、この原理による。
第三、正確で独創的な秘方
今回の雪牙添加のように、成功率を二割も向上させる画竜点睛の一手が存在する。古月山寨の月光蛊の秘方のように、五転以上の秘伝は一族の長だけが継承する。
しかし――
これら三要素を満たしても絶対の成功は約束されない。方源ほどの経験者でも失敗の可能性は残る。ただ凡人より失敗率が低いに過ぎぬ。
蛊虫合練とは生命の進化を刹那に凝縮する創造的行為。数十万年の自然淘汰を、瞬時きの焔で成し遂げる神秘の業なのだ。
蛊虫合練とは、生命の昇華であり創造と言える。永劫の時間を刹那に凝縮し、進化の過程を瞬時きに完結させる。
地球でこれを行えるのは神のみだ。
間違いなく、これは生命の奇跡。蛊師が凡人の身で神業を顕現させるのだ。どうして毎回成功できようか?
もし毎回成功するなら、それは人ではなく神である。