半空に揺らめく紅蓮の炎雲は、滾るような熱気を放ち、方源の肌膚に一陣の灼熱感をもたらした。
方源は蒲団の上に端坐し、両目を緊く閉じていたが、心神はすでに炎雲と同調していた。
「火加減はほぼ適切だ」
彼は心中で時間を計り、徐々(じょじょ)に眼を見開いた。そして一つの酒甕を取り出した。
酒甕の中は、紺碧の水液で満たされており、月下の海原のような輝きを放っていた。
「落ちよ」
方源が軽く喝するや、半空の炎雲は悠々(ゆうゆう)と降下し、酒甕の中へと注ぎ込まれた。
瞬時、水と火が交じり合い、漆黒の濃煙が渦巻き立った。
漆黒の煙が瞬時に充満し、部屋全体を覆い尽くした。
方源は眼前すら見えぬ暗闇の中に立ち尽くすが如き状態となった。
彼が心を動かすと、酒甕の中から急に吸込む力が生じ、数息の内に漆黒の煙を全て(すべ)て甕の中へと吸い込んだ。
部屋には再び明らかさが戻り、かすかに甘い香りが残された。
方源は指を弾くようにして、次々(つぎつぎ)と蛊虫を酒甕の中へ投じ入れた。酒甕は微かに震え始め、半刻ほどの間震動が続いた後、徐々(じょじょ)に静まっていった。
方源が覗き込むと、酒甕の中には黒い泥だけが残されている。先程投じ込まれた蛊虫たちは完璧に融合し、一つの未完成品として黒泥の中央に潜んでいた。
「起て。」
方源は細心の注意を払い、真元を注ぎ込んだ。
黒泥の表面が破れ、細い若芽が顔を出した。若芽は翡翠のように翠緑し、目を見張る速さで成長し、瞬く間に小さな苗木となった。
苗木は目に見える速さで太く逞しく育ち、ぐんぐんと天高く伸びて行った。一方、酒甕の中の黒泥は急激に減っていく。
黒泥が八割減った時、小木は成長を止め、全ての樹冠が一つに結ばれ、緑色の拳を握り締めたかのような形となった。
「開け。」
方源が一声喝すると同時に、膨大な真元を瞬時に注ぎ込んだ。
翠緑の拳が緩やかに開き、掌の中央に一匹きの蛊虫が現れた。その蛊は長い楕円形の体に、甲冑の如き背甲を纏い、深い褐色の脊部が高く隆起している。頭部には雄壮で力強い独角が一本、重厚かつ威風堂々(どうどう)とした風格を放っていた。
四対の長い足は、いずれも強靭で、全身に油のようにつややかな金属光沢を放っている。一目見ただけで、此の蛊が並み一般のものではないことが分かる。
方源の瞳に一筋の喜びの色が走った。
此れこそが全力以赴蛊であり、彼は以前三度の失敗を経て、四度目の今回ようやく煉製に成功したのである。
方源は細かに観察し、全力以赴蛊が煉製される前と後の差異を吟味した。
三転の全力以赴蛊は三対の長足しか持たず、南疆由来の為異域での抑制を受け、二転の気配しか放たない。
一方四転の全力以赴蛊は四対の長足を持ち、体形も三転の二倍以上に巨大化している。北原で煉製された為、北原の蛊虫へと変貌し、もはや異域抑制を受けず、紛れもない四転の気を放っている。
「此の四転蛊を手にすれば、我が力道の戦力は瞬時に大半回復する。次は五転秘方の準備に移らねばなるまい。幸い、今の我れは福地を擁し、宝黄天と通じ、琅琊福地とも未だ少しばかりの繋がりが在る。全力以赴蛊の五転秘方を手にいれる望みは、十分に在りそうだ。」
方源は新たに得た全力以赴蛊を空竅に収め、軽く掃除を済ませると、大蜥屋蛊から出て行った。
屋外は風光明媚である。
数多の蛊師たちが無数の営帳の間を縦横に駆け巡り、各々(おのおの)の用事に忙しく働いていた。輜重営で蛊虫を交換する者、戦場の掃討から戻った者、防御工事を築く者など様々(さまざま)である。
