周囲の者たちの強い進言に、馬尊は顔色を鉄青に変え、断固として拒絶した。「否、我が馬家に逃げる卑怯者はおらぬ。戦い死にする勇士のみである。我は馬家の旗幟の一つ。逃げ出せば、全軍の士気に深刻な打撃を与える。我は引かぬ。未だ敗れてはおらぬ。此の手には天馬群が残っている!」
そう言うと、彼は心念を駆り立て、天馬たちを一斉に舞い上がらせた。其の様は、天に昇る白雲の如くであった。
神駒とも呼ぶべき天馬たちは、各々(おのおの)雪の如き毛並みを持ち、風に翻る鬣、純白の羽翼を存分に拡げている。
此れらの天馬は、馬家一族の誇りそのものである。
天馬群の雄姿を目にした馬家族人たちの胸に豪情が湧き起こり、動揺していた心情は速やかに静まっていった。
「其の通り、我々(われわれ)には天馬が……あっ!?」
馬英傑の言葉は半ばで途切れ、震愕の叫びに変わった。
見れば、方源は流星の如く飛来し、一片の回避の意思もなく、天馬群に激突したのである。
四转戦力に匹敵する天馬たちが、次々(つぎつぎ)に血煙の花と化した。
馬群は恐怖と絶望の嘶きを上げ、純白は踏み躙られ、羽根は無惨な馬屍と共に空中に散り、無力に漂った。
縦横無尽、阻む者なし!
方源は理不尽なまでに天馬群を貫通し、馬尊ら真上に到達した。
馬尊は呆然とし、周囲の蛊師たちは口を開けたまま方源を見上げ、心底から湧き上がる衝撃と無力感、そして恐怖に駆られていた。
方源の鬼神の如き姿は、深く彼等の心に刻み込まれ、以後消えることのない記憶となったのである!
「否! 我れは未だ敗れてはおらぬ!」
馬尊は我を忘れて叫び、殺招を発動せんとしたが、馬英傑に遮られた。
「叔父上、此れは私にやらせてください。此の殺招は一度発動すれば、貴方の境界が下落してしまいます。馬家は私無くとも良いですが、叔父上無しでは駄目なのです!」
馬英傑は叫びながら、その眼差しには決死の覚悟が滲んでいた。
「英傑……!」
馬尊の雄躯が震えた。眼前の、最も愛しき弟子の決意を痛い程感じ取っていた。
馬尊とて、自らの甥である英傑に犠牲を強いる訳にはいかなかった。
しかし馬英傑の言う通り、馬家は英傑無くとも回るが、馬群の指揮には馬尊自身が不可欠であった。今や鷹群は崩壊し、鼠群は当てにできない。もし此れで馬群までも失えば、馬家の敗北は確実である!
「何より、私が必ずしも死ぬ訳ではございません。叔父上、早く!」
言葉を残すと、馬英傑は心を静め、狂ったように真元を駆り立て、数匹の蛊虫へと注ぎ込んだ。
殺招――竜馬精神!
此れは大雪山の魔道蛊仙・雪松子が特に彼等の為に準備した殺招であった。
ヒヒーン、ヒヒーン……
周囲の駿馬たちが次々(つぎつぎ)に前脚を揚げ、凄絶にして狂気じみた嘶きを挙げた。
其の体からは大量の血汗が迸り出た。間もなく、彼等は一頭、また一頭と倒れ、息の根を止めた。
然し其の瞬間、七色に輝く虹の如き馬魂が、其れぞれの屍から湧き上がってきた。
「変異した馬魂か……」
方源の瞳孔が微かに収縮した。
通常の魂魄は、普通の人間の肉眼では到底観測できぬものだ。
其の馬魂たちは、頭に珊瑚の如き龍角を生やし、体型は生前と大差なく大小様々(さまざま)であった。更に七色の輝きを放ち、盲でなければ誰にでも視認できるほど鮮烈である。
龍馬は浮遊し、疾風の如き速さで方源に襲い掛かった。
方源は素早く後方へ飛び、距離を取りながら絶え間なく試し撃を繰り出した。
此の馬魂は極めて手強く、魂体である為、通常の物理攻撃は通用しない。同時に、仮し自爆すれば、各々(おのおの)が以前の鰭狼の魂爆と同程度の威力を有する。
方源の殺招は強力ではあるが、魂道の技では無い。三体の馬魂が同時に自爆すれば、彼とても耐え切れまい。
何と言っても、彼の魂は未だ千人魂に過ぎないのだから。
「但し、何故我れが正面から戦わねばならぬ?」
方源は嗤笑一声、空中から飄々(ひょうひょう)と地面に降り立った。
彼は単純な力道蛊師では無く、奴道の手管も備えている。次の瞬間、狼煙が滾々(こんこん)と湧き上がり、周囲の狼群を治療。狼嚎が響き渡り、狼群の戦力は数倍に跳ね上がった。
飢えた鮫の如き狼群は、馬英傑と馬尊へ向けて殺到した。
「卑劣千万!!」
馬英傑は瞬時にして、方源の陰険で恥知らずな本性を痛感したのである!
