風が耳元で嘯く。
金色の空は、輝きに満ちて絶倫の荘厳さを放っている。
天青狼群が空中を悠々(ゆうゆう)と歩み、方源は天青狼王の背に騎って疾走する。強風が彼の髪を後ろへなびかせる。
彼の目は沈み凝り、思索の色を浮かべている。此の数日間、彼は地丘伝承の密語を参悟し続けてきたが、残念ながら一片の進展も無い。
視界の果てから、円い平屋根を持つ輝ける宮殿が、徐ろに姿を現わした。
此れに気付くや、方源は即座に視線を移し、脳裏に渦巻く雑多な思考を一まず脇へ押しやった。
彼の顔に、一瞬の感懐の色が走った。
聖宮へ、遂に到着した!
方源が近付くに従って、巍峨とした宮殿が、徐ろに其の全貌を現わしてきた。
それは八層に分かれており、高さは八百丈余りもある。第一層は最下層で、敷地面積が最も広い。第二層は第一層の上に位置し、第三層以降も同様に積み上がっている。
各層には、城壁が同心円状に幾重も巡らされている。
雪のように白い城壁の厚さは三丈、壁面は一枚岩の如く隙間なく続いている。城壁には一定間隔で七色の塔が建てられており、各塔は赤・橙・黄・緑・青・藍・紫と、色とりどりに彩られている。
層を重ねるごとに、聖宮は聳え立つ山岳の如き威容を呈している。
方源が急速に接近するに従い、聖宮全体が地中から湧き上がるが如く、突如として蒼穹を貫く気勢を示す!
壮んなり、聖宮よ!
例え方源のように見聞広き者と雖も、此の光景に接しては、思わず賞賛の念が湧き上がる。
「天空を飛来するは何なるものか?」
「狼王、到着せり!」
「情報の通り、彼れは天青狼群に相違ない。」
方源の出現は、聖宮内の蛊師たちの注意も引き付けた。
此刻、聖宮には既に万人以上が駐屯している。此れらは運良く福地に進入した後、聖宮至近に配置された者たちで、方源より早く到着していた。
黒楼蘭は前以って指示してあった為、接待担当の蛊師たちは直ぐに反応した。
方源が徐ろに降下し始めると、既に第一層の巨大な城門前に人影が立ち並んでいた。
方源が騎乗する万狼王の足が地面に着くや否や、接待の蛊師が駆け寄り、跪いて報げた。「狼王様、御帰還おめでとう存じます。此方は三生有幸の者、貴方様の御案内を勤めさせて頂(いただきます。貴方様の御住居は第八層に御手配済みで、部屋も既に念入りに掃除済みで御座います。」
「ふむ、急かずとも、先ずは此の聖宮を拝観させて貰おう。」
方源は淡々(たんたん)と肯き、天青狼から降り立った。巨陽仙尊へ対する敬意から、聖宮内では騎獣に騎乗することは許されず、徒歩での移動が義務付け(つけ)られていた。
「畏まりました。此れ程の栄誉は御座いませぬ。」
接引蛊師は深く頭を垂れ、前方へ導いた。
聖宮内には、数多の亭閣や回廊が複雑に連なり合っている。外観は反り上がった軒と、燦然と輝く銅瓦が豪華絢爛の趣を放つ。
各建造物は有機的に連結し、層を重ねる毎に構造を変える。広々(ひろびろ)とし格調高い区画も有れば、複雑に入り組んだ廊下が迷路の如く続く区域も存在する。
亭閣や殿堂の内部に至っては、柱から梁に至るまで、極彩色の絵画や彫刻で埋め尽くされ、圧倒的な奢華さを誇っていた。
「旦那様、此処は怡楽宮で御座います。偉大な巨陽先祖は、今も聖宮に御住まいで、日々(ひび)此方で盛大な音楽祭を催されます。史書に拠りますれば、毎回多数の妃嬪が競って舞を献げ、先祖様の御寵愛を得ようとされた由で御座います」
「旦那様、此方は春湯殿と申し、北原随一の温泉が御座います。巨陽先祖様は七日毎に、数百の妃嬪を招き、共に湯浴みや遊戯を楽しまされたそうで御座います」
「此方が飄香院で御座います。巨陽先祖様は神話の『酒池』『肉林』を此処に移されました。暁毎に肉林では様々(さまざま)な味わいの肉果が実り、夜毎には酒池に香しき美酒が湧き出でる由で御座います」
接引蛊師は各所で縦横に説明を繰り広げ、其の口上は見事なものだった。
方源は悠然と歩き回り、各所を眺め回して、なかなか興味深い思いであった。
聖宮第四層に到着すると、接引蛊師は方源を正殿へ案内した。
「旦那様、此処は聖宮八大正宮の一つで御座います画宮で御座います。巨陽先祖様は多才多芸で、特に美人画を御得意とされて御座いました。此の宮中の壁画は、全て(すべて)御自身で描かれたものに御座います。何卒此方へ。」