東方連合軍との大戦から、既に八日が過ぎ去っていた。
此の八日間、黒家軍は殆ど動かず、毎日戦場の掃討、戦功の算定、負傷者の治療に追われていた。
煩雑で重い業務が、大軍の上層部をてんてこ舞いさせている。黒楼蘭の机の上には、山と積まれた公文書が並んでいた。狈君子は重責を任され、三日三晩も眠らずに働き続けたため、顔色が真っ青になっていた。各家の族長たちも、昼夜を問わず自族の利益のために駆け回り、目の回る忙しさだった。
上位者とし ては、当然上位者なりの覚悟と責任が求められる。此の間、葛光も数回方源を訪れ、葛家の利益のために顔を出してくれるよう頼んだが、方源は修行に没頭し、一切取り合わず門前払いを食わせた。
此の時際立って見えるのは、魔道蛊師たちの悠々自適ぶりである。彼らの多くは勢力に縛られず、自の身さえ顧みれば良い。自が戦功が過少申告されていないか確かめる以外は、自身の負傷の手当てをし、戦功で新しい蛊を手に入れ、次の戦いに備えるだけで気楽きわまりない。
此の世界の治療能力は、地球よりもはるかに強力である。
地球では、手足がもげれば障害が残る。仮令指一本が切れても、適切な保存処置を施した上で、限られた時間内に再接着しなければならない。其の再接着手術も成功する保証は無く、失敗率が付き物だ。
然し此処では、仮令四肢全て(すべて)が失われようとも、蛊虫の治療効果により新しく生え揃うのである。
基本的に、蛊師が特に治療難な傷を負っていない限り、全て回復が可能である。
其の為、僅か八日間しか経っていないにも関わらず、黒家軍の負傷者の数は八割も減少し、其の内大半が既に戦闘能力を回復している。
輜重営に近付く程、人の流れは一層多くなる。
此の数日間、大勢の蛊師たちが戦功で物資を交換する為に此処を訪れている。
輜重営は全軍中最も賑わう場所となった。十五の大帳が設けられ、各帳少なくとも二十畝の広さがあり、千人以上の蛊師が専属で対応している。然し其れでさえも、門前市を成す有様で、帳内は身動き取れない程の混雑と喧騒が溢れている。
「部下狼王様に拝謁致します。狼王様、此方へどうぞ。」
方源が輜重営に足を踏み入れると、直ちに担当の女性蛊師が笑顔で迎え、彼を一つの蛊屋へと導いた。
組織が存在する限り、上下関係や階級が生じ、待遇の差が現れるのは必然である。
方源は全軍中でも上層部に位置する為、その待遇は当然一般兵士とは異なる。
「狼王様の武勇は比類無きものと存じます。此度の大戦では、戦功榜第一位でいらっしゃいます!」
若く美しい女性蛊師は崇拝の眼差しで、一巻の卷物を方源に手渡した。
方源が徐々(じょじょ)に卷物の両端を引き広げると、冒頭に「常山陰」の三文字が現れた。名前の後ろには戦功が北原文字で記されており、十万余りに及ぶ数字が連なっていた。方源は大略一目瞥見しただけで、細かに検べることはしなかった。
此の世界では、戦功の算定は極めて容易である。
何故なら、数多の蛊虫が監視や記録の役割を果たすからだ。大戦がある度に、各勢力は大量の蛊虫を動員し、戦闘の全過程を記録する。戦功の算定に便益なのはもとより、経験を吸収し、情報を収集し、敵情を探り、自軍の不足点を把握するためでもある。
此れ以外にも、多くの蛊師が独自に記録用の蛊虫を用意し、自身の戦闘を個別に記録している。
此等多岐に渡る角度からの映像が存在する以上、戦功を繰り返し算定し、詳細に確認することも可能である。
