黒楼蘭の降伏勧告に、東方余亮は沈黙をもって応えた。
彼は城壁の上に立ち、眼前に広がる黒々(くろぐろ)としげる敵軍を眺めながら、微風がその長髪を揺らし、衣の裾も軽やかに翻っていた。
かすかな嘆息が零れた。
縦え百の智謀を駆り尽くし、常に先手を打って謀りし者といえども、両軍の実力差は余りに大きく、遂に此の最終局面を迎えるに至った。
智道といえども、無敵の道ではなかったのである。
歴史を縦観すれば、蛊師の流派は次々(つぎつぎ)と現われ、百花繚乱の観がある。仮令気道や力道の如く一時的に隆盛を極めた流派と雖も、結局他流派を駆逐し、蛊師界を独佔するに至った流派は存在しない。
各流派は各々(おの)長所を持ち、また其れぞれ欠点を有する。
殊に蛊師の流派は、其の基盤を物資に置いている。時代が移り環境が変化し、修行に必要な物資が減少すれば、流派の生命力も亦衰え行く。
歴史に少しでも通じた蛊師ならば、悠久なる時間の流れの中に、数多の流派が葬られてきたことを知るであろう。
智道は遠古の時代に興り、今日まで伝わってきた。例え智道蛊師の数が常に少なかったと雖も、此の如き生命力の強さは、他に類を見ないと評して過ぎない。
此の世に、無敵の流派など存在したためしが無い。存在するのは、無敵の蛊師のみである。
然し無敵の境に到達し得た者は、歴史を貫いても、僅か九人に過ぎない。
東方余亮は五转の智道蛊師に過ぎず、世俗的には頂点に立つとはいえ、無敵と云うには程遠い。
仮令独創の必殺技・七星灯を有しているとはいえ、真元の消耗は甚だしく、永続的な使用は不可能だ。黒家の如き巨大勢力を前にしては、最早独木支え難きを痛感せざるを得ない。
「仮し我れが奴道蛊師であれば、乾坤一擲の逆転劇も可能であったかも知れぬ。然れども奴道とて斬首戦術には怯まねばならぬ。例え狼王常山陰と雖も、独り狼群を率いて本隊から離脱するなど敢えてしない。故に、蛊仙に昇華して初めて、塵界を超越し得るのである」
東方余亮は胸中で悄げきのため息をついた。
其の時、水魔・浩激流が進み出て挑戦を申し込んだ。
「風魔、出て来て死ね!」
彼は名指して叫んだ。
風魔は大いに怒り、低く吼えた。
「浩激流、図に乗るな!」
言うが早いか、彼は城壁から猛り立つ様に躍り出した。空中に在るや否や、蛊虫を駆動する。二道の四ツ葉風刃が瞬く間に(まに)形成され、迸る様に放たれた。
「何時まで同じ手を使い続ける気だ!」
水魔は嗤うと、避けもせず、猛然と迎え撃った。
轟々(ごうごう)!
風水双魔は既に十数度も交戦を重ね、互いの手口は熟知し尽くしている。此度の戦いも、瞬く間に白熱の坩堝と化した。
風刃と水彈が空中で激突し、爆発音を轟かせる。
風魔の攻勢は犀利にして、縦横無尽の動きで敵を翻弄する。一方、水魔の招式は狂放的で、その勢い磅礴として果てしない。
両者は旧くから其の名を轟かせており、一時は相まみえて燦然たる戦ぶりを見せるも、優劣容易につかず。
両軍の蛊師たちの視線はこぞって此の二柱に注がれた。
四转蛊師の強悍さは、多くの者が肌で感じてきたことではあるが、今改めて目にすれば、依然として肝胆を寒からしめる迫力がある。
戦いが暫し続くうちに、水魔は次第に優位に立ち始めた。
風魔の状態は最良とは言えなかった。蛊師の戦闘力にも浮き沈みがあるものだ。
今の状況のように、大局が既に定まり、黒家軍に包囲された東方部族連合軍の士気が低下している中、風魔も当然その影響を受けていた。
従来互角だった好敵手が、自れに劣勢に追い込まれる様を見て、水魔は勝ち誇った叫び声を上げ、攻勢を一層激しくした。
「将は兵の胆なり」という。此の光景を目にした黒家軍の士気は更に高揚し、一方城壁上の東方連合軍は、更深き沈黙に包まれた。
