方源が目を開いた時、眼前の光景は天地が引っ繰り返るほど変貌していた。
空は淡い金色に染まり、大地は春の如く緑青の棚田が広がり、静かに流れる河川と緩やかな丘陵が視界いっぱいに広がっていた。
此れは穏やかで平和な世界であり、吹雪の荒れ狂う外界とは鮮烈な対照を成していた。
此処は北原最大の避難所――王庭福地であり、十年に一度だけ開かれ、北原の覇者に授けられる特権の場なのである。
方源が周囲を見渡すと、彼ただ一人だけが立っていることに気付いた。
皆同じ(おなじ)入口から入ったにも関わらず、門戸を跨ぐ瞬間、参加者たちは散り散りに飛ばされ、福地内の各所にランダムに転送された。
これが慣例だと知る方源は驚かなかった。事前の約束どおり、此れから福地の中心へ向かって進む。そこには、巨陽仙尊が曾經住んでいた北原聖宮があるのだ。
「遂に来ることができた。」
方源は呼吸を整え、王庭争奪戦は単なる前哨戦に過ぎず、此れからが本番だと悟った。
彼は鷹揚蛊を起動させようと試みた。水晶色の真元が意思のままに鷹揚蛊に流れ込んだ。
さっ。
軽かな羽音と共に激痛が走り、彼の背中から翼幅一丈以上もある漆黒の鷹翼が二枚生え出た。
王庭福地では凡蛊の使用は禁じられていない。しかし仙蛊に至っては、如何なる福地も其を禁锢することはできない。
力強い鷹翼が軽く一振りされると、方源は瞬く間に空中へ舞い上がった。
大空を飛翔する彼を、福地全域に満がる独特の芳香を運ぶそよ風が優しく包んだ。
吹雪の荒ぶ外界の北原と比べれば、此処は穏やかで平和な極楽浄土の如きものであった。
方源は焦ることなく、悠然と飛行しながら周囲の風景を眺め回した。
王庭福地の地形は北原の地貌に極めて似ており、見渡す限り平野が広がっている。多少の丘陵もすべて緩やかな斜面で、その輪郭線は柔らかく優美に流れ、縁取りを失った翠緑の如く滑らかに延々(えんえん)と続いている。
しかし北原と異なる点は、八里毎に大地に聳え立つ塔の存在であった。
此れら塔楼は、方源に図騰柱を連想させた。各塔の高さは八丈に達し、真っ直ぐに屹立する姿は、表面が黄金と白銀で装われ、各種の宝石や瑪瑙が彫飾されて、誠に見事な出来栄えであった。
塔楼の内部は無数の区画に分かれており、蜂の巣の如き構造を成している。其の中には多種多様な蛊虫が生息していた。
福地内の虫群の中から蛊が誕生すると、其の蛊虫は群れから離れ、塔楼へ移り住む習性がある。
塔楼は巨陽仙尊の定めし配置であり、如何なる蛊も此処で自らに適う食料を見出すことができる。
各塔楼には数万の蛊が存在し、其の種類は実に多岐に渡る。普遍的な蛊は数多に存在するが、貴重な蛊は比較的少ない。
疑いもなく、各塔楼は莫大な富の塊である。例え方源と雖も、灼熱の視線を向けずにはいられなかった。彼は或る塔楼で、数千規模の星蛍蛊群さえ目撃しているのである!
「残念ながら、此れら蛊虫を勝手に採取することは絶対に許されない。王庭争奪戦開始時には、図々(ずうずう)しい蛊師が盗み取ろうとしたり、塔楼を攻撃して野生蛊を奪おうとする者もいた。然し其の結果は常に蝋燭の如く、全身の皮肉が溶け崩れ、惨白な骨格だけが地面に散りばめられる有様だった。」
方源は眼光を凝らして思った。
此れは福地の偉力であり、此の小世界そのものの力なのである。
凡人たる者は、如何なる者も抗うことはできない。
仮令え蛊仙であろうと、無様な姿に追い込まれるだけだ。
教訓は十分に浸透し、今では最早塔楼に手を出そうとする蛊師は一人もいない。
「源を遡れば、王庭福地を開拓した蛊仙は宇道蛊仙であり、その姓名は最早考えられない。故に、此の福地は同格の他の福地を遥かに凌ぐ広大さを有する。巨陽仙尊が未だ仙とならざる頃、幸運にも此処を相続し、福地の新主となった。巨陽が仙尊となって後、無上の偉力を手にすると、大規模な手段を布き、王庭争奪戦の伝統を定め、此の古の福地を今日まで継続させている。」
方源は飛行しつつ、心中で回想を巡らせていた。
仙尊の手法は既に彼の理解力の域を超えている。巨陽仙尊が如何にして此れを成し得たのかは不明だが、兎に角王庭福地は其の采配により、天劫や地災の悩みから完全に解放された。しーしーしー……
凡そ半刻飛行を続け、無数の塔楼を越えた後、小さな谷間の上空で、方源は一匹の巨蟒から挑発を受けた。
此の緋色の巨蟒は、体長三十丈は優に超える巨大な体躯で、其の太さは塔楼にも匹敵する。
頭部には鋭い一本角が生え、一対の真紅の血眸が空中の方源を凝視し、絶え間なく紫色の怪しい炎を纏った蛇信を吐き出している。
「おや?稀なる幽火龍蟒ではないか。」
方源は少し驚いた。
其の瞬間、巨蟒は血まみれの大口を開け、馬車ほどの大きさの青紫の火炎を吐き出した。
火炎が飛来するや、大気中の温度は急騰した。数百歩も離れているというのに、方源の頭髪と眉毛は焦げるような感じを受けた。青紫の火焔の温度の恐ろしさが窺える!
