邊絲軒は陣頭に進み出ると、余計な言葉は交わさず、即座に歐陽碧桑と渡り合った。
両者の激突は、数多の者の注視を集めた。
名声においては、影劍客たる邊絲軒は歐陽碧桑を街数つ分も凌駕している。然し修行の実力においては、歐陽碧桑は四转巅峰として、一つ上の階級である五转の强者を討ち取った経歴を有する。一方邊絲軒は未だ四转高阶に留まっている。
邊絲軒が有する蛊虫の組み合わせは見事で、弱点らしい弱点は無く、移動能力に特化している。
彼女は黑影と化けて歐陽碧桑を縦横無尽に翻弄し、時折無数の剣影蛊を放って攻撃を仕掛ける。
一方、欧陽碧桑は棒立ちのまま、動かずに受けに徹していた。その姿は海辺の岩の如く岨然として微動だにしない。
戦いが片時続くうちに、劉文武の義兄弟である彼は次第に焦燥を募らせ始めた。「若し此れが貴様の全ての実力なら、今すぐ死ね!」
低く唸り一声、彼の全身に劇的な変貌が訪れた。
其の歯は急速に伸び、刃物の如く鋭く尖り、両対の牙が唇から剥き出しになった。
元は頭の蛊師であったが、此の時大量の不気味な緑毛が湧き出た。頭頂のみならず、全身に緑の毛が生え茂った。
其の身体はきしみ音を立て、血液の流れが急に緩慢になった。元来高痩で堂々(どうどう)とした体躯は、一層枯瘦したが、危険な気配は以前の十倍も濃厚になっていた!
其の両眼は最早人のものではなく、幽邃な緑瞳と化り、鈍く光る碧芒を放っていた。
五转・修羅尸蛊!
此の蛊は変化道の中でも最も古典的な僵尸蛊シリーズに属する。
僵尸蛊系統は五域に広く流布している。二转游僵蛊から三转毛僵蛊、四转跳僵蛊を経て、五转飞僵蛊に至るまで。
天下に名高き五大飛僵蛊とは、修羅尸、天魔尸、血鬼尸、夢魘尸、病瘟尸を指す。許多の蛊師は寿命尽きかけ、且つ寿蛊による延命の道も無い場合、往々(おうおう)にして僵尸と化り、人とも鬼とも付かぬ怪物と変貌することで寿命を延ばすことを選ぶのである。
血鬼尸蛊については、方源は此の世で既に目にしていた。遥か青茅山頂において、古月一代が血鬼尸へと変貌し、天に逆らい運命を改めんと試みたが、神捕・鉄血冷らに阻まれたのである……
今、欧陽碧桑が使用している修羅尸蛊は、血鬼尸蛊と並び称えられる強力な蛊虫なのである!
カンカンカン……
邊絲軒の剣影が欧陽碧桑の体躯を斬りつけるも、迸ったのは火花のみ。飛び散った幾つかの緑毛に過ぎず、彼の肌膚を微かに傷つけることさえ出来なかった。
疊影蛊!
邊絲軒の瞳に鋭い光が走り、無数の剣影が瞬くうちに重なり合い、墨の如く幽玄で濃密な一つの劍影へと凝縮された。
「此れで少しは様になるわい!」
歐陽碧桑の雙眸の綠芒が強烈に輝き、襲い来る劍影を見て驚くどころか、却って歓喜した。
彼はさっと右腕を伸ばし、兔が駆け出す如き速さで爪を翻し、一瞬にして劍影を掴み取った。
「何!?」
邊絲軒の顔に一瞬の愕然が走る。彼女が手にした劍影は、微動だにできなくなっていた。
「ガラガラガラ……」
歐陽碧桑は枯れ木を裂くような耳障りな笑い声を発すると、右爪に力を込めて締め付けた。
プッ。
軽やかな音が一つ響いた。
剣影は彼に無理矢理に握り潰され、邊絲軒は飛び退いた。爆散した剣影は鋭利極まりなく、歐陽碧桑の体を激しく斬りつけた。数多の深手が骨まで達するばかりか、彼の右腕は殆ど切断され、四本の指が飛び散った。
邊絲軒の疊影蛊は、先の幾戦かで辛抱強く蓄えた戦功を以て、黒家軍から換取したものである。
其の作用により、多重の剣影の攻勢が重畳され、五转攻撃蛊に匹敵する威力を発揮するのである!