彼は殺招「龍馬精神」を発動する為に、周囲の大半の馬群を犠牲にし、変異した馬魂を形成した。
然し方源は馬魂と正面衝突せず、直接に狼群を死地に差し向けた。
狼群は命を懸けて馬魂の力を消耗させた。変異馬魂は狼群の猛攻に耐える為、次々(つぎつぎ)に輝きを失い、或いは消散し、或いは自爆した。
膨大な狼群の犠牲と引き換えに、馬魂の数は急減した。
方源は奴道の真髄を極限まで発揮したのである!
奴道蛊師とは、要するに駒を犠牲にして敵の貴重な戦力を消耗させねばならない。例えば空窓内の真元を枯れさせたり、此度の如く馬魂と相討ちにさせたりするのである。
馬英傑は方源に対して為す術もなかった!
変異馬魂は強力ではあったが、短時間に大量の狼群を屠り尽くした後では、最早方源に脅威を及ぼす力は残っていない。
「叔父上、早くお逃げください!貴方は馬家の希望です。急いで!」
馬英傑は声を振り絞って叫び、再び馬尊に退却を促した。
馬尊の頬を涙が伝い落ち、心中は苦しみ、恨み、怒り、彷徨いで充満していた。
遂に、彼は鋼の歯を噛み砕かんばかりに悔しさを嚙み締め、理性に促されるまま、一団の馬群を率いて馬英傑の元を離れ、馬家軍本隊へ向かって退却を開始した。
「ふむ?」
方源は即座に馬尊の動向を察知した。
馬尊は奴道大師であり、その価値は馬英傑の百倍も重要である!
方源は瞬時に双翼を振るわせ、天を衝く如く舞い上がり、馬英傑を捨て置いて馬尊の追撃に移った。
「狼王、行かすな!」
馬英傑は焦燥の叫びを上げ、慌てて馬魂を駆り立て空中に躍り上がらせ、方源の行く手を阻まんとした。
方源は嘲るように冷笑し、空中に精妙なる弧を描がいて、すべての馬魂を難無く躱し切った。
彼は飛行大師である。一方、此の変異馬魂は、所詮馬英傑が操る傀儡に過ぎない。
殺神と化した方源が追撃して来るのを目にした馬尊の側近の蛊師護衛たちは、肝を冷やし胆をつぶさんばかりに怖じ恐れた。
已む無く、馬尊も亦た殺招「龍馬精神」を発動せざるを得なかった!
彼の指揮の下、変異馬魂は防衛線を形成し、互いに連携して、馬英傑の時よりも遥かに脅威的な布陣を見せた。
例え方源に飛行大師としての造詣が有ると雖も、此れを突破するのは容易ではない。
ゴオオオオ──!
其の時、一声の龍吼が轟いた。
巨大な影が方源を覆った。
三ツ爪金角の巨龍が、再び方源の背後に殺到した!
