ゾウのように巨大な山猪が泥沼に横臥していた。
目を閉じたまま半ば跪き半ば横たわる姿。牙は泥垢一つ付かず、刃のように白く輝いている。
夕暮れの光が深黒い毛皮を照らす中、巨大な白い腹部が膨らみは引っ込みを繰り返し、呼吸の度にブーブーという音を立てていた。
山猪王だ!
方源は数百メートル離れた位置から、風下を慎重に移動していた。
「今の俺なら普通の山猪は倒せるが、こいつ相手じゃ逃げるしかねえ。二転の蛊師でも討ち取れねえだろう。ましてやこいつが持ってる蛊虫が分からねぇと、思わぬ失敗をすることになる」
この手の獣王には大概蛊虫が宿っている。山猪王なら豕蛊——粉豕蛊や花豕蛊が多い。他に獣皮蛊や刺毛虫を持ってる場合もある。
この世界には多種多様な蛊虫が存在する。強靭な獣と共生関係を結んでいるものも少なくない。
襲撃を受けると、蛊虫も危機感を覚えて宿主を助ける。この山猪王は並の山猪を凌駕する巨体、ましてや複数の蛊虫を隠し持っている可能性を考えると、正面から戦うのは無謀だ。
だが方源が危険を冒してここへ来た真の目的は狩猟ではない。王大の復讐を回避するための策だ。
王大が獣皮地図の存在を知っていることを逆手に取り、敢えて赤叉マークの山猪王棲息地へ向かう。
「山猪王は危険だが所詮獣。人間ほどの知恵はねえ。王老爺みたいな凡人でもここを探り無事に帰れたんだ。俺にできねえ道理がねえだろ?」
一見無謀に見えるこの選択こそ、実は活路が潜んでいた。
野猪王は徐々(じょ)に遠ざかり、方源の背後に消えていった。地図上で見れば、彼の進路は赤叉を避けて描かれた大きな弧を成し、家老たちが待機する丘へ向かっている。年中考査の評定はそこで行われる予定だ。
一時間後、草屑まみれで粗布の衣服が茨で裂け、足は泥だらけの少年が袋を背負い、歩き続けてこの丘に到着した。
惨めな姿の少年——方源だった。
「やっと無事に戻れた。家老が居れば安全は保証されるが……油断は禁物だ」心で呟きながら丘を登る。
丘上には簡素な小屋が建てられ、数十人の塾生が集まっていた。護衛たちが猪牙の数を確認する中、本来複数いるはずの家老は学堂家老一人だけだった。
「……何かが起きたのか?」方源は眉を寄せ、異様な空気を感じ取った。
小屋に近づくと、塾生たちの噂話が耳に入る。
「聞いたか? 今さっき暗殺事件があったんだって。二転蛊師が何人も死んだらしいぞ」
「マジで!?」
「本当さ。俺早く来てたから見たもん。古月方正が家老たちに担がれて急いで運ばれてった」
「甲等資質の奴が災難だなあ」
「目標が最初から奴だったんだろ? だからこそ大物が動いたんだぜ」
「死ぬかな……?」
「仮に助かっても資質が下がるかもな。致命傷じゃなくても……」
……
方源の足が自然と緩んだ。鏡のように澄んだ思考で、真相を瞬時く看破した。
「王大が親殺しの仇討ちに来たが、樹上小屋を見破られルートを変更。野猪王の領域へ直行したため、すれ違った。情報源の獵師たちが双子の存在を知らず、方正を俺と誤認して襲った……問題は王大の生死だ」
眉を深く刻む方源。王大が逃亡・捕縛・死亡のいずれかによって、今後の計画が左右される。
「……既定路線で進むべきだ」最終的な判断を下す。
一方、学堂家老の顔色は険しく、暗殺未遂事件に神経を尖らせていた。
「白家寨か熊家寨の仕業に違いない!」方正が甲等資質の天才である事実を考えれば、他山寨が芽を摘むのは当然。古月山寨も他勢力の俊才を暗殺しているのだ。
「刺客は即座に処刑されたが……方正の傷は?」心配が頭を掠めた時、護衛が紙片を差し出す。
心不在焉に成績表を読み上げる:「年中考査の結果……古月赤城十六本、古月漠北十四本……」
塾生たちの注意が徐々(じょじょ)に集まり始めた。数値が全て(すべて)を物語っていた。
丁等の塾生たちは協力しても猪牙を3~4本しか獲られず、丙等・乙等でも7~8本が関の山。10本超えれば優秀と言える。
首位は古月赤城の16本、次点が古月漠北の14本。方正は10本だった。赤城は得意満面──二頭の山猪が共喰いしている所を漁夫の利で仕留めた幸運に湧いていた。
漠北は歯噛みしながら赤城を睨み付ける。
学堂家老が宣告する:「以上、首位は──」
「待て!」方源が列から踏み出す。
「方源、お前は1時間遅刻。規定により猪牙4本減算だ」赤城が早合点に叫ぶ。
方源は無視し、背中の袋を逆さまに振る。
ざあっ!
