東方余亮は流石に智道蛊師の名に恥じず、黒楼蘭の反応を見事に推算していた。
三心合魂の殺招は単なる囮に過ぎず、黒楼蘭を主動攻撃へと誘い出す為のものだった。その後、東方余亮は悠然と切り札を開示した——暗渦専用の対抗殺招である雲渦で、黒楼蘭を完全に拘束したのである。
元来王帳に居た黒楼蘭が拘束されたことで、方源の側近警護の戦力は急激に低下した。
此の好機を逃さず、影劍客の辺絲軒は猛然と襲い掛かり、王帳に突入して再び方源の暗殺を試みた。
只だ方源一人が倒れれば、狼群は即座に崩壊し、勝利の天秤は東方同盟軍に大いに傾くこと必定である。
斬首戦術の確実な成功を期して、黒楼蘭は影劍客のみならず、更に強力な蛊師をも配置していた。
其れこそが東破空、「飛電」の異名で知られる北原随一の飛行大師である。雷道蛊師として四转高階の修為を有し、先の混戦中でも手を出さず、耐え忍び続けてきた。今こそ図窮匕首現わるが如く、一鳴驚人の時である。
「狼王を護れ!」
「賊子、其方等の思惑は通さぬ!」
「狼王、急ぎ退け!」
王帳周囲の六人の三转蛊師が躍起となり、躍り上がって東破空と辺絲軒の二人を迎撃せんと試みた。
「退がれ!!」
東破空は冷ややかに一喝するや、周囲の雷光が迸り出した。
眼前を阻む三人の蛊師は雷撃に打たれ、防禦蛊は瞬時に破壊され、瞬く間に二人が死亡、一人が重傷を負った。
「ふふふ……」
一方辺絲軒は軽く嘲笑うと、影と化けて毒蛇の如く阻む蛊師たちの間を縦横無尽に駆け抜け、わずか数秒で彼等の背後に回り込んだ。
「何!?」
「此の速さは……」
「まさしく影劍客の真骨頂か!?」
三人の蛊師は肝を冷やす思いで振り返るも、辺絲軒の窈窕とした後姿が視界に残るのみであった。
追い駆けようとしたが、身動きが取れないことに気づいた。手足には幾重にも黒影が絡み付き、縦横に縛り上げられているのだった。
上空から東破空、地上から影劍客という挟撃を受けて、方源も顔色を変え、目には慌てた感情が浮かんだ。彼は慌てて後退しながら、「早く、早く誰か来て我れを護れ!」と叫んだ。
「狼王、ご安心あれ。黒绣衣、待機しておる。」
方源の傍に立つ最後の一人であった黒衣の男は、鉄の如き表情で数歩前に歩み出し、方源の面前に立ち塞がった。
「死を求めるか!」
東破空は大喝一声、全身の雷光が爆発的に膨張し、戦槍と化わって黒绣衣目掛けて烈しく突き刺した。
辺絲軒は冷ややかに鼻で笑うと、手首を軽く翻し、瞬時に飛輪の如き剣影を奔流の如く放った。
二大強者の合撃を迎え、黒绣衣の表情は微動だにせず、両掌を胸前で強く合掌。真元を狂おしく駆動した。
轟!
