王帳の内は重苦しい雰囲気に包まれ、黒楼蘭を含め、ほぼ全員が傷を負っていた。
日頃威風堂々(どうどう)としていた蛊道の強者たちも、今や見るも無様な姿と化っていた。
「劉家の攻勢は実に猛烈だ。劉文武、羅伯軍、聶亞卿は何れも五转の強者。墨獅狂と歐陽碧桑は四转巅峰でありながら五转並みの戦力、更に裴燕飛や常飆ら猛将まで揃っている……此くの如き布陣は、過去十回の王庭争奪戦を振り顧っても、極めて稀である」
狽君子孫・孫湿寒は嘆息した。
四转蛊師と云えば、既に稀有な存在で、往々(おうおう)にして中小勢力の首脳、或いは大規模勢力の家老を務める程である。
五转は更に稀で、資質への要求が極めて高い。例え超弩級勢力と雖ども、表向きの五转蛊師は二、三人(に、さんにん)に過ぎない。
実を言えば、黒家の現在の高層戦力は比較的に強力な方である。
黒楼蘭、太白雲生、古国龍の三名が五转强者。常山陰、唐妙鳴、浩激流、邊絲軒、潘平ら四转强者も二十名余りに達している。
然し同格の蛊師と雖ども、相互の戦力には差が存在する。蛊師とは個の力が群を凌駕する戦闘職であり、個人の偉力は集団の累加を超越する。例えば方源単独で中小部族を殲滅でき、今日の戦いでは歐陽碧桑一人が五名の四转蛊師と十二名の三转家老を屠ったのである。
黒家が弱い訳では無く、此度の劉家軍の高層戦力が強過ぎるのである!
殊に此の初戦後、多数の高階蛊師が劉家に屠られ、四转蛊師は半減近く失った。元々(もともと)存在した実力差が、更に拡大してしまった。
如何にして劉家の此も大きな優位性に対処すべきか、此れが一同の急務となる難題である。
「若し時間的余裕が与えられれば、数軍を併呑し、老先生の威望に頼って幾人かの強者を服すれば、彼等に対抗し得る高層戦力を整え得たかもしれぬ。」
黒楼蘭は嘆息した。劉文武が此の時期を選んで開戦し、発展の余地を与えなかったことを、暗に恨んでいるのである。
太白雲生は頓に黒楼蘭の言外の意を悟り、口を開いた。「老生、嘗て高揚と朱宰の両名の命を救ったことがある。彼等は『必ず恩返しをする』と約束してくれた。老生が一書したためれば、或いは彼等を呼び寄せることができるかもしれぬ。」
一同の士気が瞬くうちに高揚した。高揚と朱宰は北原に魔道双煞と号され、互いの呼吸は完璧で、常に行動を共にする。両者と雖ども四转巅峰の蛊師であり、かつて協力して五转强者を越階討した実績を持つ!
黒楼蘭は胸中の重圧が幾ばくか緩和された。「若し高揚と朱宰の助力が得られれば、両軍の実力差を少しばかり埋められるだろう。然し軍中の大事は、諸君の身命に係わる。他人の報恩という情にのみ頼る訳にはいかぬ。今日の一戦は、狼王が出手して大勢の低階蛊師を屠り、劉家に巨大な被害を出させた功績が大きい。劉文武も其れを顾忌しなければ、安易に撤退などせぬはずだ。」
一同の視線が方源に集まった。彼の見解を求める眼差しである。
方源の表情は平静そのものだった。彼の体には一片の傷跡も無く、戦いの間中大軍の奥深くに潜み狼群を指揮しながら、最大の戦功を挙げていたのである。
此の様は、王帳内の者たちの胸中に、妬みと羨望の情を暗に湧き上がらせていた。然し大局を慮り、表立って矛先を向ける者は一人もいなかった。
