赤、緑、黒の三色が空中で狂おしく絡み合っていた。
絶え間なく揺らめく光が方源の瞳に映る。彼は滿臉に集中の色を浮かべ、眼前の半完成品を凝視しながら、必死に局面を制御しようとしていた。
嗤――!
突然、耳をつんざくような鋭い共鳴音が炸裂した。
音波が空気を激しく震わせ、猛烈な突風となって部屋の中の机や椅子、本棚を吹き飛ばした。花瓶は床に落ちてガラガラと粉々(こなごな)に割れ、墨は散り、紙は舞い散った。
三色の光は完全に消え失せ、元の半完成品は青い血痕の染みへと爆発し、周囲の壁一面に飛び散った。
「また失敗したか……」
方源は軽く嘆息した。
此の数日間、彼は常に蛊を煉り続けていた。其の蛊の名は嘔心嬰泣蛊と申し、特に三心合魂に対処する為のものである。
三心合魂は東方家一族の有名な殺招であり、三人の蛊師の魂魄を一時的に合一させ、三人が一心同体の如く、進退攻防すべてに渡り完璧な連携を発揮させる事が出来る。
方源は此の数日実戦を経験する中で、元々(もともと)曖昧だった記憶が次第に鮮明になってきた。
彼は朦朧とし乍らも覚えている――黒楼蘭は東方余亮との此の戦いで、散散な目に遭い、辛うじて勝利したものの、三心合魂の為に軍は大打撃を受けたということを。
後年、馬鴻運が台頭し、東方部族と対峙した際、三心合魂は幾度も彼に深刻な苦境をもたらした。
甚だしきに至っては、彼は策にはめられ、此の殺招の前に惨敗を喫し、東方家に生捕りにされたことさえある。
虜囚の身と化した馬鴻運は、偶然東方晴雨と出会い、彼女の芳心を射止めた。東方晴雨は密かに彼を逃がしたのみならず、此の殺招の秘密の一切を明かし尽くしたのである。
無事帰還した馬鴻運は、煉道大師となっていた妻の聖霊児と協働し、三心合魂専用の対抗蛊となる嘔心嬰泣蛊の煉成に成功したのであった。
嘔心嬰泣蛊は戦場で驚異的な効果を発揮し、馬鴻運軍は大勝を収めた。一方、東方一族は退却を重ねるばかりであった。
敗北を繰り返す中で、三心合魂の殺招は次第に歴史の表舞台から消え失せていった。
五域乱戦の時代に至ると、天下は戦火に包まれた。三心合魂は中洲の蛊師に盗まれて改良が施され、再び脚光を浴びるようになる。馬鴻運は直ちに嘔心嬰泣蛊の秘伝の処方を公開した。世の人々(ひとびと)は此れを基に更なる工夫を加え、改良版の三心合魂をも再び破ることに成功した。
此れを以て、三心合魂は真に其の効力を失い、もはや用いられることは無くなったのである。
方源は転生者として五百年分の前世の記憶を有しており、嘔心嬰泣蛊の秘方も自然と把握している。
しかし嘔心嬰泣蛊は四転蛊であり、煉製材料は珍しくないものの、煉成難度が極めて高い。煉道大師級に迫る方源の才能をもってしても、十余回試みたが、悉く失敗に終わっている。
ため息をつくと、方源は立ち上がり、窓枠の傍らに歩み寄った。
この窓枠も煉蛊失敗の際に発生した気流が激突して破壊されていた。ガラスのような薄膜は大きな穴に破裂し、外界からの風が青草の香りを伴なって破孔から流れ込み、部屋中に充満していた。
方源は掌を軽く窓辺に当て、一股の真元を送り込んだ。
間もなく、窓の薄膜は徐々(じょじょ)に生長し、再び凝結して、外からの風を一切遮断した。
壁は腸詰めの如く波打ち、先に生じた無数の窪みも恢復して平坦となった。床に散乱した花瓶の破片や、青い血痕も悉く呑み込まれた。
此れこそ大蜥屋蛊の便利な点である。
大蜥屋蛊は三転蛊に属し、二転蜥屋蛊から昇進したものである。
蜥屋蛊は既にバス程の大き(おおき)さで、外見は四本足の大蜥蜴の様である。其の体内には一つの通路が通り、数の部屋が両側に並んでいる。
大蜥屋蛊は二階建ての小屋の如く、体長は蜥屋蛊の五倍に及ぶ。
二層に分かれており、部屋数も更に多く、空間も一層広い。此れは方源が黒家に加入した後、黒楼蘭が自ら進んで贈ったものである。
普段の修行や起居はすべて此の中で行っている。
方源以外にも、六人の三転蛊師が周囲を護衛している。
彼ら(かれら)は交替で崗位に就き、特化した偵察蛊を装備して、殆ど全て(すべて)の潜行型蛊師に対応する体制を整えている。
仮し影剑客が再襲来を企んでも、未だ百步にも迫らぬ内に発見され、行踪を曝すことになるだろう。此れも方源が暗殺未遂事件の後に追加した配慮である。此刻、方源が窓から高み(たかみ)を見下ろせば、大量の蛊師と凡人が緊張して防衛線を張る姿が見て取れた。
