戦いは続く。
東方余亮の全力出撃により、三つの精鋭部隊が壊滅した後、東方部族連合軍は明らかな優位に立った。
「討て! 蹴散らせ!」
「黒家の犬どもを一匹残らず屠り尽くせ!」
「男は皆殺し、女は戦利品として我が陣営に奪い込め!」
東方連合軍の士気は高まり、攻勢は激烈を極め、黒家連合軍は息もつけぬほど押しまくられた。
然し、此の状況を招いた張本人である東方余亮の心中には、不安が渦巻いていた。
「此刻は勢い盛んなりと雖も、我が方が早期に切り札を繰り出した結果に過ぎぬ。殺招・七星灯の持続は長からず、此の機を逃せば黒楼蘭や常山陰を引きずり出せぬ恐れが…」
此れを思い至り、東方余亮の双眸には鮮烈な寒光が迸った。
透き通る如き其の瞳は黒家本陣へ向けられ、其処に鎮座する黒旗精兵に注がれた。此の精鋭部隊は他を圧倒する戦力を有し、戦局が此の段階に至るまで、此の貴重な戦力は常に温存され、全軍の陣脚を押さえていたのである。
続けて東方余亮は視線を転じ、戦場の或る一角を凝視した。
其処には葛家一族の蛊師たちが集結し、葛光らは血戦を繰り広げていた。
東方余亮は無表情のまま、星念の雲を二分割した。一方は黒旗精兵へ向けて侵攻し、他方は天空から葛家部族目掛して襲いかかった。
星雲の来襲を目にした黒旗軍の三人の統領は顔色を一変させた。
「防備を固めよ!全軍、一斉に戦念蛊を催動せよ!」
大統領の一声のもと、黒旗軍全ての頭目たちが必死に戦念蛊を発動した。
戦念蛊は、星念蛊や空念蛊と同様、智道蛊虫の一つである。黒旗精兵の大小の首領たちは、三转から四转の戦念蛊を装備されていた。
此等の戦念蛊は本来、黒旗精兵の身上に作用する。交戦時には戦念が其の脳裏に奔流し、滔天の戦意と不敵の勇気を齎す。
星念の雲が襲来する中、黒旗軍の上空には赤紅の念が渦巻き上がった。
此の戦念は、疎らではあるが、黒旗精兵を取り巻くようにして護り、辛うじて星念の雲の衝撃を防ぎ切った。
「流石は超弩級の家族、黒家の育成する精兵の素質は、他の部族の精兵とは格段の差がある。同輩を遥かに凌駕している。」
此の光景を目にした方源も、心中暗に賞賛した。
此等の黒旗精兵は、黒家が平素より絶え間なき蓄積を重ね、厳選に厳選を重ねた精鋭蛊師より成り、更に膨大な訓練と莫大な投資を以て鍛え上げられた切り札の戦力である。
彼等は一り一りが鋼鉄の如き意志を有し、元来念の衝撃に対する耐性を備えている。今や戦念に包囲されながらも、星念の雲が戦場を肆虐する中、初めて其の進撃を阻まれた。
無論、此の中には決定的な要因として、東方余亮が全力を出さず、星雲を二分して半ばのみを以て黒旗軍を衝撃した事実が存在する。
黒旗軍の驚異的な活躍は人々(ひとびと)の目を見張らせ、他の潰走した精兵と鮮明な対照を成して見せつけた。
一方、葛家の陣営では悲鳴が相次ぎ、浩蕩たる星念の打撃の下、潰滅の危機に瀕していた。
方源は冷眼を以って此の光景を傍観し、狼顧蛊を絶妙の極みに駆使して、葛家の惨状を鮮明に捉えていた。
葛家は所詮、彼が身分を偽装する為の駒に過ぎない。棋手たる者が、一つの駒の為に危険に身を曝す筈がなかろう。
「未だ出撃せぬか……」
東方余亮は辛抱強く片時を待ち、絶え間なく偵察蛊を催動し続けていた。仮令方源が微かでも救援の動きを見せれば、魂魄の波動を介して正確に其の位置を捕捉できる算段であった。
然し彼が待てど暮らせど、方源の出撃は遂に無かった。
狼王の冷徹冷酷ぶりは、東方余亮にも一筋の戦慄を走らせた。
