北原暦六月中旬、
盛夏の候であるに拘わらず、十年雪の気配は既に濃厚であった。天候は曇天がちで、寒風が吹き荒び、霜気は日増しに強まっている。
北原全土に拡がる王庭争奪戦は、正に酣を迎えていた。
鏡湖戦線では、馬家軍と宋家連合軍の戦いが勃発。馬家は圧倒的な優位に立ち、宋家の二道に及ぶ防衛線を連破した。
此の間、宋家連合盟主・宋清吟自ら先頭に立って反攻を指揮し、馬家軍は埋伏に遭って一線を退かざるを得なかった。
然る後、馬家の奴道大師・馬尊が出手。切り札の天馬群を投入し、空中で宋清吟を包囲攻撃して討ち取った。宋家軍は指導者を失い、更に馬家の仕掛けた離間策に嵌り、遂に完全に瓦解した。
馬家は大半の部族を併呑し、残り少なき残党は四散して逃げ惑った。
此の一戦により、北原随一の飛行大師として名高かった五转初階の水仙・宋清吟が墜落、其の身は奴道大師・馬尊の威名を高める礎と化った。
馬尊が示した実力は人々(ひとびと)を驚嘆させ、一部では「北原随一の奴道大師」との称号が囁かれ始めた。
猛丘戦線では、努爾圖と江暴牙の激戦が繰り広げられた。
努爾圖は元来奴道蛊師ではなく、中途から転向した半畳出身であった。然るに彼が率いる豹の群れは、古参の奴道大師である江暴牙を圧倒し、遂に之を撃破してみせた。
此の一戦果のみで、努爾圖は北原奴道大師の列に躍り出て、江暴牙、楊破纓、馬尊、常山陰と並び「五獣王」と称されるようになった。
然し努爾圖の成名戦は成し遂げたものの、其の代償は少なくなかった。
江暴牙の反撃により、努爾大軍は甚大な被害を被った。戦後に敵軍の残党を併合し、戦争賠償も得たが、軍勢の拡大は頓挫してしまった。
「鼠王」江暴牙は辛うじて逃れ、残兵を収容した。元々(もともと)六十万余の鼠の大群は、三万足らずにまで激減していた。
斯くの如く敗軍の将と雖ども、彼は依然として各勢力の垂涎の的となった。既に十数の勢力から招聘状が届いているのである。
一方、独角地区では、耶律桑が仙蛊の加護を得、五转巅峰の火道を極めた強大な個人戦力を以て、群雄を圧倒し、最後の障壁を排除して、見事に独角地区の制覇を成し遂げた。
然るに、耶律軍が燎原の炎の如く周辺へ拡大しようとした其の時、七路の大軍が期せずして連合し、挟撃を開始した。
此の七路軍は、何れも少なからず十数万の兵力を有し、超弩級世族ではないものの、有名な蛊師の強者を擁していた。
七路軍が連合した其の勢い誠に猛烈であり、局面を打開したばかりで大いなる活躍を期していた耶律軍は、危局に陥ったのである。
一方、黒家軍も大敵に直面し、自らの事で手一杯であった。
劉家の劉文武は自ら大軍を率い、黒家に日増しに迫りつつあった!
元来、古国龍が劉文武に救援を要請したのを受け、劉文武は書簡を読んで欣喜した。此れが得難き好機であると悟ったのである。古国龍側が耐え忍げば、劉家軍が黒家の背後から挟撃を仕掛けることで、優位に立ち、初手から黒家を受動的な立場に追い込むことが必ず可能であった。
然し結果は、世の流れの速さを物語るように動いた。劉家軍が行軍の半途に着いた頃、戦報が届き、古家軍が敗北、已む無く黒家に帰順したと知らされた。而して此の一切を引き起こした鍵となる人物が、太白雲生であったのである。
劉文武は此の報せを受け、驚愕を禁じ得なかった。
太白雲生の如き伝説的な人物が、自ら進んで現われ、黒楼蘭を助けに赴くなんて!
黒楼蘭が此の一人物を得たことは、千軍万馬を手にしたに等しい!