方源は軽く眉を上げるや、鷹翼を一振りし、一気に高度を稼いで火炎の攻撃を容易にかわした。
殺招――四臂風王!
彼は十数の蛊虫を同時に駆動し、空竅内の晶紫色の真元が激減し始めた。その傍らには、新たな二本の青銅の腕が現れた。
続いて、彼は墜ちる流星の如く、猛然と急降下した。
ドン!
彼は幽火龍蟒に激突し、熾烈な戦いを繰り広げた。
瞬時に、煙霞滾々(こんこん)と舞い上がり、火焰は四方八方に迸り、谷間は激震に揺れた。
幽火龍蟒は異獣王である。異獣の戦力は四转相当だが、其の中の王者は五转蛊師に匹敵する。然し方源は既に五转巅峰であり、殺招を発動した後の戦力は更に強まっていた。
幽火龍蟒が大人しく潜伏していれば、道を急ぐ方源には気付かれなかったかもしれない。然し其れが自ら挑発した為、方源は狩人が獲物を見つけた如く喜悦し、改良した殺招を其の身で実践することにした。
一炷の線香が燃え尽きる頃、塵埃は定まった。
方源は全身焦げて、面目全く変わり果て、崩れ落ちんばかりの谷間に立ち尽くしていた。
砕けた山石が、幽火龍蟒の大半の躯を埋め尽くした。方源は幾度か咳込み、幾口か吐血した。
改良後の殺招は、果たして後遺症が以前より遥かに軽減されていた。無論、此れは幽火龍蟒が人間の如き知恵を持たず、戦闘中に方源の弱点を分析できなかったからでもある。
仮し風を封じられたら、方源の心配事は更に増えていただろう。
此度の戦いは、決して容易なものではなかった。
王庭福地は環境が極めて良く、蛊虫が多数群生する為、幽火龍蟒の体には多量の炎道野生蛊が寄生していた。中には極めて高価なものも数種含まれている。
方源の殺招は鋭いが、炎道への防御には特に優れてはいない。
仮し火炎回避の手間を省けば、戦闘時間は更に三分の一以上短縮できたはずだ。
方源は戦場の掃討を始めた。
此の異獣王は全身が宝の山である。例えば蟒血は、血道蛊虫の最良の飼料となる。蟒皮や蟒筋などは、凡人の市場に出せば大きな騒動を引き起こすだろう。
中でも蛇躯の中にある幽火蛇胆は極めて貴重で、宝黄天で取引される市場価値も有る。
方源は時間短縮の為、手短に処理し、目に留まった物のみを蛊に収納して保管した。
「幽火龍蟒は家族単位で地洞に生息する。もし稚蟒が居れば、狐仙福地に移し放養できるかもしれない。将来の収入源となり得る。」
方源は此の点に気付き、周囲を探し回った。
間もなく、彼は発見を果たす。
「ふむ?此処に蛊師の伝承が存在していたのか。」
稚蟒は見付からなかったが、代わりに炎蓮の如き赤く輝く巨岩を偶然発見した。
彼の目利きで、此れが蛊師の仕業であることは瞬時に看破できた。
巨岩に近付くや否や、火蓮に酷似した此の岩は層を成して展開した。恰かも炎の蓮華が開花するが如くである。
火蓮の巨岩は完全に展開し、中にあった蛊虫と石碑とを露わにした。
石碑は巨岩と一体となっており、表面には北原の文字が刻まれていた。
方源は一目で状況を把握し、即座に経緯を悟った。此の伝承を残した炎道蛊師は火正君と名乗り、正道の四转蛊師であった。彼は誤って此の谷間に侵入し、幽火龍蟒に襲われて重傷を負った。死を目前にし、已む無く自身の蛊虫を残し、此の伝承を設けたのである。
若し将来、縁のある者が此処に訪れれば、彼が残した蛊虫は其の者のものとなるだろう。
火正君が残した蛊虫は、元々(もともと)七匹あった。しかし歳月を経るうちに四匹が死に、三匹のみが残されていた。
此の三匹の蛊虫の中で、方源の眼に叶うのは四转の炎瞳蛊ただ一匹のみであった。
