初夏の夜空は美しい。
空に一片の雲もなく、水晶のような星が切ないほど輝いている。
檀香蟋蟀が龍丸蛐蛐に取って代わり、草叢や渓流のほとり、木々(きぎ)の枝で抒情的な歌を奏でていた。
古月山寨では点々(てんてん)と灯りが瞬き、星空と呼応しているかのようだ。青々(あおあお)とした竹楼が夜風に揺られ、静謐とした雰囲気を醸し出していた。
方源は山寨におらず、岩裂けの秘洞に潜んでいた。
片膝を地面につけ、右手で影壁に触れながら、掌から青白い月光を放っていた。
影壁には以前の絵模様は消え、周囲の岩壁と変わり映えしなかった。方源が位置を厳しく記憶していなければ、この下に花酒行者の力が封じられていることなど誰も気付かないだろう。
一ヶ月以上前の夜、影壁が異変を起こし、突然花酒行者の秘蔵が現れた。血にまみれた花酒行者が伝承を残す影像が浮かび上がり、続いて岩壁を破壊すれば洞口が現れるという血文字が現れた。その後文字は消え、留影存声蠱の力が尽きて、岩壁は元通りに戻った。
この秘密を知りながら、方源は調査する時間がなかった。賈金生を殺害した夜は現場の処理に追われ、その後の尋問に備えて策を練り、活動範囲を山寨内に限られていた。
賈富が去り、学堂家老が内密調査を終了して十日余り経ち、警戒が緩んだ今、ようやくここに戻って来ることができたのだ。
空竅の青銅海が緩やかに減っていく。方源は真元の流れを操り、右手の掌にある月光蠱に絶え間なく注ぎ込んでいた。
月光蠱が柔らかな月明かりを放ち、岩壁を削り続ける。暗赤色の石粉が雪のように降り積もっていた。
これは解石作業で培った微細な制御技術だ。岩壁破砕には荒っぽすぎるが、慎重を要する作業には最適だった。
六日連続で月光蠱を酷使した結果、床には人の背丈ほどの石粉の山ができていた。青茅山の土が通常青いのに対し、ここだけ不自然に赤黒く光る岩質。しかしこの暗光が逆に照明代わりとなり、松明不要で済んだ。
「音を立てるな」方源は鉄鎚やツルハシを使わず、ひたすら月光蠱に頼っていた。夏の夜に響く金属音は、例え微かでも疑念を招くリスクがある。
「細部こそが成否を分ける」
五百年の経験が、彼の骨の髄まで慎重さを染み込ませていた。
「はあ……」荒い息を吐きながら真元の供給を止めた。どっかりと地面に腰を下ろすと、腿の痺れに顔を顰めた。
人の背丈ほどあった影壁は既に三寸分の厚さを削られていた。指関節で岩壁を叩くと、空洞を思わせる反響が返ってきた。
空竅を内視すると、青銅元海はまだ二割残っている。
「続けるぞ!」方源は歯を食いしばり、再び右手を岩壁に押し当てた。
水色の月光が15分間輝き続けた後、彼は突然動作を止めた。右手を離すと、岩壁に小指大きさの穴が空いているのを発見し、顔に喜色が浮かんだ。
即座に立ち上がり、穴を蹴り込んだ。
ガラリと音が響き、穴は竹籠ほどの大きさに拡大した。
方源は慎重に数歩下がり、洞窟内に充満し始めた鬱陶しい空気を感じ取った。
換気の悪い秘洞を出て外気に触れ、十分に時間を置いてから再び中へ戻った。
洞内の空気が幾分改善しているのを確認すると、月光蠱を使ったり手で掘ったり足で蹴ったりしながら穴を拡張し、遂に楽に通れる大きさにした。
穴から覗くと、斜め下へ延びる真直な通路が広がっていた。入口付近は狭く体を折り曲げる必要があったが、奥へ進むほど天井高さが増し、最後には直立して歩けるようになる構造だ。
赤土の壁面から放たれる薄暗い赤い光が通路内を照らしていたが、角度の関係で最奥部までは見通せなかった。
方源は穴口に立ち尽くし、目を細めながらも一歩も踏み出さずにいた。
力の継承は遺蔵とは違う。
遺蔵とは蠱師が死んで残した物だ。発見者は死体から全部の物を一気に手に入れる。
力の継承は蠱師が死ぬ前に、自分の流派を絶やしたくないとか、後世に恵みを残すとか、世に痕跡を刻みたいとかいう理由で、自ら試練を設けるものだ。
花酒行者の場合、復讐者を育成して古月一族に仇討ちさせるためにはっきりした目的で作った継承だ。
後継者がこの試練を突破すれば、様々(さまざま)な利益が得られる。最終試験を合格した者が完全な力を継承する資格を得る。
陣営別に分けると、力の継承は正道の継承と魔道の継承になる。
正道の継承は通常、精巧に設計されていて、後継者の性格や道徳心を試す。途中失敗しても命の危険はない。
魔道の継承は複雑だ。
魔道の者は狂気じみていたり、冷酷無情だったり、人殺し(ひとごろし)だったりするから、常識で判断できない。
ある魔道の継承は精神を極限まで追い詰める謎解きになっている。一生かかっても解けない者もいる。
あるものは単純すぎて、密室に蠱虫と元石が置いてあるだけ。
あるものは残酷すぎて、失敗したら即死だ。
さらに酷い場合、魔君たちの継承が嘘そのものだったりする。他人を陥れるための罠で、「人を損ねても自分に得なし」の原則に従い、死ぬ間際まで人を騙そうとする。
「花酒行者のこの継承、いったいどれタイプだろうか?」方源は思索に耽った。
前世の記憶があれば、未来の有名な魔道継承は大抵知っている。だがこの継承だけは、前世で誰も発見しておらず、全くの未知だった。
「罠の可能性は低いはず。でなければ花酒行者がわざわざ影壁を作る必要がない。ただし仕掛けがあるかは…」
岩壁から剥がれた石を掴み、洞窟の奥へ投げ込んだ。石が通路の壁に跳ね返る音が響き、視界から消えた後も転がる音が長く続いた。
「安全そうだな」方源は頷きながらも、直ちに通路に入らず、石粉を洞口周辺に均一に撒いた。秘洞の入り口にも薄く敷き詰めた。
細い岩裂けを抜け出し、川原から数百m離れた藪陰で隠していた青竹酒を回収。封を切り豪快に飲み干し、意図的に衣服を濡らして酒臭く仕立て上げ(あ)げた。
酒瓶をぶら下げて山寨に戻り、宿舎に着いたのは丁度真夜中頃。
「毎晩外出すれば怪しまれる。前半に出て後半に帰るペースが最適だ」
酒虫探しの頃から続けるこの習慣が、今では自然な振る舞いに見えるようになっていた。
星が消え朝日が昇る頃、何事もなく夜が明けた。