白く輝く猪牙が数十本、足元に小山を形成した。
「なっ!?」赤城の顎が外れそうになる。
漠北らも目を瞠る。
「……これ全部お前の獲物か?」学堂家老が疑念交じりに見つめる。
方源が拱手して答える:「実際に狩ったのは十数本。だが獵師の隠匿袋を偶然発見。規則に『自ら狩る』とは明記されていなかったので持参しました」
塾生たちの騒然とした声が湧き上がる:
「ずるいぞ!」
「運が良すぎる!」
「事前に情報漏れてたんじゃ?」
学堂家老が方源を凝視した後、宣告する:「今回の首席は方源……」
当主の間に重苦しい空気が張り詰めていた。
古月博が上座に座り、十数人の家老たちが両側に整列。全員の顔に怒りが滲んでいた。
「古月薬姫、貴様は我が族随一の治療蛊師。方正の容体はどうだ?」族長が一人の老婆へ問いかける。
古月薬姫は猫背の老女で、樹皮のような皺が刻まれていた。
二度咳払いをしてゆっくり答えた:「申し上げます。現状は安定しております。生命に別状はなく、ただ昏睡状態が続いております。資質の低下も確認されません」
「下がらなければ良い」古月博が安堵の息を吐き、左側の刑務家老に振り向いた:「刺客の身元は?」
刑務家老は薬姫ほどの古参ではなかったため、即座に席から立ち上がり頭を少し垂れた:「判明しております。三十五歳、男性。正体不明の魔道蛊師で、幽影虫と愛生離の二種の蛊を所持しておりました」
古月博が頷く:「二転最強毒の愛生離か……我が族の蛊師三人を倒すのも当然だ」
「族長! これは白家寨か熊家寨の仕業に決まっておる!」古月赤練が怒声を張り上げ、目から火を噴かんばかりだった。
古月漠塵が冷たい声で続けた:「幽影虫や愛生離は他山寨の暗殺者の常套手段ではない。外部の魔道蛊師が忠誠を示すため襲撃した可能性が高い。いずれにせよ、両寨は関与しているはずだ」
この二人の権力家老は普段は不和だが、外敵が現れると成見を捨てて結束する。
古月博も同意見だった。
王大は三年間音信不通で、村人には死亡したと思われていたため、正体は謎のままだった。古月高層はこの事実を知らず、農奴の生死など気にも留めない。全員の矛先は白家寨と熊家寨に向いていた。
その時、学堂家老が部屋に入ってきた。
「族長……」憂色を浮かべる学堂家老に、古月博が先回りした:「心配無用だ。方正の資質は甲等のままだ」
学堂家老の表情が緩む。
「ところで他の塾生は? 考査の結果、方正の順位は?」古月博が追い打ちをかける。
事情説明を聞き、「方源が猪牙入り袋を拾って首席に」と告げられた瞬間、古月博の目が鋭く光った。
座敷に不自然な沈黙が流れる。家老たちが互いを探るように視線を交わす中、張り詰めた空気が微妙に変質していった。