劉文武は直ぐに悟った——此れは黒家の蛊仙が背後で手を引いているのだと。
巨陽仙尊が定められた規矩に則れば、王庭争奪戦において蛊仙は一定の範囲内で凡人に援助を提供できる。但し、此の援助には上限が設けられており、少なくとも蛊仙自らが直接出手するのは絶対に禁じられている。
耶律桑が持つ仙蛊も、書簡を受けて黒楼蘭を支援する太白雲生の出現も、全て(すべて)蛊仙の仕業なのである。
劉文武も当然、彼を背後で支持する蛊仙に援助を求める権利を有している。
黒楼蘭が太白雲生を手にしたことは、劉文武から見れば、狼王・常山陰を得るよりも恐ろしいことだった!
太白雲生の声望は極めて高く、正道・魔道を問わず、多くの者が其の恩恵に与っている。此れら恩を受けた者の内、僅か一部でも報恩の志しを持てば、其の力は恐るべきものとなる。
更に、一旦黒家が勢力を拡大すれば、離散しながら依然と观望を続ける魔道蛊師たちは、王庭入りの希望を見て自発的に帰順するだろう。
太白雲生の存在が、彼らを一層黒楼蘭へ傾けさせる。
此の様にして黒家は雪達磨の如く強大化し、時の経過と共に、遅かれ早かれ他の競争相手を置き去りにしてしまうのである。
「黒楼蘭は東方余亮を破り、超弩級部族から戦争賠償を奪い取った。其れ自体が既に大儲けだ。一方、我々(われわれ)が撃破した連合軍は、何れも大規模部族の寄せ集めに過ぎず、得た賠償金は元々(もともと)黒家より劣っていた。今、黒家は太白雲生という生きた看板を手にした。彼に時を与えて勢力を拡大させれば、将来手に負えなくなるだろう。」
劉文武は片時思索した後、果断に軍令を下した。劉家軍は原案通りの計画を維持し、黒家へ向かって進軍を続ける。
此の報せを受けた黒楼蘭は哄笑を爆ぜ、「良かろう!」と叫び、即座に現地での防衛線構築を命じた。
第一防衛線が完成すると、軍は緩やかに移動を開始、劉家軍へ向かって前進した。千里毎に駐留して数日過ごし、新しい防衛線を築き上げてから、更に進むという作戦を取った。
十二日を経て、黒家軍は構築した第四防衛線より進発し、五百里を行軍して劉家軍と対峙した。
両軍は陣を構え、将を挑む段階に入った。
黒家の大将・浩激流は当然の如く陣頭に躍り出た。
劉文武は此れを見て、裴燕飛を遣わした。
浩激流は四转高阶の修行を積んでいたが、裴燕飛も同様であった。両者は二十合に渡って戦ったが、優劣つけ難かった。
浩激流の怒涛の如き攻勢は人々(ひとびと)の肝を冷やした。然るに裴燕飛は鋭利猛鋭で、此の激流の中を縦横無尽に駆け巡り、向かう所敵無しの勢いであった。
さらに片時戦いが続くと、両者の真元は共に枯渇の兆しを見せ始めた。
蛊師は持久戦を得意とせず、真元が尽きれば戦力は急激に低下する。
「此のままではいけない!」
二人の心中に、期せずして同じ想いが湧き上がった。
水瀑蛊!
浩激流が先制し、両掌を押し出すや、轟音と共に大瀑布が現出し、裴燕飛目掛けて激突した。
裴燕飛は正面から受け止めず、移動蛊を駆り地を蹴って天空へ舞い上がり、水瀑の攻撃を回避した。
四转蛊・金縷衣蛊。
四转蛊・燕翅蛊。
四转蛊・虹変蛊。
殺招――金虹一撃!
裴燕飛は乾坤一擲の覚悟で、渾身の招牌殺招を放った。
瞬時、彼は一筋の金虹と化け、天を裂く如く電光石火の勢いで水瀑を粉砕し、見事に浩激流を直撃!一撃で彼を打ち砕いた!
然かしながら、浩激流が砕け散ったのは水の飛沫であって、本物の血肉ではなかった。
水像蛊!
浩激流は長い戦いの中で、裴燕飛の偵察蛊が強力でないことを事前に把握していた。故に水瀑を放つと同時に、巨大な水流が裴燕飛の視界を遮った隙に、音も無く水像蛊を発動。真の身体は瀑布に融け込んでいたのである。正に神も知らぬ巧妙な罠であり、両軍の大多数の蛊師を欺くこととなった。
裴燕飛は水像を撃破するや、心中で「しまった!」と叫び、最早保留せず、残存する真元を全て(すべて)燕翅蛊に注ぎ込んだ。
彼の背中に生えた二対の燕の翼は疾く震え、戦場から脱出させる。
一方、浩激流は原地に佇立し、全身が水流で濡れていた。小勝を収めたものの、喜びはなかった。相手の殺招の威力は凄まじく、今回は水像蛊で欺くことができたが、次はどうか?