王帳の中、黒楼蘭は高笑いしながら、更に一人の四转强者を遣いに出陣させた。
東方余亮も一人を派遣して応じさせた。
しかし此の二人の四转蛊師の戦いは、風水両魔の激闘とは比べ物にならぬ程精彩を欠いていた。
「大山鳴動して鼠一匹」とでも言う様に、其の上戦闘中にお互いに談笑し、或る代の先祖が両家の間に縁組の間柄であった事まで話し出す始末だった。
東方余亮の面色は一層険しく曇り、黒楼蘭の笑みは更に深まっていった。
東方連合軍の士気は地に堕ち、人心も既に離散し始めていた。各勢力は殆ど全てが退路を求め始めていたのである。
黒家軍の士気は高揚し、四转の强者たちが続々(ぞくぞく)と出陣を請う。
黒楼蘭は笑みを浮かべて、其れぞれに許しを与えた。
間もなく、両軍の陣前に十二の戦圏が形成された。
「我こそは潘平、我が刃を受ける者はおらぬか!」
潘平は気焔天を衝かんばかりに、黒楼蘭の許しを得て十三人目の出戦者となった。
然し東方余亮は沈黙を続けた。
戦い此の時に至るまで、彼の麾下の四转蛊師も多く斃れ、残る强者たちも前瞻後顧して消極的に働き、面従腹背の態度を取る者が少なくなかった。
盟約締結の折、各勢力の首脳や知名の強者たちは毒誓蛊を用いたものの、其の誓約内容は厳格とは言えず、依然として多くの抜け穴が存在していた。
盟主の家と雖も、他部族を自れの戦車に縛り付けようと望むも、他勢力も愚かでは無い。故に毒誓の内容は、幾世代にも渡る調整を経て確立されたものなのである。
茲に潘平が挑みを掛けるに及び、東方余亮は己が手下に遣い出せる将が無きことを悟った。
彼は暫し沉吟した後、遂に一つの指令を下した。
「何ですって?東方盟主が父上に出陣を命じられただと!?」
城壁の裏にある陣営で、唐方は眼前の伝令使を目にし、顔色を曇らせ、目には炎を燃やさんばかりの怒りを浮かべた。
先の戦いにおいて、唐家の族長は一族の退却を掩護するため、黒家の二人の四转蛊師に包囲攻撃を受け、重傷を負っていた。その後、床に臥して病が癒えず、十分な休養も取れていない状態だった。
「此れは盟主の御命令である。唐家は命令に背くお積もりか?貴家の族長が重傷で病床に臥していることは承知している。然し病床の族長など幾らでも居る。盟主の命令を受け、其れでも出陣した者は少なくない。」
使者は強硬な口調で、唐方を見る目には露骨な蔑視の色が浮かんでいた。
「貴様!」唐方は激怒して低く唸った。「奴等は仮病を使っているんだ!父上の負傷は正真正銘だ!」
「止めよ、三郎。もう言うな」 その時、顔色を蒼白にした唐家族長が現れた。「此度の戦い、我が唐家の族長として、自ら出陣するは責務である」
「ふん、命令を受け入れれば宜しい」 東方家の使者は冷たい鼻息を鳴らすと、袖を払って去っていった。
「だが父上、其のお体は……」 唐方の心中には不安が渦巻いていた。
「構わぬ」 唐家の族長は子の肩をぽんと軽く叩いた。「此の数日十分に養生した故、傷は八分目ほど癒えておる。今日の一戦が、両軍最後の戦いとなるであろう。出陣せねば、体面も立たぬ。況んや一族全体にとって、害の方が多いのだからな」
唐方は歯を食い縛りながら言った。「では父上、どうかご無事で。姉上は未だ敵方の手の中にあります。機会がございましたら……」
「うむ、力の及ぶ限り努めよう」唐家の族長は微かに眉をひそめ、陣営から外れ出た。
彼は城壁に登り、東方余亮と対面した後、戦場に下り潘平と激戦を繰り広げた。
唐方は城壁の上に立ち、父の姿を固く見つめ続けた。
「若き族長殿、ご安心あれ。族長様には未だ余毒残るも、今日の一戦は平素と異なり、皆手加減を加えておりますゆえ」唐家の家老の一人が慰めるように言った。
