方源は常飆ら三人の表情を細やかに観察していた。
狼王常山陰の過去について、方源は主に『常山陰伝』で知り得たが、当年狼王を陥れた真犯人までは知り得ていない。
しかし、仮え真実を知ったとしても、死せる狼王の為に復讐する様な気骨は毛頭ない。
彼は方源であって、所謂常山陰など、単なる仮面に過ぎないのだ。
「本日より、我れは常家部族において唯一無二の太上家老となる。」
方源が口を開き、沈黙を破った。
常飚は全身が震え、目を開け、急いで頭を地に付けて言った:「常飚、太上家老様にお目にかかります。」
「うん。」方源は軽くうなずき、「当年の件は、更に徹査が必要だ。しかし今は良い機会ではない。少なくとも王庭争奪戦が終結するまで待たねばならない。本日より、我れは常家唯一の太上家老となる。常極右、汝は常家の族長を務めよ。常飚は第一家老に任ずる。倪雪彤、汝と我れの縁は尽きた。今後も常飚の妻として過ごせ。」
巨陽仙尊が定めた伝統により、北原では女子の地位が低く、常に貨物の如く取引される。時には、家に尊い客が訪れると、主人は自身の妻を貴客の元に遣わし、寝所に侍らせることさえある。
「はっ?」
常極右は驚愕の声を上げ、呆然として立ち尽した。
倪雪彤は沈黙を保った。
常飚は心中の動揺を押さえ、再び額を地に付けて「配下、命令を承りました」と答えた。
「総員、退下せよ。」
方源は手を振って追客令を下した。修行を続けるため、時間を有効に使わねばならない。
三人はぼんやりと大蜥屋蛊を出た。冷たい夜風が全身に吹き付け、震えが来た時、初めて我に返った。
「此の様に難なく関を過ごせたのか?」
常飚の胸中には限りない喜悦と安堵の念が湧き上がった。
「但し、当年の件は、私は完璧に処理した。例え些細な痕跡が残っていたとしても、此れまでの歳月で洗い流されている。当時私は意図的に常山陰に近付き、腹心の友となった。今や彼は大変を経て、長年会わずにいたため、感情が疎遠になるのも無理はない。」
常飆は心中で急速に思考を巡らせた。現状は、彼が予想していた以上に、数倍も好いものだった。
「自らは族長から家老に降格されたが、実権の大半は依然として保持している。常山陰が私を第一家老に任じたということは、未だ私を信頼している証しだ!そして常極右を新族長に据えたということは、彼の本心には旧情が残っているからに他ならない!其の旧情さえあれば、万事は好都合だ……」
常飆は考えれば考える程、奮い立っていった。
彼は自らの世界に浸りきって、妻である倪雪彤の複雑な表情に全く気づかなかった。
かつて常山陰は彼女の美貌に強く心惹かれていたが、先程の面会では、彼は倪雪彤を一瞥だにしなかった。
来る途上で、倪雪彤は万の心配をしていた。もし常山陰が再び彼女を奪い返そうとしたら、最愛の常飆と離れ離れになるところだった。何と痛ましいことだろうか!
しかし今、状況は倪雪彤が予想していたより何倍も良かった。
常山陰は当年の件を暫らく追及しないばかりか、彼女に常飆の妻であり続けるよう命じたのである!
倪雪彤にとって、此れは以前から夢見ていた結果であった。本当なら喜ぶべきなのに、何故か彼女の心には恐怖の余韻が残る一方で、自らも認めたくない喪失感が渦巻いていた。
一方、常極右は巨大な歓喜と疑惑、迷いに陥っていた。
「遂に父に会えた。あと数歩の場所に父が居たのだ!想定していた以上に、父は威厳に満ちていた。」
「だが父は私を息子と認めず、名前で呼んだ。まさか私が実子であることを知らないのではあるまいか?」
「しかし父は、なぜ私を常家の族長に任じたのか?此れ程若く、三転の修行しか積んでいない私に、務まると言えるのだろうか?」
「分かった!これは父が私に与えた試練に違いない。会ったことのない息子である私を試しているのだ。もし私が常家を立派に治め、見事にこの試練を成し遂げれば、父は喜び、私を息子として認めてくれるのではなかろうか?」
この考えに至り、常極右の心は思わず昂ぶった。彼は心に誓った——必ず全力を尽くし、今れからの王庭争奪戦で良い成績を収めようと。
方源は、自らの簡素な配置が、常飆ら三人に此も大きな心理的波乱を引き起こすとは予想だにしなかった。
しかし、例え知ったとしても、彼は意に介さないだろう。
五百年前の前世、常山陰は馬鴻運を助けて王庭之主の王座に就かせた後、自らも常家の大権を再掌握していたのである。
地球とは異なり、偉大な力が個人に帰せられる時、力が強ければ強いほど、権力も大きくなる。
今日に至って、方源はもはや青茅山の低階の小蛊師ではなく、体制による抑圧と搾取を受ける存在ではない。今や彼は一部族の権力構造を操作し、恣意に改竄することさえできる。言うなれば、彼は既に世俗の頂点に立っているのである。
彼は心の中で良く分かっている——此の一切が彼の手にした強力な力の賜物であることを!
