太白雲生は、背丈高く風貌奇矯で、鬢の霜は雪の如く、顔中に刻まれた皺は深く刻まれていた。
齢は既に八十を超えるが、その両目には老いの昏げは微塵も無く、天与えの悲天憫人の温かさと、世俗を見透かす平淡さが宿っていた。
七歳の時より、北原を遍歴し衆生を救済せんと志した。
其の人生は激動に満ち、命運に翻弄され続けてきた。一族滅亡、奴隷蛊師転落、妻の裏切り、異人の捕虜、奇遇による宙道蛊仙の継承、臨終の際みの兄弟の捨身の救済……
今や彼は生ける伝説と化している。
孤高の身ながら、誰もが認める正道の大蛊師である。其の仁慈の名は北原の人々(ひとびと)の心に深く根差し、常山陰、黒楼蘭、劉文武らを遠遠に凌駕する威望を有する。
まさに黒楼蘭が戦局に手を焼き、撤兵を考え始めた頃、彼は一騎で陣営の外に現われ、一通の書簡を手にしていた。
黒楼蘭が封を解いて目を通すや、瞬時に事情を悟った。
元来、往年黒家の太上家老である黒柏は、太白雲生を高く評价し、幾度となく指導や救済を施していた。今、黒家大軍が苦境に陥ったのを暗に看守っていた黒柏は、書簡をしたためて太白雲生に伝え、支援に駆け付けるよう求めたのである。
太白雲生の力量を熟知する黒楼蘭は、大いに喜び、当夜宴を設けて手厚くもてなした。
翌日、夜明けと共に、黒楼蘭は待ち切れず陣形を整え、太白雲生に出手を請うた。
衆人の期待の目を浴びながら、太白雲生は悠然と陣頭に進み出、眼前に聳える高山を仰ぎ見た。
古家は土道を得意とすることでは、北原随一の名を馳せている。巨石を積み上げて山を築く——此の戦術は地球では想像もできず、実現不可能だろう。然し此の世界では、十数日で浇筑された此の新しい山が、人々(ひとびと)に「不可能は無い」と語りかけている。
盟主・古国龍は山頂に君臨し、山麓を俯瞰していた。
白衣に雪の如き白髪の老人が陣を出るを見て、周りの蛊師たちは哄笑を爆ぜさせ、或いは軽蔑の嘲笑いを漏らした。しかし古国龍の心中には、不穏な予感が募っていった。彼は痛感していた——己の「積土成山の策」は、自家の土道蛊師の多勢を基盤としていることを。他家が真似するのは難しくとも、打破する手立てが無い訳ではないと。
古国龍は黒家軍に連戦連敗を喫し、軍勢を削がれて、当初の野望は既に色褪せていた。彼は熟慮の末、劉家に帰順することを決断した。
劉家の劉文武は仁厚で英明、人に寛ぎ己に厳しく、黒楼蘭より遥かに評判が良い。数日前、古国龍は密かに書簡を送り、帰順の意思を伝えていた。
「劉文武公子は既に返書を下さり、我が族の帰順を承諾された。今軍を率き援軍として駆け付けて下さっている。此の城を固く守り、後七日支え持てば、暗雲が晴れて青空が見え、苦境を脱することができる。」
古国龍は心の内で自らを励ましていた——其の時、太白雲生が緩やかに両手を差し出した。
其の掌は大きく、古い胼胝が点々(てんてん)とし、皺が広がる様は古木の樹皮を思わせる。
彼は緩やかに真元を巡らせ、両手に微かな銀色の輝きが現われた。銀光は初め弱かったが、瞬く内に次第に強まり、数回瞬きする頃には強烈な輝きと化り、直視できない程であった。
「山如故。」
太白雲生が悠然と詠う声は、雲行くを遮るほど響き渡った。
山頂では、古国龍が此の声を聞くなり、顔面に驚愕の色が走った。「しまった!彼は太白雲生だったのか!」
言うが早いか、銀光が炸裂し、一直線の光柱と化って山頂を直撃した。
数多の蛊師たちは危険を察知し、直ぐに防御蛊虫を発動させ、或いは攻撃を放って迎撃しようとした。
しかし銀光は如何なる妨害も無視し、山頂を燦然と照らし出した。