蛊師が炎瞳蛊を駆動する時、其の視線の届く所には火焰が生じ、敵を灼焼する。此の様な便利な攻撃手段は、往々(おうおう)にして防ぎ様が無いものである。
然れども欠点も存在する。
例えば持続的に駆動し続けると、蛊師自身の双眼が焼け焦げる危険がある。之れを防ぐ為には、良質な治療蛊を使用し、更に其れ相応の他の蛊と組み合わせることで、此の様な後遺症を軽減せねばならない。
此の炎瞳蛊は、火正君の中核を成す蛊虫であった。
彼が残した蛊虫以外に、石碑には彼の記憶する蛊方も刻まれていた。
方源は三度視線を走らせ、此れら情報を悉く東窗蛊に保存した。
彼は炎道を修めてはいないが、此れら蛊方は将来の蛊煉りや修行において、傍側から示唆を与えるものだった。中でも炎瞳蛊の煉製法は、特に参考になる価値が高い。
其の蛊方に拠れば、四转の炎瞳蛊は三转の火眼蛊を基に、目击蛊を媒体として、関連する煉蛊材料を組み合わせて合煉されるという。
三转の火眼蛊は、方源の知るとおり、偵察用の消耗品である。両目を火眼へ改造し、霧を貫く視察能力を与える。然し成功は必至ではなく、失敗すれば失明する危険がある。
目击蛊についても方源は詳しく、黒家軍の浩激流が所持しているのを知っている。浩激流は以前、目击蛊を四转の换位蛊と組み合わせて使用したことがあった。
方源は炎瞳蛊を収納した。彼は炎道を修行する気は無い。
炎瞳蛊は彼自身の流派と一致せず、攻撃手法は便利ではあるが、視線接触への依存度が高く、極めて限定的である。
此の世には実に様々(さまざま)な奇想天外な蛊虫が存在し、視線を遮断する方法も無数にある。
最強の蛊虫など存在せず、存在するのは最強の蛊師のみである。
蛊虫は大いなる道の具現体に過ぎず、本質的には単なる工具である。蛊師が其れらを組み合わせて使用するからこそ、通常を超越する効果を発揮する。中でも特に(とくに)卓越した組み合わせは破解が難しく、殺招と称される。
「然るとすれば、此れが私が王庭福地で得た最初の蛊師伝承という訳だ。」
方源は少し考え、面白みを感じた。
王庭福地には、数多の蛊師伝承が秘められているのである。
何故なら、此処には最も天恵に恵まれた環境が存在し、外界に設けられた伝承の多くは、有縁者を待たずして天災や獣害によって破壊されてしまうからである。
更に、歴代王庭福地に入った蛊師は、悉く戦争を潜り抜けた豪傑ばかりである。仮令英雄でなくとも、少なくとも二挺の刷子は持っている。
故に、王庭福地内の伝承は極めて多岐に渡り、只縁ある者であれば、何がしかの収穫を得ることができるのである。
方源は入手した三匹の蛊虫を空竅に収め、石碑は粉微塵に破壊し尽くした。
最終的に、彼は更に探査を続けた。果たして一つの洞口を発見し、其の洞口に沿って地底奥深くへ進み、三十丈余りの深さにある地洞の中で、六個の幽火龍蟒の蛇蛋を発見した。
此れは彼を少し困らせた。
若し幼い幽火龍蟒であれば、方源は之れを摂り込み、狐仙福地に連れて行き、自由に狩りをさせることができる。
然し幽火龍蟒の蛇蛋は孵化が容易ではない。幽火と蟒血で日夜浸潤する必要があり、小龙蟒が殻を破って出た後も、幽火龍蟒の言伝身教を受け、自身の力を如何に使って狩りをするかを学ばねばならない。
方源には此の様な閑情逸致は無く、貴重な時間を浪費して、此の幾つかの蛇蛋を孵化する余裕は無い。
仕方無く、彼は此れらの蛇蛋を一旦収めることとした。其の後、彼は蒸し暑い地洞から抜け出し、此の地に未練は無く、高空へ飛び立ち、旅を続けた。