歐陽碧桑は剣影に斬りつけられたが、一片の痛みも感じなかった。彼が僵尸の体へと変貌した際、痛覚も亦消え去っていた。傷口からは、僅かな惨緑の血液が滲み出るのみであった。
骨まで深く達した傷口は、数息の間に自然に癒合し、新たに緑毛が生い茂って覆われた。
彼の断裂した指も、いとも易く再生し、極めて容易な印象を与えた。
此の情景を目にし、邊絲軒は顔面が蒼白になった。
歐陽碧桑が劍影を強引に掴んだ行為は、表向きは無謀に見えたが、実は心理戦術であった。彼が修羅尸に化身すると、防御力と回復力が数倍に跳ね上がった。邊絲軒の最強の攻撃手段でさえ、彼に殆ど効果が無かったのである。
不可避なこととして、邊絲軒の闘志は深刻に弱体化した。
蛊師の戦力に影響を及ぼす要因は、単に空窠内の真元だけでは無い。蛊師の精神状態や心理的なコンディションも同様に重要なのである。
「私は暗殺者であり、忍者だ。得意とするところは移動であり、神も知らぬ潜行である。今こうして両軍が正面から戦う状況では、正面からの対決は私のスタイルでは無い……」
欧陽碧桑の戦いぶりに、邊絲軒の戦意は大きく減退した。
続く数回の攻防で、彼女は欧陽碧桑の周りを絶えず移動しながら戦いを続けたが、以前と比べて明らかに攻撃回数が減り、大半が回避に終わっていた。
さらに十合ほど手を交わした後、邊絲軒は軽やかに喝し、素早く欧陽碧桑との距離を取ると、黑家軍の中に退いた。
此の情景を目にし、劉家軍の士気は更に一分盛り上がった。
一方、黒家軍の士気は動揺し、上層部の面々(めんめん)は顔色を曇らせた。
「邊絲軒、敗れた…」
「歐陽碧桑は本當に斯くも強いのか?彼の殺招は『修羅変』であり、其れで五转強者を討ち取った。今は修羅尸蛊を使っただけで、全力を出さずに影劍客を破ったのだ!」
「影劍客の闘志は強くなかったが、長期戦により歐陽碧桑の真元を少なからず消耗させた。我々(われわれ)は更に人員を送り、順送りに戦わせるべきだ!」
協議が一段落付くと、黒家軍は早速潘平を差し向かわせた。
然かしながら、数合も経たぬ内に、潘平は劣勢を悟り、慌てて腰の湾刀を抜き放ち、単刀蛊を発動させた。
一閃の冷光が走るも、全く効果が無かった。単刀蛊は防御手段を無視できると雖ども、其の発動は必ず(かならず)しも成功する訳ではなく、一定の確率に依存している。加之、此の四转单刀蛊は一たび発動させれば、四时辰の休養が必要で、連続使用は不可能なのである。
歐陽碧桑は思わず息を呑んだ。事前に関連情報を把握していたとはいえ、単刀蛊の神速は彼の想像を遥かに超え、反応する寸秒の猶予も与えなかったのである!
「此奴を生かしてはおけぬ!」
歐陽碧桑は殺意を爆発させ、潘平に殺りかかった。
潘平は己の手段が失敗したと知り、早から危険を察知して慌てて撤退した。歐陽碧桑は執拗に追撃をやめない。黒家軍は急ぎ三人の四转强者を派遣し、歐陽碧桑を食い止めて潘平を軍中へ救出した。
三人の四转强者は歐陽碧桑を取り囲み、激しい攻撃を浴びせた。歐陽碧桑が殺招・修羅変を発動せんとしたその時、墨獅狂は最早耐え切れず、王帳から飛び出し、咆哮しながら駆けつけた。「二哥!俺が一臂の力を貸すぜ!!」
歐陽碧桑一人で既に黒家軍を手込も手も足も出ない状態に追い込んでいたところへ、墨獅狂までも戦場に加勢したことで、状況は更に倍も悪化した。
「三弟、手出し無用!人数が増えようと、何の役に立つというのか?此れを見よ、我が修羅変を!」
歐陽碧桑は三人の強攻を受けながら怒号一声、敢然として殺招を発動した。
其の気勢は俄かに爆発的に高まり、体躯は見る見うちに膨張して一丈有余の巨人と化った。
全身の筋肉は風船の如く膨らみ、岩の如き隆起した誇張的な筋肉群が瞬時に形成。元から有った一対の腕の下方に、新たに二対の腕が生え出た。
全身の肌膚は全く碧綠に変色、巨足は革靴を破り、草地に深い足跡を刻んだ。
剥き出した牙は暗褐色へと変わり、両眉の中間には第三の縦瞳が見開かれた!