接引蛊師は宫殿の側門を開け、方源に中へ進むよう促した。
聖宮の八大正宮にはそれぞれ正門が御座いますが、巨陽仙尊お一人のみが通行を許されていたので御座います。仙尊が既に逝去された現在でも、此の規則は守り継がれて御座います。後人が此れに従うのも、巨陽仙尊へ対する畏敬の念と敬愛の情を表すためで御座います。
宫殿内へ一歩足を踏み入れると、途端に壮大な壁画が方源の視界を埋め尽くした。
画宮の中は空っぽで、四方の巨大な壁面だけが存在していた。其の壁一面には、実に様々(さまざま)な美人が描かれている。艶やかで妖しい者、清純な水の如き者、歯を見せて笑う者、俯いて思案する者。その表情は一つ一つが生き写しで、数は八万にも上る!
「画宮に記録される栄えを得た女性は、皆巨陽先祖様が一時期寵愛された方々(かたがた)で御座います。当時、仙尊の直筆で絵に描かれることは、天下の女性にとって此の上ない栄誉で御座いました。先祖様の妃嬪は数知れずと御座いますが、此処に記された方々(かたがた)は選り抜きの佳麗であり、今も尚其の芳容を永えに伝えて御座います」
接引蛊師は此処まで言うと、顔いっぱいに感懐の色を浮かべた。
方源は黙って壁を眺めながら、心の中で独り呟いた。「芳容永伝とはいえ、せいぜい五百年ほどだろう。前世の記憶では、王庭福地は中洲の蛊仙たちに攻め落とされ、聖宮も絶響と化した。真の永生とは、例え仙尊と雖ども成し得ぬものか……」
傍の者が此処に来れば、聖宮の奢侈と富貴、堂々(どうどう)たる錦繡の気に圧倒され、例え夢中とは成らぬと雖も、心には畏敬の念が生ずるものである。
然し方源は、此の輝きの中から、一筋の衰退と腐朽を味わ(あじわ)い取った。
永生無き此の世では、例え仙尊の如き強者と雖も如何んせん?
千古に風流を極めた巨陽も、今や煙消雲散して跡形も無い。遺された痕跡は証左ではあるが、方源の感ずる所、其の証左は失敗の意味に満ち、淡い嘲笑と悲傷を帯びている。
興も既に尽きた。
「行こう。直接、八層目の住居へ案内してくれ。」
方源は一息つくと、淡々(たんたん)と指示した。
接引蛊師は慌てて臉上の陶酔した色を収め、躊躇し乍ら申し上げた。「然れども旦那様、聖宮の見所は数多御座います。此れより才是が始まりに過ぎませぬ!此れ等の外にも、美婦宮・幼女宮・嫵媚殿・純真殿が御座います。更には異香宮と申し、昔は女性の異人が住み、毛民さえも居りました。玉像宮には軟玉で作られた美人像が並び、先祖様の御賞玩に供されて御座いました」
接引蛊師は内心焦燥していた。彼が挙げた此等の場所は、其の身分のみでは入ることを許されない。此の機会を借りて思う存分に目の保養をしたかったのである。
然し方源は其の些やかな願いを叶えようとはしなかった。
巨陽仙尊は晚年に至っては、下界に降り聖宮に住むことは稀となり、長生天にあって深居簡出の生活を送っておられた。
而して北原では年毎に、多量の女子を選び聖宮を充実させていたのである。
巨陽仙尊が最期に聖宮を訪れた際、其の女子たちを寵愛することは無かった。八十八角真陽楼を建立し、王庭之争の規矩を定めた後、彼は鴻飛冥冥の如く世から姿を消したのである。
聖宮は其れより凋落し、其処に残された花の如き美貌の女子たちは、恰かも金糸雀が籠に閉じ込められたが如き有様であった。
王庭福地は広大なれども、自由が無ければ、如何なる広き場所も牢獄に等しい。
最終的に、彼女たち(かのじょたち)は一人残らず此処で青春を空しく費やした。逃げ出す術も無く、彼女たち(かのじょたち)を救い出さんとする者も誰一人現われなかった。
巨陽仙尊の偉大なる栄光の影には、数知れぬ女子たちの苦痛、哀怨、悲切が葬り去れている。
然れども方源の眼には、聖宮の価値はさして高くはない。
それは単に巨陽先祖の遺跡に過ぎず、蛊師として此処に伝承を残そうとする者は一人としていない。当年に遺された貴重品も、とっくに歴代の蛊師たちに収奪し尽くされている。仮令え後年、中洲の蛊仙たちが一斉に探査を試みたと雖も、彼等は空しく帰したのである。
聖宮において唯一価値ある場所、否、王庭福地全体を通じて、更には北原全体の中で最も価値ある場所こそは、
即ち第八層の頂上に聳える――八十八角真陽楼である!