次の瞬間、彼の防御は全開となった。
五十六枚の飛骨盾が同時に飛翔し、隙間無く並んで其の面前に立ち塞がった。
一筋の翠綠の光輪が頭頂へと舞い上がり、方円百歩を灼熱の如く照らし出した。
黒光は鋼鉄の如き光沢を放ち、厚実無比の甲冑と化わって彼の全身を包み込んだ。
九枚の色とりどりの鬼面が嗚咽哭号の声を発ち、其の左右を旋回する。
同時に、暗褐色の油風が飛骨盾の間を鼓動し始めた。
東破空の雷電長槍は七枚の飛骨盾を射抜いた後、暗褐油風を貫通するも、黒光甲冑に阻まれた。
辺絲軒の剣影は盾に激突、十八枚の盾を粉砕したが、油風に妨げられ、剣影は泥油に嵌まった如く、動勢は驟に消え、脅威とは成り得なかった。
黒绣衣は黒楼蘭の右腕として、且つ黒旗精兵の三人の統領の一人であり、守備を最得意とする。
東破空と辺絲軒は守備に専念する黒绣衣を面前に、暫し膠着状態に陥り、突破することができなかった。
黒绣衣は先の墨獅狂との対戦で惨敗を喫したが、其れは実力不足ではなく、相手が史上此の王庭之争において北原随一の猛将であった為である。
今、飛電と影劍客という二大強者の合撃に対し、彼は左右に防御し、十数回合を経ても背後の方源を寸分の隙も無く守り切った。
彼の蛊虫の組み合わせは、水際立った防御陣形を形成し、実に周到に考慮されたものだった。
東破空と辺絲軒は幾度か突破を試みたが、悉く徒らに終わり、歯痒い思いを味わされた。
激戦の余波が双頭犀の背中を刺すように痛み、巨犀は痛さの余り狂ったように駆け出し、敵味方構わず戦場を暴れ回り、方々(ほうぼう)を蹂躙した。
黒绣衣の表情は一層険しくなった。
激烈な戦闘による真元の消耗は極限に達し、最早底を突いていた。一方、相手は二人がかりであるため、真元の消費は黒绣衣の半分で済んでいる。
黒绣衣は今、艱難な選択を迫られていた──防御を堅持して真元尽き果てるまで耐えるか、或いは撤退して狼王を危険に晒すか、二者択一の岐路に立たされていたのである。
第一の選択は、真元の消耗を顧みず防衛線を堅持し、黒楼蘭の援軍や其の他の支援が到着するのを待つことである。然し双頭犀が暴走して原位置から遠く離れている現在、援軍が戦場を突破して時機を得て駆け付ける可能性が果してどれ程あろうか?
第二の選択は、真元の節約を図ることである。但し此れでは防御が手薄となり、敵に突破される危険性が急騰する。一旦防衛線を破られれば、背後の方源は危殆に陥るであろう。
果い如何に抉択すべきか?
黒绣衣の瞳に一瞬迷いの光が走ったが、間もなく決意は固まった。
彼の防御は次第に縮小し始め、敵の強襲に対しても以前ほどの積極性を見せなくなった。
東破空と辺絲軒は直ぐに黒绣衣の変化を敏感に察知し、数回の突破を試み、危機一髪で成功寸前まで迫った。
仮令狼王の存在が戦局全体に関わり、黒楼蘭様から常山陰の護衛を任されていたとしても、生死の境に立たされた今、黒绣衣には己の命を賭けてまで奮戦する覚悟などなかった。
「仮し背後に黒楼蘭様がおられれば、私は喜んで身を挺して護ったでしょう。然し常山陰は外者、平素は傲岸不遜で私を見下しております。何故此様な者の為に犠牲にならねばならないのでしょう?狼王が仮え死んでも、我々(われわれ)には未だ黒旗軍が残っており、依然として五分五分の情勢。然らば、此の有用な身を活かし、家族の為に尽くす方が理に適っています。」
黒绣衣の心の中では自己正当化の念が渦巻き、次第に「然るべし」との安心感が広がっていった。元来背後の方源を護るべき立場であったが、今や自己保身に専念するに従い、真元の消耗速度は急激に減速した。
「此れぞ好機、疊影蛊!」
突然、辺絲軒の眼に防御の綻びが映った。彼女の双眸は鋭く輝き、此の絶好の機会を逃さず、東方余亮から借り受けた蛊を猛然と催動した。
此の疊影蛊は四转珍稀蛊に属し、市場では滅多に入手できず、其の価格は大多数の五转蛊に引けを取らないほど高額である。
元々(もともと)辺絲軒は東方余亮と、方源暗殺成功次第此の蛊を褒賞として授かる約束を交わしていたのである。
しかし辺絲軒は暗殺に失敗し、種え付けた爆脳蛊も方源に解決された。其の傲岸な性格から、自然と此の疊影蛊を受け入れることを肯じなかった。然し此度の大戦前、東方余亮は慎重を期し、自ら進んで此の蛊を貸し与えた。
疊影蛊は、他者にとっては只だの四转蛊に過ぎないかもしれない。但し辺絲軒にとっては、戦力を爆発的に増大させ、五转蛊よりも価値が大きいと言える。
疊影蛊の作用により、辺絲軒の多重の剣影が次々(つぎつぎ)と疊み合い、瞬く間に空一面の剣影は一振りだけとなった。此の一振りの剣影は、黒幽深邃として、実質の如く、全て(すべて)の攻勢を疊み合わせている。
辺絲軒が劍を振り下ろして直刺すると、その効果は驚異的で、あたかも刀で豆腐を切るが如く、難無く防御線を貫通し、狼王へと殺到した。
永らく攻め落とせなかった防衛線が遂に突破された!