一方、黒楼蘭は自軍の黒旗軍が支えきれなくなりつつある状況を看過できず、電光の如く駆けつけた。
「東方余亮、覚悟しろ!」
彼の咆哮は底力に満ち、反噬による内傷は既に癒えたようだった。
東方余亮は冷笑と共に鼻を鳴らし、頭脳から滾々(こんこん)と湧き出でる新しい星念の奔流を黒楼蘭にぶつけた。二人は空中で激突、互いに絡み合い、暫しの間は優劣が付かなかった。
黒楼蘭の撹乱により、黒旗軍と葛家を苦しめていた星念は後方支援を絶たれ、一時的に荒れ狂った後、虚空に消え失せた。
戦場は一時的な混乱を経て、再び膠着状態に戻った。
十数の四转戦圏の内、小半は既に勝敗が決している。四转强者たちは死傷し、其中で風魔と水魔は未だ互いに絡み合っている。影劍客の辺絲軒と飛電の東破空の二人は、戦場を縦横に駆け抜けている。
此の二人は強力な移動蛊を有しており、仮令四转蛊師に攔截されようとも、容易に身を翻して脱出する。
彼等は絶え間なく方源の蹤影を探し求めているが、惜しむらくは方源が常に潜み続け、手を出さない為、其の探索は到頭成果を上げ得ていない。
一方、逆雨福地では、二人の蛊仙——男と女が相対而坐し、茶を嗜みながら石桌の中央に立つ煙影を眺めていた。
煙影は滾々(こんこん)と翻り、黒家と東方家の大戦を鮮明に映し出しており、微細に至るまで明瞭に窺うことができた。
女蛊仙の譚碧雅は視線を転じ、男蛊仙の東方長凡に向かって笑みを浮かべて言った。「此の大戦の行方は、依然として東方余亮と黒楼蘭の一騎打ちに懸っているようですね。一方が勝利すれば、其の軍が優位に立つ。東方余亮の若者はなかなかのもの、明らかに軍勢は黒家に劣っているのに、此の様な膠着状態を打ち出すとは、長凡兄の薫陶が実を結んでいるのでしょう。」
東方長凡は高冠に古風の面差し、双眸には常に数百種の琉璃の光が瞬いている。東方家唯一の智道蛊仙として、彼は淡く首を振り、冷たい口調で語った。
「実を言えば、私が東方余亮に指導したのは、二三つの言葉だけだ。しかし此の若者は確かに優れており、独自の考えを持っている。帰還後、大々的に宣伝し、私の威光を借りて見事に地位を築き上げた。幾ばくかの素質があり、努めを惜しまぬ。既に彼に約束した。王庭に入ることを成し遂げれば、其妹の病を治療し、後継者の一人として育てることを。」
「王庭入りですって?」
譚碧雅は少し驚き、軽く笑いながら言った。「拙ですが一言申し上げますと、此度の王庭争いにおいて、東方部族の勝算は大きくはないかと。今年の優勝候補の中では、耶律家の耶律桑が圧倒的に支持されています。今回、耶律家の太上家老・耶律莱が密かに仙蛊を耶律桑に寄託したことは、業界内では周知の事実でございますよ。」
「耶律家と雖黄金の血脈を引き、北原有数の超級家系の一つであるが、既に八連続で王庭入りを果たせていない。其が故に、耶律莱は先日黒家の黒城から公衆の面前で嘲笑を浴びせられた。今回仙蛊を動かしたのも、其の面目を挽回せんが為であろう。」
東方長凡は斯く語り終えると、軽く笑いを漏らした。其の笑声には一片の蔑視が滲んでいるようであった。
譚碧雅は一口茶を啜ると、述べた。「ふむ、黒城と言えば、黒楼蘭は彼の第二十七房が産んだ実子ですわ。情け理的に(てき)見て、彼が影で大きく支援するのは必定。故に黒楼蘭も主要な優勝候補の一つです。歴代の王庭争いとやら、所詮は幾つかの黄金家系による競争遊戯に過ぎませぬ。誰が王庭主と成るかは、背後の勢力の支持が極めて重要です。申せば、黒楼蘭の勝算は、東方余亮より遥かに大きいと存じます。」