戦後、方源は記憶を掘り下げ、黒楼蘭が如何にして劉文武に勝利したかという情報を探し続けていた。だが、幾考え巡らせても、何の結果も得られなかった。
五百年分の記憶は余りに繁蕪で、失われた部分も多い。現在の者たちを悩ませる此の難題も、五百年後の前世から見れば、歴史の長河における取るに足らない細事に過ぎないのであった。
一同の視線を察知すると、方源は静かに瞼を上げ、淡々(たんたん)と語り始めた。「劉家には奴道蛊師がいるが、最強は貝草川に過ぎぬ。其の草兵軍団は痛痒を感じさせない程である。今、敵味方双方に強勢な一点がある。丁度二人の巨人が長槍を手に、互いに突き合っているようなものだ。劉家軍は高階蛊師に強みがあり、我が方は狼群の加勢で大勢の低階蛊師を屠れる。故に今日は相討ちの結果となった。」
「勝利への道は、敵の長所を抑制し、同時に自らの長所を強化する以外に無い。相手の蛊師強者を抑制するのは不可能では無い。若し我が手に一枚の切札となる狼群が有れば、必ず彼等を食い止め得よう。然し其れ為には、我は全力で操作せねばならず、手中の四转潜魂兽衣蛊のみでは行跡を隠し切れず、敵方の衝殺に晒されることとなろう。」
方源の言葉は、一同の眼前を開くようであった。
「切札となる狼群か……」
黒楼蘭はうつむきながら沈吟した。
現在、北原には五人の奴道大師がおり、世に「五獣王」と称されている。其の中で、馬王・馬尊は異獸の天馬群を、鷹王・楊破纓は異獸の雷鷹群を、鼠王・江暴牙は異獸の鑽山鼠群を有する。新進の奴道大師である豹王・努爾圖は管窺豹群を率いる。
唯一り狼王・常山陰だけが、此のような一団の異獸群を手にしていない。
一頭の成体異獸は、四转蛊師並みの戦闘力を有する。異獸が一旦規模を成せば、同数の蛊師よりも恐るべき戦力を発揮する。其の理由は、獣群が奴道蛊師の指揮の下、死を恐れずに戦うからである。一方、蛊師たちは各々(おのおの)思惑があり、假令盟約の毒誓を立てていたとしても、命を顧みぬ死闘を展開する訳にはいかないのである。
仮し異獣の狼群が手に在れば、五转强者を斬り捨てることさえ、大いに可能である。
何となれば、例え五转蛊師と雖ども、所詮は凡人に過ぎず、真元には限界が有り、力尽きる時も必ず訪れるからだ。
然るに異獣群の編成には、膨大な時間を要し、消耗する精力と物資も天文学的数字に登る。
此も短い期間内に、方源に相応しい異獣狼群を調達する方法は唯一つだけである。それは黒家の蛊仙の援助を請うことだ。
王帳内の者たちは、たとえ宝黄天の存在を知らなくとも、蛊仙の偉力は理解している。
北原史上にも、蛊仙が異獣群を整備し、支持する勢力に支援した事例が幾つか存在するのである。
「異獣の狼群は確かに一策ではある。私からまず試みよう。」
黒楼蘭は少し考え込んだ後、曖昧に言った。
しかし一同は内心明らかであった——此の言葉が、背後の蛊仙に支援を要請する意味だと。
瞬時に、人々(ひとびと)の方源へ向ける眼差しに新たな変化が生じた。
此の狼王・常山陰の運の良さよ!蛊仙に手を貸わせ、異獣狼群の編成まで支援させるとは。若し彼一人で行わせれば、20年や30年かかっても完成できないだろうに!何故我々(われわれ)は此うした支援を得られないのか?