人も獣も無事であったが、古家軍の足下の岩や石は、如何に巨大で堅固であろうと、銀光に照らされると灼熱の陽に晒された雪の如く、眼に見えて徐々(じょ)に虚無へと帰していった。恰かも元々(もともと)存在しなかったかのように。
足場を失った古家軍の兵士たちは、次々(つぎつぎ)に墜落した。瞬時に人馬倒錯し、五丈から六丈もの高さから岩石の上に転落、数多の死傷者を出した。
最も愚鈍な古家の蛊師でさえ、此の時危機を悟った。
彼らは一斉に悲鳴を上げた。「山が消える!」「足場が無くなる!」「墜落する!」「助けてくれ!」
恐慌が瞬く間に全軍に蔓延した。兵士たちは右往左往し、互いに押し合い踵を回す有様であった。
「此の如き力……此れは太白雲生様の『山如故』に相違ない!」
「天よ、何故太白老先生は暴君・黒楼蘭を助けられるのか!」
「太白雲生様は昔、我が族の為に元泉を回復し、救いの恩人であらせられた。其の方と今戦わねばならぬというのか?」
古家軍の足下に築かれた新山は、彼ら最大の精神的支柱であった。其れが轟音と共に崩壊したのみならず、太白雲生という存在そのものの威光が、彼らの戦意を根底から揺るがす要因となった。
「はははは、流石は太白雲生、一出手にして凡ならざる響き有りよ。」
黒楼蘭は王帳の中に坐し、此の情景を目にすると、驕り高ぶる笑い声を放った。
彼も予想だにしなかった、何と家には此うした隠し玉が存在したとは。
然し、超弩級部族の太上家老たちは、折に触れて魔道や正道の凡人蛊師の中から、将来性を認めた種を見出し、育成するものだ。
一旦此等の「種」が将来蛊仙に成り上がれば、往々(おうおう)にして超弩級部族に吸収され、外姓の太上家老となる。
此れこそ超弩級部族が自が地位を維持する為の発展策の一つなのである。
明らかに、太白雲生は六转蛊仙・黒柏に見出され、将来の蛊仙昇格を期待される有望な「種」であったのだ。
敵軍の狼狽える姿を目にし、黒家軍の士気は大いに高揚した。兵士たちの間からは轟然たる笑い声が湧き起こり、「敵の老若男女を皆殺しにせよ!」との叫び声も上がった。
王帳の中では、蛊師の強者たちも欣喜雀躍していた。しかし、方源だけは沈静とした表情を浮かべていた。太白雲生の出現は、彼の予想の内であった。
前世五百年の記憶によれば、太白雲生は此の時期に黒家軍に参加し、終始黒楼蘭を補佐して多大な支援を提供したのである。
黒楼蘭が最終的に諸雄に勝利できたのは、大きく太白雲生の功績に負うところが大きかった。
しかし太白雲生は生来仁慈の性格であり、補佐する中で次第に黒楼蘭の凶暴残忍な本性を認識するようになった。其の為、王庭福地に入った後、其処で蛊仙に昇格したものの、黒柏の要請を受け入れず、黒家の外姓太上家老とはならなかったのである。
「殺せ!此の犬畜生めが!良くも土を積み上げて山と為し、依怙地に抵抗するとは!」
黒楼蘭は興奮して咆哮した。
陣頭に立つ太白雲生は、此の言葉を聞いて眉をひそめ、悠々(ゆうゆう)と息をついた。然し攻撃を続ける代わりに、伝音術で黒楼蘭に諫言した。「盟主殿、天は生を愛しむ徳あり。何故必要も無く殺生を重ねられますや?歴代の王庭争奪戦において、血は盾を漂い、犠牲は数多に上ります。盟主殿が王庭入りを目指されるなら、古家軍を降伏させて収容される方が良ろしい。此の老生、説得役を買って出ましょう。」
古家軍が土を積み上げて築いた山は、黒家軍に対抗する為のものだったが、太白雲生を前にしては、却って自らを葬る致命の罠と化してしまった。
今、黒家軍は古家軍を鉄壁の包囲網で囲み、一つの隙も無く封じ込んでいる。