「今、我が第一空窍は完全に北原に適応し、五转巅峰の真元を動用できる。第二空窍も五转中階の域に達している。二つの空窍の資質は共に甲等九成で、現在使用している二組の蛊虫により、真元は非常に充実している。」
「しかし奴道と力道の蛊虫は、極致の強さとは言い難い。力道的には、五转功倍蛊を獲得して以来、爆発力は十分に高まったが、我が身は其れに耐え切れない。」
先の劉家三兄弟との合体殺招『三頭六臂』との戦いでは、方源は力道的戦力のみで互角に戦うことさえ可能であった。
だが方源は良く知っている——仮え五百钧の力を爆発させたとしても、敵はおろか、自身の肉体が其の力に耐えられないということを。
「我が骨は無常骨、全身の皮膚は亀玉狼皮である。五百钧の力に耐えるには、全く不十分だ。しかし仮に筋肉や大筋を改造し力道的に適させれば、奴道的には適わなくなる。奴道に合わせれば、力道に合わなくなる。結局、奴力二道は互いに補完し合う部分はあるものの、互換性は極めて低い。魂道と奴道、或いは魂道と智道の様な関係とは異なるのだ。」
この問題は、実は以前から方源を悩ませ続けていた。
もし解決できなければ、方源の奴力二道は高度に熟達するまでには至っても、真の頂点と言える強さには達しないだろう。
確かに方源は落魄谷に関する継承情報を把握しているが、未来は予測不能だ。何事も起こり得る。方源は生来慎重な性格であるため、落魄谷を手に入れるまでは、魂道へ転修する決断を下せず、従って奴力二道を完成させる必要がある。
方源は暫し瞑目沉思した後、徐ろに眼を開け、空竅から東窓蛊を取り出した。此の蛊は情報保存用の存储蛊であり、琅琊地霊から得たものである。
東窓蛊の中には、殺招「三頭六臂」に関する詳細な情報が記録されている。此の殺招は極めて強力で、劉文武・歐陽碧桑・墨獅狂の三人を巨大な怪物へと変貌させ、戦闘力を恐怖すべき水準まで急上昇させることができる。
黒家が劉家に勝利した後、此の殺招の提供を要求したため、劉家が支払った戦争賠償の中に此の項目が含まれていた。その後、方源が戦功と交換して入手したのである。
此の数日、方源は暇がある度に、此の殺招の研究に没頭している。
蛊師が複数の蛊虫を同時に駆動し、蛊虫の効果を相互に組み合わせることで、更に強力な効果を生み出す。此れが蛊師たちが俗に「殺招」と称する技術なのである。
殺招「三頭六臂」は、十八種類の蛊虫を同時に駆動する必要がある。三転から五转までの蛊虫を使用するため、真元の消耗は極めて大きい。更に、三人の蛊師が揃わなければならず、単独の個体では成立しない。
此の殺招は、方源が使用できるものではない。しかし、それ故に価値が無い訳では決してない。
殺招も蛊方も、蛊を使う技術の粋なのである。
何故此等の蛊虫を組み合わせれば、此も強力な効果が生じるのか?何故彼等の蛊虫では、逆に効果が得られないのか?もし其中の何れかの蛊虫を他のものと置き換えたら、効果は如何に変わるのか?仮し敵が再び此の殺招を使って来ら、如何なる方法で破れば良いのか?