唐方は父が潘平と互角に渡り合い、不発に終わる様子を見て、内心の不安も幾分和らいだ。
然るに其の時、潘平が突然爆発的な動きを見せ、腰に佩いた彎刀を抜き放った。
衆人の目には、煌めく白光が一瞬閃き散るのが見えただけだった。
改めて目を凝らすと、唐家の族長は首級が飛び、躯は地に倒れていた。
「父上――!!」
唐方は呆然と立ち尽すこと暫し、その後悲痛極まりない叫び声を上げた。
此の異変は余りにも速やく発生した為、双方とも数息の間驚愕に縛られ、其の後に至ってようやく喧騒が湧き起こった。
「唐家族長・唐幽、我が潘平が討ち取ったり!」
潘平は血に飢えた眼光を輝かせ、片手で唐家族長の首級を掲げ、興奮の声を張り上げた。
唐方は眼前真っ暗となり、其場で卒倒した。
「今の何だっ?」
「一筋の光が見えただけだ。速ぎて全然見えなかったぞ」
「あれは蛊なのか?それとも潘平の奥の手か?」
潘平が同格の強者を瞬殺したことで、一瞬にして戦場の焦点と化した。終始瞑目養神していた方源でさえ、微かに眼帘を見開き、彼へ向けて注視の眼差しを向けた。
北原の地は広漠として、百戦の地と称される。数多の戦いが、次々(つぎつぎ)と強者を鍛え上げてきた。此等の強者たちは、常に人知れざる秘蔵の手段を温存しているものだ。
潘平は四转蛊師とはいえ、元来地味な存在で、同格の蛊師の中でも目立つ方ではなかった。然し此度の一戦、唐家族長の屍を踏み台に、其の名を轟ろかせることとなった。
潘平は得意満面、勝ち鬨を上げて帰還した。
黒楼蘭は哄笑しながら、直ちに自らの酒杯を下すよう命じ、杯中の美酒を潘平に賜わった。
「盟主様の賜物、感謝致します!」
潘平は王帳に昂然と立ち、杯の中身を一息に飲み干すと、眼光人を顧りみて、意気盛んである。
彼が此の蛊虫を手にしたのは、全くの偶発であっ た。或る時、幾つかの大部族が開いた市で、彼は此の彎刀の精緻な造りに引かれて購入し、玩器として携えていた。
然し想定外にも、玩賞する内に、彼は彎刀に隠された秘密を発見する。刀身に一筋の冷光が走っており、其れが何と神秘な蛊虫であったのだ。
潘平は辛苦惨憺の末、漸く此の蛊虫を煉化することに成功した。蛊の名称は不詳ながら、其の鋭鋒は幾度となく強敵を斬り伏せ、彼の最大の切札となった。
此度の王庭争いに、彼は大いなる期待を寄せている。
元来、黒家と東方軍の第一戦の折、彼は真っ先に進み出て先鋒を志願していた。当時から、此の蛊を駆使し、衆目の前で強敵を討ち果たし、一戦にして名を揚げようと画策していたのである。
然るに唐妙鳴は、狼王常山陰を名指しで挑戦し、潘平に鬱憤を溜めさせる結果となった。
更に彼を悩ませたのは、方源が常道を外れ、直接に手を出し、両軍を全面戦争に導いたことであった。これにより、将兵挑戦の段取りが完全に省略されてしまった。
潘平が長らく待ち侘びていた好機は、此の如く水泡に帰した。その後の激戦も、彼が望んだ舞台とは程遠いものであった。
「然し今日の一戦で、遂にして好機を掴み得た。唐家族長・唐幽は、早くから名を馳せた人物である。此度の戦いにより、我が地位は瞬時に急騰し、黒家随一の戦将とまで言われるように成った。何と言っても、水魔の浩激流は、風魔を討り果たせずにいる。狼王常山陰に至っては、奴道蛊師であるから、比較の対象外れだ……」
潘平が周囲を見渡すと、人々(ひとびと)の目線が明らかに変わっているのを感じ、心中の快感が更に濃密になっていった。
「此れが雲の上の身分というものか。ふふ、何時か必ず、我が潘平の名は北原中に轟き渡るのだ!」
彼は心の内で叫び続けていた。