消魂の福地
濃い陰雲が永久に此処を覆い、地面には女体樹が生えている。
此等の樹木は、風変わりな姿をしている。幹は女の裸身の如く婉曲し、枝は絡み合い、様々(さまざま)な妖艶な姿勢を取る女性の如きである。
女体樹は連なり合って森林を形成している。
森林の最深部に、最大の女体樹が聳え立っている。高さは三百メートルに達し、根は大地に張り巡らされて万里四方を覆い尽くす。
此の女体樹王は、妖艶では無く、却って幾しの聖なる気を放っている。
樹王の主幹は真っ直ぐに聳え立ち、高揚した気概を漂わせている。二本の巨大な枝が腕を成し、胸の前で互いに掌を合わせている。枝分かれした小枝が組み成す両手は豊満で広く、一つの翠綠の樹上家屋を捧げ持っている。
樹上家屋には鮮紅色の朱果が実り、赤褐色の蔓が絡み合って、恰も一顆の紅心の如き形を成している。
此の樹上家屋の中に、二人の蛊仙が坐っている。両者と雖ども漆黒の衣を纏っている。
左側の人物は、ごく普通の風貌をした中年男性である。若き日は「黒家の石人」と称され、口数少ないが内に優れた才を秘めた人物で、其の名は黒柏という。
右側の人物は、瞳は漆を点した如く黒々(くろぐろ)と輝き、顔貌は玉を冠した如く美しく、風采は優れて洒落ている。其は黒家の太上家老・黒城、黒楼蘭の実父、北原に名高き美男子であり、蘇仙夜奔伝説の主人公である。
「然るとすれば、貴公は逆雨福地より戻られ、東方長凡に会われたと?彼の様子は如何に?」
黒城は清茶を一口含み、悠然として問うた。
黒柏は軽く肯いた。「東方先輩は寿蛊を見つけられず、余命は最早二、三年(に、さんねん)ほど。然し胸襟広闊にして豁達な御方であり、既に生死の難を見透かしておられる。今は後継者の東方余亮を育てること一筋でござる。」
「豁達で胸襟広闊だと?」
黒城は冷ややかに鼻で笑い、軽蔑しながら首を振った。「賢弟、君は見誤っている。東方長凡は正に小人そのものだ。彼は北原を謀り、陰險極まりなく、蛊仙たちから骨髄まで憎まれている。其れが為でなければ、とっくに寿蛊を手に出来たはずだ。何故此の様な境遇に陥ろう?此の数年、我れは徐ろに探りを入れたが、君の義姉・蘇仙兒の死さえも、彼が裏で策画した陰謀なのである!」
黒城が吐露した秘事は、黒柏に激しい衝撃を与えた。
「何ですって?まさか此のような事が?」
黒柏は声を上げて驚いた。
黒城の正妻・蘇仙兒は、二百余年前、蘇家の庶出の娘に過ぎなかった。或る酒宴で侍女として酌を取り、当時の黒城公子に酒を注いだ際、一瞬にして心を奪われたのである。
其の夜宴で、黒城は蘇家族長によって毒蛊を仕込まれ、実力は最低線まで落ち、追手に追われる身となっていた。
蘇仙兒は偶々(たまたま)其の事実を知ると、躊躇なく決断し、夜中三更に家族の陣営を飛び出し、一面識しかない黒城の救出に向かったのである。
其の時、蘇仙兒の修為は僅か一転に過ぎず、夜の北原には野獣が跋扈し、殺気が充満していて、彼女の力で抗える代物ではなかった。
然れども縁有りて、彼女は意識不明で地面に倒れ伏す黒城を発見した。
黒城は其れにより一命を取り留めたが、訝し気に蘇仙児に問うた。「我れは蘇家の族長に謀られ、貴女は蘇家の者である。何故仇敵である我を救ったのか?」
蘇仙児は答えた。「公子には英雄の気概が御座います。此方は一目で心を打たれました。蘇家の族長は目先の利益しか見えず、小人の囁きに乗って公子を害しましたが、黒家を敵に回す結果を考慮しておりません。此の儘彼が独断を続ければ、蘇家は二大超弩級家族の犠牲となる運命で御座います。世の人は公子が恩には必ず報い給うと申します。此方が公子をお助けしたのは、何卒お側に置き下さいませばと願ってで御座います。公子が蘇家に報復されるのは道理で御座いますが、只蘇家の血脈だけはお救い下さいませますよう。」