東方長凡は、ゆったりと首を振った。
其の様子を見て、譚碧雅の瞳に一筋の興味津々(きょうみしんしん)の輝きが走った。「何ですと? まさか長凡兄、密かに東方余亮に仙蛊を護身として与えたのでしょうか? 或いは何か仕組みを設けて、東方余亮の王庭入りを保証しているのですか?」
智道蛊師の謀略の才については、蛊仙たちは身に染みて体感しているか、或いは早くから噂に聞いていた。智道蛊師の数は極めて稀少であり、東方長凡は北原で名高き智道蛊師である。仮し彼が密かに手を回しているならば、王庭之争の不文律を公然と破らない限り、東方余亮には大いに活路が開けることであろう。
しかし東方長凡は譚碧雅の推測を否定した。「否、否。此度の王庭争奪戦は、馬家の勢いが強く、既に片足を王庭主位に掛けていると言えよう。我が東方長凡が、無駄骨を折る真似をしよう筈がなかろう?」
彼東方長凡は、老いの極みに達し、余命幾何もない。
自らの死期が近いことを悟った彼は、一族の為、そして自らの継承が絶えぬ為に、急務は後継者の選定と育成であると考えた。王庭主の座は、二の次でしかない。
全て(すべ)ての蛊師が、智道蛊虫一揃い揃えば智道蛊師に成れる訳ではない。東方余亮の天賦の才は、東方長凡を大変に満足させると共に、密かに警戒せざるを得なかった。そして彼を更に満足させたのは、東方余亮に病弱で修行不可能な実妹が居たことであった。
此れが東方余亮の致命的な弱点であり、此処を押さえておけば、彼の忠誠心を疑う必要はない。
王庭争いは、彼が東方余亮に仕掛けた罠に過ぎない。
東方余亮が失敗した後、妹の為に必ず救いを求めて訪れて来るだろう。此れは自ら弱みを差し出す様なものだ。
仮え東方余亮が幸運にも成功したとしても、それは予想外の喜びでしかない。確かに妹の治療を約束はしたが、結局完治させる訳ではあるまい。
譚碧雅は大きく驚いた。「何ですって?長凡兄、まさか馬家を買っておいでですの?馬家は確かに大規模な家系で、表立てた軍勢も確かに見事ですが、馬家には太上家老となる蛊仙が一人も居りませんわ。」
東方長凡は、此の問いを待ち構っていたように、悠然と答えた。「碧雅小妹、君の知らぬところではあるが、大雪山福地は密かに馬家と連絡を取り、暗がりから彼等を支援している。」
「大雪山福地と言えば、例の魔道蛊仙どもの?」
譚碧雅の表情は一瞬で険しくなった。此の報せは彼女に少なからぬ衝撃を与えた。
彼女は東方長凡を凝視して問い詰めた。「長凡兄貴、一体どうやって此の情報を?」
東方長凡は傲然と笑った。「全て(すべて)は我が自ら推演した結果だ。汝は未だ最初の知情者である。」
譚碧雅は直ちに七分八分の信憑性を認めた。東方長凡は智道蛊仙であり、自ら推演した結果は、殆ど事実と等しい。彼の置かれた状況も、譚碧雅には筒抜けであり、自分を欺く動機は無い。
更に、大雪山福地の魔道蛊仙どもは、昔から八十八角真陽楼に垂涎の念を抱いており、此度密かに馬家を支援し、巨陽仙尊の継承に手を出そうとする様な行為は、過去にも幾度となく発生していた。
此れを思い至り、彼女は最早座っていられなくなった。
彼女は劉家の外姓の太上家老として、密かに劉文武を支援している。劉文武が一旦王庭の座を獲れば、彼女の劉家内での地位は大いに向上するのである。