成龍は方源の一撃で敗れ、七転八倒の態で地面に叩きつけられた。辛うじて穴から這い上がった後、数多の攻撃に遭。成龍は渾身の力を振るってこれらの阻害を打ち払うと、怒濤の如き復讐心に駆られ、疾風の如く奔り来った。
「良くもまあ自ら死に来ようとはな。」
方源は冷笑し、堅固不壊の輝きを放つ龍爪が自らを捉えんとするのを眺め、微動だにしなかった。
背後の鷹翼を一振り。彼は龍爪と寸前で交わしたのである。
精妙無比の飛行術を駆り、巨龍を手玉に取って翻弄した。
「不妙だ、空中では狼王の敵ではない!」
成龍が危険を察知した時には、既に手遅れであった。
方源は隙を突いて龍首の位置へ飛び移り、体側の二本の黄銅巨腕を戦槍利剣の如く振るい、巨龍の両眼を容赦なく貫いた。
次の瞬間、龍瞳は粉砕し、血潮が四方に迸しった。
巨龍は瞬時に狂乱し、激烈な痛みに凄まじい咆哮を発した。
方源は嗤笑一声、全身に真紅の血潮を浴び、両腕を眼窩深く突き刺し、脳髄を抉り取った。残る二本の腕は、鉄槌の如く猛り打ち下ろす。
ドン、ドン、ドン!
轟音が響く度に、方源は龍頭を戦鼓と見立て、絶え間なく叩き続けた。
巨龍は空中から地面に墜落、狂ったように暴れ狂。金色の大蛇の如く、体躯を捻じ曲げて麻痺したように痙攣する。泥と石が舞い上がり、人も獣も龍尾に打ち飛ばされる。
方源の打撃は瞬くも止むことなく、二十から三十回も続き、遂に巨龍の頭部を粉々(こなごな)に打ち砕いた。
白く濁った脳漿と赤い血潮が、彼の全身に迸った。
深く息を吸い込むと、濃密な血生臭い気配が、却って彼に痛烈な爽快感をもたらした。特に足下に横たわる巨龍の死骸は、彼の征服を物静かに証し続けている。
「男というものは、どの世界に生きようと、やはり征服する為に存在しているのだ。敵を征服し、己を征服する為に……」
方源は心の内でそう感慨した。
既に息の根を止められているが、変異した龍躯は未だ残り続けており、成龍の変化道に於ける造詣の深さが窺えるのであった。
「頭蓋骨は確かに堅かったが、衝動的な愚か者に過ぎないな」
方源は淡々(たんたん)と評し、再び視線を馬尊へ向けた。
「あ、あの方は成龍までも討ったのですか!?」
「此れが狼王なのか?奴道大師ではなかったのですか!?」
方源が龍の屍を踏みつける此の光景は、多くの者を愕然とさせた。
大多数の者は自らの目を疑わずにはいられなかった。
如何して狼王は、奴道大師から、一転して戦場を縦横無尽に駆け巡る、此も凶悍な猛士へと変わり得たのか?
其の間にも、狼群は唸り声を上げつつ右往左往に突撃を繰り返し、方源の卓越した馭獣術の冴えを見せつけた。
馬尊は顔面蒼白となり、真元は徐々(じょ)に枯渇し、必死に殺招「龍馬精神」を維持していた。
変異馬魂は軍陣を組み、厳重な防衛線を形成する。狼群は次々(つぎつぎ)に突進しては散華していった。
此の如き犠牲に対し、方源は微動だにせず、心中冷笑した。「さあ、奴力双修の真髄を味わわせてやろう。」
心念が動くや、狼群の攻勢は瞬くに変貌し、数多の尖錐の如く集中突破を開始、変異馬魂の陣形は抗い難く撹乱されていった。
防衛線が手薄になるのを見て、方源は自ら突撃を開始した。
馬尊は心を引き締め、慌てて変異馬魂を操作し迎撃に向かわせた。此れにより、防衛線は混乱を来した。
方源は哄笑一声、進路を変えると同時に、狼群をけしかけ、約三百歩まで接近させた。
馬尊は右往左往の防戦で、瞬く間に支え切れなくなった。
方源の突進を防げば狼群を防ぎ切れず、狼群を防げば方源への対応が疎かになる。
数度の攻防の後、方源は隙を突いて猛然と馬尊の目前に躍り出だ。一撃目で其の防御を打ち破り、二撃目で重傷を負わせ逃亡能力を奪い、三撃目で此の広く名高しい奴道大師を掌底に斃した。
馬尊、斃死!
馬群は崩壊し、馬家軍の士気は最底辺に墜いきった!
「仮え此の目で見たとしても、とても信じられない!」
「馬王が、同じ奴道大師である狼王に、斬首戦術で討たれるとは!」
「狼王は実に深く潜伏していた。奴力双修だったとは!もとより斬首戦術など畏れるに足らず、此の如き奴道大師に、どう対処すれば良いというのか!?」