月明かりの下、佳人は玉の如く清らかで、手は柔らかな萱の芽のようであった。
此の姿を見た黒城は深く感動し、蘇仙兒の手を強く握り締めて誓いを立てた。「卿の深情は海の如し。我れ黒城は恩知らずの輩では無い。如何にして報いざるを得ようか?今日より、卿は我が唯一無二の妻である!他の如何なる絶世の美人も、我れには関わり無し。此の一生、必ず卿を背かず!」
蘇仙兒が黒城を救った行為は、部族への背信を意味した。黒城は其の恩に感じて夫妻となり、連理の枝を結んだ。
其れ以降の歳月、二人は互いに支え合い、仲睦まじく暮らした。百年後、双方とも蛊仙と成り、北原における佳話として語り継がれることに成った。而して「蘇仙夜奔」の物語は広く伝わり、北原の無数の女性たちを激励し、愛の為に勇敢に自ら行動するようにと促し続けているのである。
黒柏の口調が重くなる:「まさか二十数年前、大嫂は福地の地災で亡くなられたのではありませんか?」
黒城は冷ややかに笑い一声:「確かに地災ではあった。しかし地災もまた人為に影響され得る。賢弟、忘れるな。老祖宗の巨陽仙尊は、かかる手段をお持ちであったのだ。」
「東方家は黄金の血脈として、幾度も王庭に入り、或いは八十八角真陽楼より、此れに関わる伝承を獲たのであろう。」
「唉、我れ今に至っては、隻片の証拠を査げ得るに過ぎず、未だ東方長凡が元凶なりと証するに足らず。」
黒柏は呆然として語る言葉も無く、良久にして嘆息一声:「真に人は貌に依り難しと云うべし。」
黒城はそっと彼の肩を叩き、温かな声で諭すように言った。「賢弟、君が蛊仙となってから、十年も経っておらぬ。蛊仙の世界は狭いが、其中に渦巻く陰謀術策は、凡人のそれよりも寧ろ多いのだよ。」
黒柏が口を開けようとしたその時、彼は突然表情を硬くした。「黒楼蘭から書信が届いた。」
黒城は軽く肯き、心念を動かすと、福地の防護の一端を解いた。瞬時に虚空が破れ、一匹の蝶が飛来した。
黒柏が右手を差し出すと、其の蝶はひらりと舞い降りて、優しく彼の掌の上に止まった。
此れは五转蝶信蛊であった。
黒柏は静かに両目を閉じ、心神を探ると、蝶信蛊が伝えて来たのは黒楼蘭からの救援要請であった。
「如何した、我が不甲斐な 息子 が又貴様に救援を求めて来たのか?」
黒柏が目を開けた途端、黒城は冷ややかに鼻で笑い、不愉快そうな表情で問い質した。
黒柏は苦笑いしながら言った。「兄貴、黒楼蘭は貴方と蘇仙兒姉貴の間に生まれた子でしょう。蘇仙兒姉貴は黒楼蘭を産んだことで体を壊し、重病になって実力が大きく衰え、その数年後の福地の地災で命を落としました。しかし子どもに罪はありません。その事でいつまでも冷たくあたらないでください。それに彼を二十七番目の姜鈺仙子の養子にまでやり、毎年実母への祭祀すら許さないなんて。」
黒城は不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、何も返事はしなかった。
黒柏はまた息をつくと、続けて言った。「本来、此れは兄貴の家事ですから、小弟が口出しすべきでは無いのですが…。此の年、小弟が目にしているのは、兄貴が黒楼蘭を子の無い姜鈺仙子の養子にしたのは、仙子の仙蛊『暗度』を借りて楼蘭の命を繋ごうとする苦心でしょう。楼蘭は十絶大力真武体、兄貴は其の闘志を駆り立てる為に、蛊仙に昇格しなければ実母を祭ることを許さないと要求しました。小弟は深く敬服しますが、兄貴の其の手法は父子の誤解を深めるだけで、長きに渡っては良策では無いのです。」
