今夜の月は格別に丸かった。
月光が紗のように青茅山を覆い、宝気黄銅蟾が百メートル単位で跳躍を繰り返していた。険しい山道など何の障害にもならなかった。
賈富一行はその背中に乗り、古月山寨から商隊へ戻る途中だった。耳を切るような風音、上下に揺れる視界。月明かりに照らされた人々(ひとびと)の顔は沈黙に包まれ、賈富の表情は氷のように冷たかった。
部下の一人が耐え切れず口を開いた:「ご主人様、このままでは…賈金生様の件、お父上にどうご説明なさいます?身代わりを用意すべきでは…」
賈富は首を振りながら問い返した:「人祖の物語を知っているか?」
部下は面喰った:「それは…」
「規矩二蠱で万蠱を捕らえた人祖の網に残った三匹――態度蠱・相信蠱・疑念蠱が賭けを申し出た。同時に逃げる中、結局捕まったのは何だ?」
「態度蠱では?」
「なぜだ?」
部下が首を傾げると、賈富は嗤った:「態度が全て(すべて)を物語るからだ。父上が『信じよう』と『疑おう』と、俺は全力で調査し、証拠集め、四転蠱まで使った『態度』を見せた」
「帰還後も鉄血冷を雇う。身代わりなど要らん。逆に賈貴の罠にはまるかもしれん」
部下が息を呑んだ:「まさか賈貴様が…!」
「奴以外にこんな巧妙な手口を使える者がいるか?」賈富の目が炎を噴いた。「兄弟の情を慮って手を緩めたのが間違いだった。ならばこそ――」
その時、賈富は気付かなかった。遠くの闇から、誰かが彼の後ろ姿を見送っていることを。
方源が丘の上に佇み、静かに見守っていた。
今宵の月は実に美しく冴え渡っている。黄金色の満月が夜空に懸かり、山々(やまやま)を透き通すように照らし出していた。
近くでは青々(あおあお)とした山肌が広がり、草木が生り茂る。松や杉、青茅山特有の青茅竹が連なり、頂上から麓まで黒緑の絨毯を敷き詰めたようだ。遠くの山々(やまやま)は月光に霞み、重たい影のように連なっている。
蛇行する山道は羊腸のごとく木立に遮られながら延び、宝気黄銅蟾に乗った賈富一行の姿が森に消えていく。
「賈金生殺害の厄介事、ようやく片付いた」方源の瞳に揺らぎはない。心の湖は凪ぎ返っていた。
あの夜賈金生を殺した時から、方源は後始末を考え続けていた。根拠地も後楯もない自分が真相を暴かれたら、古月一族に生贄にされるのは明らかだ。だが隠匿だけでは限界がある。
「優れた嘘は真実と虚偽が混じり合うもの」
この状況を将棋盤に例えるなら、賈富の商隊と古月の山寨が対峙している。古月博も学堂家老も、ましてや自分でさえ駒に過ぎない。
自らの駒を守るには、両陣営の対立を利用し、隙間に潜む機会を掴むしかない。
数日前から方源は布石を打っていた。
まず二人の護衛を利用し、学堂家老が作り上げた舞台で一芝居打った。酒虫の存在を隠すことで族内の好奇心を煽り、高層の注目を集めながら、家老に内密調査をさせた。
次に同輩を襲って衝動的で傲慢な性格を演出し、古月高層へ「弱みを見せる」ことに成功した。
そして時期を計り賈富を待ち受けた。
対決の場では稚拙で慌てる様子を演じ、無意識に人々(ひとびと)の思考を誘導して「真相」を発見させた。
最終的に古月一族と賈富の利害対立を利用し、自分を疑い続けていた学堂家老を逆に証人に仕立て上げ(あ)げた。
竹君子は予想外だったが、四転の春秋蝉の気配に押さえ込まれ、皮肉にも方源の無実を証明する最良の材料となった。
「酒虫の出所を完璧に説明した上、罪を無実の賈貴に被せ、自分は無傷で局面を突破した」
「学堂家老が残されたのは、古月博が学堂に干渉し、俺への圧力を解除するつもりだろう。奴の器量ならあり得る。だが真の目的は古月方正だ。騒動を起こして高層の注意を引くのも計画の一環だ。古月博が動かなくても、古月漠塵や古月赤練が名誉守るために出てくる」
「賈富は今頃賈貴を真犯人と確信しているはずだ。復讐の炎が燃え盛ってるだろう。ふふ、楽しみだ。この介入で兄弟の争いが激化する。もしかすると闘蠱大会が前倒しになるかもな」
「それと神捕の鉄血冷か。…ふん」方源は唇で名前を嚙み締め、「正道では名の通った人物らしいが、多忙で容易に動けまい。賈富が態度示すために招聘するだろうが、到着は早くても二、三年後か」
二、三年後には二転、いや三転の域に達している。その時には人生も別世界だろう。
夜風が吹き抜け、山間の清涼な空気に芳しい香りが混じっていた。
方源が深く息を吸い込むと、精神がますます爽快になっていく。
見渡す限りの山々(やまやま)が月明かりに照らされ、絵画のように静寂に包まれていた。
「明月松間に照り 清泉石上を流る」方源が呟くと、地球の寓話を思い出した。
月を追う猿の群れが井戸に映った月を見て掴もうとする。後ろの猿が前の猿の尾を掴み、鎖のように連なり、最前の猿が水面に触れる。
手を伸ばせば水が揺れ月が散る。
世の人間もまた然り。月影を見て真月と勘違いする。
井中の月、眼中の月、心中の月に過ぎぬことを悟らず。
「この身は真の月となりて 天を出で 雲海を戯れ 古今を照らし 暗黒の諸天を歩まん」方源の瞳が冴え渡り、緑濃き山々(やまやま)を映していた。
痩せた少年が丘に黙り込む。
黄金の月輪が円盤の如く夜空に懸かり、少年の渺小な影を淡く青石に刻んでいた。