吼え!!!
歐陽碧桑が口を開けて放つ一声は、狂暴な音波と化り、瞬くうちに全戦場を圧倒した。
三人の黒家蛊師の動きが一瞬止んだ。
歐陽碧桑は拳を振り回し、蝿を叩き潰す如く、其中の一人を遥か遠くへ吹き飛ばした。
残る二人が強攻を仕掛け、金刃が飛び交い、雷霆の如き攻撃を加えたが、歐陽碧桑は是れを硬く受け止め、巨躯は微かも揺るがすこと無かった。
「死ね!」
彼は六本の腕を同時に駆り出し、拳掌抓拿の招き狂う如く、猛烈且つ絶妙な連携攻撃を繰り出した。
残された二人の四转蛊師は其の鋭鋒に敵わず、退避する他無かった。
歐陽碧桑は驕りを募らせ、一撃一撃が音爆を炸裂させ、其の威は聞く者を慄然とさせる程であった。
一人の四转蛊師は、此の狂猛な攻勢に耐え切れず、瞬く間に鮮血に染まった肉塊と化った。もう一人の蛊師は歐陽碧桑に掴み取られた。
「殺さないで、お願い――!」
彼の哀願の声は突然途切れ、七穴から血が噴き出し、肋骨は粉々(こなごな)に砕け、体は萎み上がった。歐陽碧桑の二つの手の平で、文字通り握り潰され絶命したのである。
「斯くまで悍猛とは!」
狽君子孫・孫湿寒は思わず絶叫した。
黒楼蘭の顔色は最悪で、太白雲生も表情を硬くした。
劉家軍からは天を衝く歓声が湧き起こり、黒家の蛊師たちは少し混乱し、士気は最低レベルに低迷した。
劉文武は此の情景を見て三声高笑いし、大きく手を振って下令した。「開戦!全軍突撃せよ!」
瞬時に、大軍は堰を切った洪水の如く、天下を席巻せんとする勢いで奔流のように押し寄せた。墨獅狂、裴燕飛らが先鋒を切って進む。
黒楼蘭は歯を食い縛り、全軍に迎撃を命じた。
両軍は激突し、喊殺声は九霄を貫いた。
激戦の中、劉家の数多の猛者が縦横無尽に暴れ回り、黒楼蘭らは交戦するや否や劣勢に立たされた。
然し下位戦線では、黒家が優位に立っていた。狼群は方源の指揮の下、劉家の蛊師を屠りまくった。劉家軍の蛊師たちは、貴重な真元を侵攻する野狼に浪費せざるを得ず、例え狼一匹の死に付いても、それらは卓越な貢献なのであった。
劉家の蛊師強者たちは危険を察知し、方源の姿を探し求め回っていた。
然し方源は以前と同様の手口で、戦場の片隅に潜んでいた。彼は既に三匹の四转潜魂兽衣蛊を手にしている。此れら蛊虫の遮蔽効果により、方源が八割以内の力しか出さなければ、魂魄の波動を完全に隠すことができたのである。
此の大戦は朝から夕暮れまで続いた。
血のように染まった夕陽が、薄暗い光を屍累々(るいるい)の草原に投じ、地面は血の海と化していた。
両者は相討ちの状態に陥った。
劉家軍は兵力に甚大な損害を被り、狼群が大きな戦果を挙げた。劉家は方源の足跡を探し出せなかった為、矛先を黒家の蛊師強者たちに集中させた。
黒家の蛊師強者たちの損耗は極めて深刻であった。墨獅狂と歐陽碧桑の暴威は止め様がなく、黒家の強者たちは殆どが肝を冷やした。
黒家軍の闘志は散漫となり、辛うじて持ち堪えていた。夜の帳が降りると、夜狼が凶暴化したため、劉文武も下級蛊師の被害をこれ以上拡大させたくなかった為、撤退を考え始めた。
両軍の初戦は相打ちに終わり、夜更け頃には殺気が次第に収まり、各々(おのおの)防衛線まで退いて、休息と再編に当たった。