人は万物の霊であり、蛊は天地の真精である。
蛊の身には、天地の微かな法則と、大道の断片が秘められているのだ。
蛊を理解することは、大道を理解し、此の世界の自然法則を理解することである。丁ど地球上で実験を利用して科学法則を獲得するのと同じようである。
此の蛊方は、方源に非常大きな啓発をもたらした。
「若し私が三つの頭と六本の腕を生やしたら、如何なるだろうか?」
彼の脳裏に霽光が閃いた。新しい窓が開かれた如くである。
彼の肉体は、基盤の石の如し。奴力の二道は、其の基盤の上に聳え立つ楼閣である。現在、此の基盤は大きくなく、二棟の楼閣は低い建物にしかならない。若し此の基盤を拡大すれば、二棟の高樓を同時に支えることが可能になるのではなかろうか?
方源は自が容貌に、元来とらわれがない。
英挺だの醜いだのと、外の目がどう映そうと、何の関わりがあろうか。戦闘力さえ強ければ、怪物と見做されようが構うものか。
北原歴七月。
天候は日増しに厳しい寒さとなり、霜気は凍りつき、陰雨は絶え間なく降り続く。
各地の大軍は幾度もの激戦を経て、その数は五十路も満たぬまでに激減した。
黒家は劉家に勝利したものの、元気を損ない、陣営に停駐する様は、傷ついた猛獣の如く、一瞬の息をつぐ暇も惜しんで休養に努める
七月の中旬。
独角地方では、耶律軍が七つの大軍の包囲攻撃を撃破した。反撃の当日、耶律桑は五转蛊師三名を討ち取る戦果を挙げた。
然し此の戦役における最大の功労者は、耶律軍中の祁連一族に属する隠居の家老、祁連族長の養子である無名であった。
無名は五转中階の暗殺蛊師である。両軍が対峙する中、彼は度々(たびたび)敵陣に潜入し、敵将を暗殺。見事に五转強者二名、四转蛊師十三名を仕留め、七つの大軍を恐慌に陥れ、士気を大幅に低下させたのである。
北原歴八月。
楊家は奴道大師の江暴牙を招き入れた後、実力が大幅に向上し、連戦連勝を重ね、幾度もの大勝を収め、王庭争奪戦の後期に現われた新たな注目勢力となった。
新進の奴道大師「豹王」ヌール図は、大軍を率いて陶家を威圧した。陶家連合軍は挑将の過程で相次いで敗北し、盟主の陶幽は時勢を審らかに見極め、自らが王庭之主の座に就く望みは最早無いと悟り、努尔图に帰順することを選んだ。努尔軍が陶家を併合した後、軍力は大きく増強された。
八月の中旬、黒楼蘭は軍令を下し、全軍に再起の征途を命じた。
九月に至る頃、王庭争奪戦の行方は明らかとなった。勝機を残すは五路の大軍のみとなったのである。
狼王常山陰と太白云生を擁する黒家、新進の豹王率いる努尔家、鼠王と鷹王を有する楊家、馬王を抱える馬家、仙蛊を持つ耶律桑が指揮する耶律軍である。
九月上旬、努尔軍と楊家が交戦。豹群は鷹群と鼠群の二重の攻撃に耐え切れず、半月余り抗戦した後、努尔図は敗北を喫した。
十月の初旬、楊家が戦争賠償の吸収に忙がしい隙をついて、耶律桑は急襲を仕掛けた。
楊家軍の中では、開戦を主張する者、堅守を唱える者、撤退を提言する者など意見が対立し、軍の足並みが乱れたため、耶律桑の思う壺となった。
耶律桑が勝利を収めたのも束の間、今度は馬家に狙われる身となる。
馬家軍は三日三晩の急行軍で耶律桑を不意打ちし、準備の隙を衝いた。
同じような局面が彼の身の上で再現される。耶律軍が戦果を消化する間もなく、馬家の猛攻によって潰走した。
耶律桑は残兵を率いて敗走を続け、自ら進んで黒家軍に帰順した。
十一月の初旬、黒家軍は迅速に北上し、途中で八道の防衛線を築き、同月中旬に馬家と決戦を繰り広げた。
勝者のみが王庭福地へ進駐を許され、敗者は賠償金を支払い、無念と失望の中で北原十年に一度の大風雪を迎えねばならない。
一時、此の決戦は無数の表裏の視線を集めた。
初期の幾戦かでは、黒家が微かな優位に立、馬家は二道の防衛線を失ない、第三防衛線まで後退して堅守を余儀なくされた。
耶律桑は復讐心に燃え、絶え間なく挑戦を仕掛け、馬家軍を籠城させて士気を著しく低下させた。
馬家は已む無く、背後にある大雪山福地へ救援を要請せざるを得なかった。