太白雲生が本気を出せば、古家軍を半減させることなど造作もない。古家軍も座して死を待つ訳にはいかず、新山が消滅すれば、軍力は必然的に枯渇し、最後の突撃など微塵の脅威にもならぬだろう。
然し太白雲生は其れを為さなかった。
黒楼蘭の眼中には凶光が揺らめいていた。内心では殺意が沸騰しているものの、太白雲生の顔は立てねばならない。
太白雲生は並の蛊師では無い。
彼は極めて稀な宙道の蛊師であり、其の修行は五转巅峰に達し、北原における威望は旭日の如く天を焦がし、其の影響力は草原全土に遍く及んでいる。
黒楼蘭は少し沉吟した後、応えた。「では此度ばかりは老先生の言う通り(どおり)に致しましょう。但し、老先生お一りで山に登られるのは余りに危険です。六人の四转强者を護衛として付けさせていただきます。」
太白雲生は軽く肯き、重厚な護衛に囲まれて山上へ向かった。
彼の威望は極めて厚く、仁慈の名は人々(ひとびと)の心の深くに浸透している。其の到る所、敵軍は自発的に両側に分かれ、中央に通路を現わした。
「恩公に此の様な時にお会いするとは思いも寄りませんでした。」
古国龍は苦笑を浮かべながら進み出て、恭しく挨拶を述べた。
当年、古家の元泉が枯渇し、幾つかの大部族から排斥を受けて移徙が危険に瀕した際、太白云生を請い入れて救済を求めた。太白云生は何の報酬も求めず、無償で手を下し、古家上下の恩人となったのである。
太白雲生の説得に応え、古国龍は劉文武に心寄せる想いを抱きつつも、状況の優位に抗えず、頭を垂れざるを得なかった。
太白雲生が山に登ってから一刻も経たずして下山した。
登頂時の七名に対し、下山時には十数万の軍勢を従えていた。
此の一戦において、太白雲生は見事に説得を成功させ、古家大軍を全員黒楼蘭麾下に帰順させた。黒家軍は兵力が爆発的に増強されることとなった。
太白雲生は孤高の力で戦局を一転させ、深甚なる威光をもって十余万の生命を救済すると共に、黒家に対する偉勲も打ち立てた。
太白雲生が黒家軍に加わった初日にして、早くも戦功榜の首位に躍り出た。
其れに対照する方源の名は──
狼王・常山陰の名は、戦功榜の最下位に、鮮烈な赤で記された巨大な負数戦功。
太白雲生の輝かしい戦功と、痛ましい程に対照的であった。
当夜、黒楼蘭は祝勝宴の開催を命じ、太白雲生の為の歓迎宴も兼ねた。
月は冴え渡り星は稀らに、篝火は天を衝く勢いで燃え上がった。
杯は交わし合い、音楽は雲を貫いて響き渡った。美貌の少女たちは北原の民族衣装を纏い、金銀や玉石を琳琅と鏤めた装飾品を身に付け、篝火を囲って優雅に舞い踊った。
黒楼蘭は度々(たびたび)太白雲生に杯を捧げ、讃えて言った。「老先生が御座すれば、如何なる防衛線も形骸化すること必定で御座います!」
太白雲生の手には、北原の民誰もが知る二匹の五转蛊が存在する。
一匹は「山如故」、もう一匹は「江如故」と称され、何れも宙道の蛊虫である。
前者は大地の厚土や山岳・丘谷を原の姿に回復させる能力を有し、後者は江河・湖沼・渓流・瀑布を本来の風貌に還元する。
古国龍が築いた新山は、元々(もともと)平坦な草原であった為、山如故蛊の作用によって本来の地形へ回帰した。
古家が以前有していた元泉は、江如故蛊によって当初の状態に恢復され、再び元石を産出可能となった。
大軍が相争う際、土道蛊虫を主として構築される千里に及ぶ防衛線の城壁は、山如故蛊の前には平坦な草地へと還元される。故に黒楼蘭が「如何なる防衛線も形骸化する」と述べた言葉は、深く道理に適っているのである!