馬家の存在は、彼女の布石を深刻に乱していた。此れを看過する訳にはいかない。彼女は立ち上がると言った。「長凡兄、此の件は重大で御座います。魔道蛊仙どもは皆豺狼の徒で御座いますが、他の同輩は未だ真相を知らされて御座いません。小妹、早速皆様にお知らせに参ります。お許し下さい。」
「行って参れ。」
東方長凡は緩やかに頷き、同時に福地の門扉を開いた。
譚碧雅が福地を離れた後、東方長凡の古井戸波の如き面に、初めて一筋の笑みが滲んだ。
此度の対話は、所詮彼が譚碧雅に仕掛けた罠に過ぎなかったのである。
譚碧雅も亦、聡明な蛊仙であったが、奈何せん局中に在りて、所望する所有り、自然と輕易に算せられた。
東方長凡は再び視線を煙影に移した。此の時、戦場には既に変化が現れていた。
東方余亮は久戦の下、次第に支えきれなくなり、止む無く撤退を選んだ。総帥一たび退けば、大軍の士気は瞬時に低落し、東方余亮の命令の下、同様に撤退を開始した。
其の撤退は慌てず乱れず、明らかに数多の訓練を積んだ様子であった。東方余亮は早くから此の点を予見し、故に以前より撤退戦に対し、大きな心血を注いでいたのである。
東方軍は徐徐として退きつつ、時折の反撃を挟み、黒家の蛊師たちは却って油断した隙に、其の反撃によって命を落とす者が少なくなかった。
「風魔め、此の腰抜け野郎、逃げ出そうと企んでいるのか?」水魔の浩激流は、全身傷だらけで血みどろになりながら怒号した。
風魔は冷ややかに哼と鼻を鳴らしただけで、返事もせず沈黙裡に後退を続け、東方余亮の軍令を忠実に執行した。
先に大軍が築いた防衛線は、背後数百里の地点に存在する。其処へ退き、暫しの休息を得さえすれば、東方連合軍の戦力は速やかに回復するであろう。
其の時こそ、黒家大軍が頭痛の種を抱える番である。初戦の不利など、所詮些細な事に過ぎない。
然るに此の時、狼群が忽然として齊しく吠え立ち、匯まって再び浪潮を成し、東方軍に向けて死を賭した突撃を開始した。
狼群は蛊師とは異なり、蛊師が命を惜しむのに対し、狼群は死を畏れぬ。
「業が深い!」東方余亮は瞋恚の余り瞳を裂かんばかりであった。狼群の猛攻の下、東方連合軍は無数の死傷者を出し、恐慌の情が瞬く間に全軍に蔓延し、遂には潰走の勢いを形成した。
方源は八分の力を出し、大師級の奴道の造詣は、見る者をして目眩がするほどであった。次々(つぎつぎ)と繰り出される波状攻撃の前に、東方軍は泥の如く、狼の潮流に洗われて、次々(つぎつぎ)と崩れ落ちていった。
強烈な魂魄の波動が、方源の位置を明らかに晒し出した。
しかし方源は既に公然と姿を現しており、再び安定した双頭犀の背中に立ち、周囲には集結した蛊師強者たちが居並んでいた。
「狼王・常山陰め……!」
東方余亮は歯軋りしながら、両眼から火を噴き出さんばかりの怒りを露わにした。
此度の戦いで、彼は方源の陰険狠辣さを骨身に染みて味わうこととなった。
振り返れば、方源が直接手を下ろしたのは二度だけである。
最初の出手では、大軍を動かして戦端を開き、東方余亮の数多の布石を無駄に帰させた。
而して此の二度目の出手は、東方軍が最も脆弱な瞬間を衝いたものだった。虚に乗じて窮鼠を噛むが如く。云う迄でもなく、蛊師たちは斯くも長く戦い続け、空竅の真元は最早底を突いており、未だ一戦の力は残すものの、往々(おうおう)にして野狼と相討ちに終わる有様であった。
方源の狼群も亦、甚大な損害を被った。然し既に大いに採算が取れている。彼の野狼は容易に補充可能であり、北原に於いて野狼は掃いて捨てる程存在する!然るに対する側が失ったのは、貴重な蛊師の生命なのである。