此の光景を目にした東破空は安堵の息をつくと、慌てて黒绣衣を拘束し、辺絲軒に好機を作り出した。
然し黒绣衣は最早為す術なしと見るや、既に退却の意思を固めていた。今や影劍客が常山陰目掛けて突進する中、此れこそ退く絶好の機会と、彼は急いで其の機を捉えんと、双頭犀の厚い背中から真っ逆様に飛び降りた。
東破空は呆気に取られたように黒绣衣の逃亡を目にしたが、一瞬躊躇した後、狼王の殺害を急ぐべきと判断し、仕方なく其の場は見逃すこととした。
然し振り返って一瞥するや、辺絲軒の影劍が既に常山陰の心臓を貫いているのを認めた。
辺絲軒の一刺しは極めて深く、影劍は剣柄のみを残して方源の胸に食い込み、刃先は背中から大きく突き出していた。
「狼王、覚えておけ。貴様を葬ったのは此方ぞ、影劍客・辺絲軒である!」
辺絲軒の双瞳は赤く染まり、顔中に欣喜の色が溢れていた。
北原にその名を轟かせた赫赫たる狼王が、彼女の手に掛って斃れた。此の誉れ高き戦績は、彼女の全身を微かに戦慄させる程の歓喜をもたらした。
「成功だ!」
此の光景を目にした東破空も、眉を上げて喜びを露わにした。
「狼王が倒れれば、我が軍は大いに優位に立ち、勝利は目前だ。」
遠方では、偵察蛊で戦況を注視していた東方余亮も、力強く拳を握りしめ奮起した。
彼は顔を上げ、頭の上で雲渦と拮抗する黒楼蘭を見上げながら、余裕のある笑みを浮かべて言った。「黒楼蘭、常山陰は既に誅殺された。今ここで手を收め、敗北を認めるなら、我れは大将の地位を授けよう。王庭入りの機会も与えて遣わす。」
然し彼の予想に反し、黒楼蘭は逆上して怒号を放つどころか、寧ろ一筋の獰猛な笑みを浮かべた。「東方余亮、其方の狗眼を見開いて良く見てみよ!」
其の瞬間、双頭犀の背中からも辺絲軒と東破空の驚愕の叫び声が上がった。
「...っ!?」
東方余亮は胸に強い不穏な予感が駆け巡るのを感じ、慌てて偵察蛊を駆り直して凝視した。
そこには、「常山陰」の姿が一灘の流水と化わり、数匹の蛊が飛び散る中、水跡に残された水像蛊が、影劍によって真っ二つに貫かれ、首尾は一層の皮で辛うじて繋がっているだけだった。
此の水像蛊は、正に水魔・浩激流の所有物である。
昔、英雄大会において彼は此の水像蛊を使い、偽物を本物に見せかけ、すべての人間を欺いて火浪子・柴明を殺害していたのであった。
大戦前、方源は其の手口に目をつけ、黒楼蘭と密議を交わした。情報漏洩を防ぐ為、此の配置は当事者三名のみが知るところであった。
方源の本体は一度も王帳にはおらず、戦場の何処かに潜伏していた。彼は狼顧蛊で戦況を観察し、獣群の指揮を執っていた。先程の黒楼蘭との対話も、一連の蛊虫を使った偽装であっった。
「畜生、偽物だったのか。」
「本物の常山陰は何処にいる!?」
辺絲軒と東破空の顔色は看る影も無く曇った。彼等が奮戦した結果は、手玉に取られるという結末であった!