巨陽仙尊の発議により、長毛老祖が自らの手で煉製した蛊屋である。
八転仙蛊屋!
然し今は、未だ其の時では無い。
第八層の頂上は、只虚しき空間が広がるのみである。十年に一度の猛吹雪が本格的に勃発した時、初めて八十八角真陽楼は漸く其の姿を現わすのである。
その後の日々(ひび)、方源は深居簡出の生活を送り、修行に励みつつ真陽楼開啓の時を待ち続けた。
天青狼群の管理は他の者に任せ、方源自ら気を揉む必要は無かった。
此の期間、黒楼蘭は使者を遣わして方源を招き、黒家に招れんの意向を仄めかした。
黒家に加わり、外姓家老と成るのか?
此の提案に対し、方源は一応考慮する様子を見せ、興味があるように装った。然し実際には、其のような選択をすることは決して無いのである。
人皮蛊は彼を狼王に偽装させるが、所詮は凡蛊である。仙蛊の探査に晒されれば、極めて高い確率で正体が露見するだろう。
外姓家老を招き入れるのは、北原地区の超勢力が常用する手口である。此れに依り、魔道蛊仙を正道の戦力へ転換でき、各黄金部族が北原の大局を把持する上で大きく寄与する。
然し星鷲峰での事件について、黒楼蘭は一言も触れなかった。代わりに、狼王の横暴振りや、方源が星鷲峰で如何に傍若無人に振舞い、強きを頼んで弱きを苛めたかと云う流言飛語が徐ろに広まり始めた。話は大袈裟に脚色されているが、何故か真実味を帯びている。
方源は心中冷笑した。明らかに誰かが黒幕で、彼の名誉を傷つけようとしているのだ。
「潘平の可能性が高く、孫湿寒らにも動機が有る。黒楼蘭でさえ怪しい。然し、仮令え我が名誉が地に堕ちようと、其所で如何なるというのか?」
巨陽仙尊が世に現われた頃、其の評判は最悪で、四方に花柳を尋ねる魔道蛊師として知られていた。然るに今や、誰もが敬う仙尊では無いか!
彼が広く後宮を設け、数多の少女の人生を踏みにじり、幾多の幸福を破壊したか?
されど今日に至るまで、彼を公然と非難する者は一人としていない。
此の世の一切は、力こそが根本なのである。
地球に於いては「人言畏るべく、三人虎を成す」と言う。其れは何故か?人皆凡夫の身であり、世界の規則が個の力が集団を超越することを許さないからだ。
然かし此処では、話は別である。
此れ正に方源が此の世界を好む理由の一つなのである。
二十日余が過ぎた頃、金色の空が水の如く微かに揺らめき始めた。
大地全体が微震し始める。
虚空より風が湧き起こり、聖宮の頂上にて、日輪の如く眩しい光の団が突如として盛んに放たれた。
其の光は茶を三服する程の時間、持続した後、漸く消え去っていった。元何も無かった場所に、一基の塔が姿を現わしている。
八十八角真陽楼!