「兄貴、俺を出陣させてくれ!」
裴燕飛の敗退を見て、墨獅狂は鬚を逆立てて焦燥し、出戦を請願した。
劉文武は微笑みを浮かべたが、彼の願いには応じなかった。
「三弟、落ち着きたまえ。先の大戦は貴様の出番であった。此度は我の番と心得よ。」
極めて痩身高丈で、骨太く精悍な頭の蛊師が進み出て、墨獅狂の肩を軽く叩いた。
「二哥!」
墨獅狂は已む無く叫んだ。此の人物、欧陽碧桑と申す。魔道の蛊師であり、若き日、遺跡にて劉文武・墨獅狂と邂逅し、三人協力して難局を打破し、傳承を得た。意気投合した彼等は義兄弟の契りを結んだのである。
「鄙人欧陽碧桑、誰か賜教を請わん?」
欧陽碧桑はゆったりと両軍の陣頭に歩み出、軽やかに喝した。
続けて彼は浩激流に向かい、「水魔よ、若し此方と手合わせ願いたければ、先ずは暫し休息し、真元を全く恢復されたい。」と述べた。
水魔は嗤いを漏らしたが、応戦しなかった。「急ぐことはない。必ずや手合わせする機会は巡って来る。」
そう言い終えると、彼は陣中へ引き下がった。
王庭争奪戦も此の段階に至り、各勢力や強者たちの情報は広く流布している。
欧陽碧桑は墨獅狂の二哥であるという一点だけでも、軽視できる存在ではない。以前、劉家軍における幾戦かでの彼の活躍は、極めて鮮烈であった。
彼は変化道の強者であり、此の流派の蛊師は少なくとも一つの殺招を有する。其の修行は四转巅峰であり、墨獅狂と同様に、五转蛊師に匹敵する戦力を備えている!
彼は初陣にして、敵方の五转盟主を斬殺した。越階挑戰を成し遂げるとは、多くの者が生涯をかけて憧れる輝かしい戦績である!
此の如き強者を面前に、水魔・浩激流たとえ全盛期であろうとも、勝算は少なく敗北の可能性が高い。更してや今日の一戦では、彼の精力は既に裴燕飛によって消耗されている。蛊師の状態は、単に空窠の中の真元の量のみで測れるものではない。
欧陽碧桑の出陣を見て、黒楼蘭は微かな頭痛を覚えた。
劉文武と比べるに、今己の麾下に猛将不足を痛感した。
古家軍を吸収した後、黒家大軍の王帳に在る五转蛊師は三人。各の黒楼蘭、太白雲生、そして新規加入の古国龍である。
黒楼蘭は盟主として軽々(が)しく動けず、太白雲生は治療専用の蛊師で戦闘を得意としない。古国龍は五转土道の蛊師だが、相手は四转巅峰。彼を出せば挑将の不文律に反し、世間の失笑を買うだろう。
四转蛊師に目を向けると、十分に使えるのは狼王常山陰、水魔浩激流、影劍客邊絲軒、小狐帥唐妙鳴、そ(れ)に単刀将潘平のみ。
常山陰と唐妙鳴は奴道蛊師の為真っ先に除外。水魔浩激流は既に退場。黒楼蘭の選択肢は残り二つに絞られた。
彼の視線は、潘平と邊絲軒の二人の顔を行き来した。
潘平は、己の底力だけでは欧陽碧桑に敵わぬと悟り、落ち着きを失っていた。邊絲軒は黒い布で顔を覆い、冷たい眼差しを湛えていた。
黒楼蘭は邊絲軒に向き直り、言った。「此度は、影劍客の出手を煩わせたい。」
「然らば、命だけは保証するが、勝利は保証できぬ。」
邊絲軒は冷やかに言い放った。
黒楼蘭は乾いた笑い声を上げた。盟主と雖ども、邊絲軒が毒誓を立てているとはいえ、彼女に無理に死戦を強いる訳にはいかないのだ。