方源が卷物を広げると、彼の名前の直下には黒楼蘭の名があった。其の戦功は八万有余に及んでいた。
黒楼蘭は東方余亮と激戦を繰り広げ、敵の最強戦力を釘付けにした。同時に、三心合魂状態の魏鑫・鄂玄銘・姜婉姗の三人を討ち果たし、混成獣群を撃破するという莫大な戦功を挙げた。
黒楼蘭に次ぐのは、水魔浩激流、汪家族長、潘平らであり、戦功はいずれも数万に及んでいる。
順位が下がる程に戦功は減少し、十位を過ぎると九千余り、二十位以降では七千から八千程となる。
卷物には総計百六名が記載され、大半の者の戦功は三千前後で記録されていた。
明らかに、此れは戦功榜の最上段を抜粋したものである。完全版の戦功榜は、あの十五の大帳の中に城壁の如く聳え立ち、大量の游字蛊を駆使している。其の為、大榜の表面では文字が煌々(こうこう)と輝き、戦功の数字が刻一刻と変動している。
大戦の開始以来、戦功の統計作業は絶え間なく続けられている。
蛊師によっては、蛊虫と交換した為に戦功が減る者もいれば、逆に戦功が瞬時に上昇する者もいる。中でも治療蛊師は、戦後に往々(おうおう)にして莫大な戦功を手にすることが多い。
方源が卷物を傍へ置くと、女性蛊師は色を窺い、直ぐに一匹の蛊虫を差し出した。
此の蛊虫は、瓢虫の如き形を成し、背甲は方正で縁が隆起し、中央が凹んで窓枠の如きを呈している。
此れは四転の東窗蛊であり、信道に属し、専ら情報保存の用を為す。
昔方源が琅琊福地に在った頃、八十八角真陽楼の情報を探っており、琅琊地霊が一匹の東窗蛊を彼に与えたのである。
方源は東窗蛊を受け取り、手の平に収めて真元を注ぎ込んだ。
東窗蛊が微かな光を放つや否や、膨大な情報が瞬く間に彼の脳裏に流れ込んだ。多種多様な物資、各道の蛊虫、獣類、草木、元石、異人、蛊方などが含まれている。
此等の物資は、各部族の連合提供によるもので、黒家は盟主部族として、規定に従い最大の出資を行い、実に全額の過半を占めている。
間もなく、方源は其の中に、自れが購入すべき品々(しなじな)を数多発見した。
方源は小狐仙を通じて宝黄天と通じることは可能だが、宝黄天での取引はすべて大口取引であり、仙元石での決済が必要となる。現在の彼の状況には適わない。
同時に、硯石老人を代表とする神秘勢力が、方源の定仙游蛊を虎視眈々(こしたんたん)と狙っている。方源が五转蛊を購入して戦力を強化するなら、必ず北原の蛊虫でなければならない。此うなれば、智道蛊仙に重大な証拠を残すことに必ずなる。
故に、輜重営の方が、寧ろ現在の方源により適しているのである。
「我が力道蛊虫の中では、全力以赴蛊は四転に昇格し、北原への適応を果たした。然し未だ三転の力気蛊・兜率花・元老蛊・自力更生蛊、及び四転の苦力蛊・費力蛊・横衝直撞蛊が残る。此等の蛊虫は悉く南疆由来の為、北原にて異域抑制を受けている。」
「異域抑制を解除するには、北原にて煉蛊し、此等の蛊を更高の転数へ昇華させる他ない。然し此うするには、膨大な投資を要する。」
煉蛊の成否には確率が伴う。
仮令方源が煉道大師に迫る技量を有していようとも、此の確率を免れることはできない。
彼が四転全力以赴蛊を煉製した際には数回の失敗を経験し、嘔心嬰泣蛊に至っては十数回煉製を試みたが、未だ成功を見ていない。
蛊虫の転数が高くなる程、煉蛊の失敗率は急激に上昇する。殊に五转蛊の煉製は極めて困難で、成功率は往々(おうおう)にして千分の一を下回る。