黒城は嘆息し、黒柏の言葉には直接応えずに尋ねた。「で、あの小子の救援要請は何と書いてあった?」
黒柏は手を叩き笑った。「見てくださいよ兄貴、表面は冷たくても心は熱いんです。楼蘭の安否を気にかけてるじゃありませんか。手紙には、異獣狼群の準備と、五转潜魂兽衣蛊が欲しいと書いてありましたよ。」
「ふん、この小僧、図々(ずうずう)しいにも程がある!潜魂獣衣蛊は兎も角として、異獣狼群など我が黒家にはない。」
「今、我々(われわれ)黒家は劉家と交戦中だ。劉家の当代族長・劉文武は、甘く見てはならぬ若者よ。昔和合仙の伝承を手中に収めた。義兄弟が二人おり、何れも万軍の中から敵将の首を軽々(かるがる)と取る猛者だ。しかし楼蘭の甥にも、狼王・常山陰という大将がついている。此度の要請は、彼が常山陰に期待を寄せているからだろう。」
黒柏は説明した。
黒城は沉吟して言った。「五转潜魂獣衣蛊は良し、此方に一匹ある。だが異獣狼群は宝黄天で購入する必要がある。其れは賢弟に頼まねばなるまい。」
黒柏は慌てて手を振った:「兄貴、そんなに気を使わなくていいよ。私はまだ賢姪が王庭に入り、八十八角真陽楼で木鶏仙蛊を探してくれるのを当てにしているんだから。」
黒城は長いため息をつき、声に疲れをにじませて言った:「大力真武体が蛊仙に昇格するには、力道的仙蛊が必ず必要だ。残念ながら仙蛊は得難、我々(われわれ)黒家にも力道的仙蛊は一匹もない。成否は天に任せるよりほかない。我々(われわれ)は最善を尽くすまでだ。助けるべきことはもう助けた。あとは黒楼蘭自身の努力と運命次第だ。」
「ああ、親心とはいとおしきものかな。」
黒柏はそんな感慨を胸に、黒城に辞儀して別れを告げた。
自らの枯木福地に戻ると、彼は直ぐに宝黄天に接続し、異獣狼の買い入れに力を入れた。
狼皇は福地の基盤となる存在であり、蛊仙が自ら販売する機会は滅多に無い。しかし異獣狼は四转相当の実力しか無い為、入手は容易である。
黒柏は心配してはいなかった。仙元石を十分に積めば、異獣狼は珍しい物では無く、自然と多量を購入できる。
無論、高値で異獣狼群を買い入れることは、黒柏にとって損得で言えば赤字である。しかし彼は八十八角真陽楼の仙蛊を狙っている。前期投資としての出費は、当然払うべきものなのであった。
何故と言えば、王庭福地は巨陽仙尊によって布陣されており、九转に達しない限り、如何なる蛊仙も侵入できないからである!
高値で異獣狼群を購入する旨の情報を流すと、間もなく黒柏は一つの神念を受け取った。其の発信元は「狐仙」である。
「狐仙」の手には百匹余りの異獣狼があり、値段も高めに設定されていた。明らかに黒柏の必要を看過し、弱みに付け込んだ形である。
黒柏は此の様な状況を予想してはいたが、此の「狐仙」が此れ程迅速且つ正確に機会を捉えるとは思わなかった。彼は歯を食い縛り、此の異獣狼を購入した。
此の異獣狼を売り捌った者は、無論他ならぬ、方源の指示を受けた地霊小狐仙其の人であった。
方源が前回、仙蛊の製法を又転売し、十数個の仙元石を得て以来、小狐仙に二つの指示を出していた。一方では紫晶舍利蛊を購入させ、他方では常時宝黄天を注視させ、安値の狼群が現われ次第買い付けさせていた。
今に至って、狐仙福地には百頭余りの異獣狼が蓄積されている。其中には血森狼、狂狼、魚翅狼、白眼狼などが含まれる。
然るに今し方、小狐仙は此れら異獣狼を高値で黒柏に転売し、実に一稼ぎしたのである。
一方の方源は、陣営の天幕に安座しながら、黒家の支援を待ち受けている。