一同は目の色を変え、胸中に羨望と嫉妬が渦巻いた。
所詮、方源が常山陰の名を冠っていることが大きい。奴道大師は戦局を一変させ得る存在なのだから、黒家が劉家に勝つ為には、方源を優先的に支援し、資源を傾注するのが賢明な選択なのである。
「私の記憶が正しければ、仮え異獣狼群を手にしたと雖ども、狼王様の戦功は相変わらず最下位で、戦功榜の尻尾を引いているのではありませんか?」
狽君子は嫉妬で胸が張り裂けんばかりにしながら、思い出した振りをして、恩に着せ掛かるように「親切心」から注意した。
「無論、我が輩が空しく異獣狼群を得る訳がなかろう!」
方源は凛として首き、「我々(われわれ)の規矩は破れぬ。戦功を以て一一換取して見せよう。無論、現在我が輩の戦功は足りておらぬ故、少しの貸し入れを願わねばなるまい。此れも已む無き策というものよ!」
一同は唖然とした。
大勢の者が心中で同時に叫んだ:
「良くもまあ此の台詞が言えるな!」
「実に面の皮が厚い奴だ。前後合わせて百三十万もの戦功を既に借り入れているのに、更に借り増しするつもりか!?」
「黒家軍中、貴様一人だけが戦功を借りているのだ。其の五转功倍蛊を手にしていて、良心の呵責を感じないのか?」
実際、方源は良心の痛みなど微塵も感じておらず、逆に「付け上がる」ように言い放った。「異獣狼群だけでは不充分だ。五转の潜魂獣衣蛊が是非必要である。残念ながら五转蛊の煉制は成功確率が低過ぎる。我が手には四转蛊が三匹揃っているが、未だ五转への挑戦には踏み切れずにいる。」
黒楼蘭は歯を食い縛った。彼が一族に支援を求める回数には限界がある。頼めば頼む程、一族内での評価が下がるのだ。しかし劉文武に勝つ為には、已む無く肯んじて方源に言った。「此の件も、私が何とかしよう。」
一方、黒楼蘭らが策謀を巡らせる間にも、劉文武らは如何に黒家と再戦すべきか考えを巡らせていた。
「黒家軍において、狼王・常山陰が最大の難題である。今日の一戦では、彼の為に我が軍は甚大な損害を被った。少なくとも三万の蛊師が狼の牙に倒れた。唉、此の数字を思う度に、我が胸から血が滴り落ちる思いだ。皆が私を信じて馳せ参じてくれたというのに、此れは全て私の無能の故である!」
劉文武は拳を握り締め、深淵の如き無力感に襲われていた。
「兄貴、何で貴方のせいにするんだ?責めるなら、此れ等の役立ちずの蛊師のせいだ!」
墨獅狂は躍り上がらん程りに、声を張り上げて慰めた。
「狼王常山陰は名声高いと雖ども、真の英雄では無い。」
歐陽碧桑は傲然と鼻で笑い、軽蔑の口調で批評した。「堂堂たる狼王が、鼠の如く暗がりに潜み、陰険にこそこそ行動するとは、笑止千万だ。」
「然かしながら、其の様な狼王こそ、最も手強いのだ。」
劉文武は心中で嘆息し、表面は強く気を振るい立てて左右に諮った。「諸君、狼王に対処する妙案はないか?」
墨獅狂と歐陽碧桑は口を閉ざした。
彼等が得意とするのは戦闘であり、謀略方面は専門外なのである。
「小生、一計有り。」
貝草川が進み出て、縷縷と語り出した。「狼王・常山陰は元より常家の一員。彼は復讐宣言をしているが、常家との血縁関係は断ち難く複雑でござる。現常家族長の常飆殿は、嘗て常山陰が最も親しくしていた友であった。常山陰失踪後、常飆は其の妻を娶り、三歳の息子を立派な大人に育て上げ(あげ)た。即ち、現の常家少族長・常極右でござる。狼王に対処するには、此の方面から着手すれば、或いは奇効が期待できよう。」
「おお?此の案は良かろう!」
劉文武の目が輝いた。
……
協議が終わると、方源は自らの大蜥屋蛊に戻った。
如何にして五转潜魂兽衣蛊を煉制するか——此れが最近の彼の頭痛の種であった。若し黒家の蛊仙の力を借りて異獣狼群の編成を準備し、同時に五转潜魂兽衣蛊の完成をも実現できれば、此れ以上無い幸いである。
方源は其の可能性が極めて高いと感じていた。彼は此の度の王庭争奪戦の詳細を記憶していないものの、黒楼蘭が王庭入りを果たせたのは、背後の蛊仙の強力な支援無しには有り得なかったことを理解していた。
「此の一戦を経て、両軍は少なくとも三日間は休整を要するだろう。此の期間中に、黒家蛊仙は必ず黒楼蘭からの救援要請を受け取る。其れ迄に、我が輩が為すべきことは……」
妙案が浮かんだ時、方源の口元が思わず微かに上向き、一筋の笑みを描いた。