彼らは溝を掘っている者、木を生長させて箭塔を立てている者、土壁を積み上げている者などがいる……厳密な防御戦線の輪郭が次第に形を成してきている。
此れは既に第三の防衛線である。
北原の地形は、多くが平坦な草原で、険しい障害物が無く、見渡す限りの平らかな土地である。故に、古より北原で二つの勢力が大戦を繰り広げると、一たび戦いに敗れると、逃げ場も無く、常に勝利者によって大規模に追撃されるのであった。
一つの大戦の失敗は、往々(おうおう)にして大局が定まり、一部族の急速な衰退、甚だしきは滅亡を意味した。
然かしながら、防衛線が存在すれば、状況は一変するのである。
仮令戦局が不利となろうとも、撤退して退却するにせよ、一時的に鋒先を避けて反攻の機会を窺うにせよ、此等の防衛線は多大な役割を果たすであろう。
戦争は生死に関わる大事であり、部族の興亡を左右する。極めて危険であると同時に予測困難である。些細な予期せぬ出来事、或いは己が方の僅かな過失が、敗北を招く可能性も大いにある。
此の様な時、部族が一旦退き、防衛線を拠り所として守勢を整え、息を整え、陣脚を穩やかにすれば、再び軍勢を立て直すことが出来る。
此処は蛊の世界である。個々人が不思議な力を有している。地球の長城に匹敵する長大な防衛線を築くことなど、実は困難なことではない。
人々(ひとびと)は速やかに此の種の防衛線の巨大な利点を実感するようになった。
従って、北原における大戦は一戦決着の騎馬突撃ではなく、寧ろ陣地戦や消耗戦の様相を呈するのである。
「報せに依れば、東方部族は既に第四の防衛線の布置に着手している。現在、我が方と敵方との距離は三千里である。慣例に従い、八百里から千里毎に停止し、新しい防衛線を布置するだろう」。方源は心中で回想した。
此の数日間、彼は常に閉門修行に徹しているが、外部の情報には常時把握を欠かさない。彼は黒家同盟軍の高幹であるから、日々(ひび)蛊師が自ら進んで情報を届けに来るのであった。
「時を推して測るに、明日には我が軍の先鋒隊が敵方の前衛と接触し、戦闘を開始するだろう。但し、我が輩の出番までは、未だ少し時日を要する。」
方源は現在、黒楼蘭と共に中軍に坐陣している。数日前、黒楼蘭は再たび使者を遣わし、所謂る「弱きを示す」の計を伝えてきた。要するに、敵の計略に乗じて、東方余亮の布置を早めに誘い出し、方源に後発制人を図らせようというのである。
方源は此れに対し、内心で冷笑した。
彼には夜狼皇がいる。夜狼群は極めて補充が容易な消耗品である。然るに黒楼蘭は此の様な捨て駒を利用せず、敢えて方源を出撃させようとする。確かに東方余亮を狙う要素もあろうが、其れ以上に狼王常山陰を抑圧しようとする意図が込められているのだ。
方源は常山陰の高傲さを見事に演じ切っていた。黒楼蘭が彼を快く思わないのはそのためであり、新規に結成された同盟軍内では、各勢力が互いに牽制し合っている。特に現在、黒家側が明らかに優勢な状況であるため、蛊師たちはこぞって戦功を争い、他者を押さえつけ、より多きな利益を得ようと画策している。
水魔浩激流は先鋒大将の座を奪い取るため、王帳の前に三日間も立ち塞がり、陣門を閉ざして出撃を懇願し続けた。さらに十数名の競争相手を打ち負かして、ようやく願いを果たしたのである。
狈君子こと孫湿寒は謀略を巡らせ、頭角を現わすため、進んで黒楼蘭派に与し、一時的に同盟軍随一の謀臣の地位を手にした。
此れ即ち内紛というものだ。
如何なる組織や体制も、内輪もめは付き物である。
常山陰は孤高な性格で、手に五十万頭の狼の大群を擁しているため、周囲から疎外されていた――『奴の実力が此の強さでは、出番が回って来れぁ戦功は全部持って行かれる。我々(われわれ)の出番が無なるではないか』
黒楼蘭が狈君子の献策を容れたのも、上位者としての立場を維持し、体制を守るための行動だった――『狼王めの勢力が強大すぎて、我が身すら安眠も出来ぬ。是がひでも牽制し、押さえ込まねばなるまい』
此れら数多の駆け引き、人々(ひとびと)の浅はかな思惑を、方源は鋭く看破していた。
彼の状況は異なる。王庭の争いは所詮単なる足掛かりに過ぎず、彼の企図はあまりにも大きく、外の者に語るべくもない。狐仙福地を擁する彼にとって、此れら戦利品への需要は大きく低下している。
「既然に彼等は我が輩の出撃を望まぬなら、修業の時間が欲しい我が輩にとって寧ろ好都合ではないか?」
方源に不足しているのは、此れら凡庸な資源ではなく、珍稀な資源と大量の時間なのである。
一日後、水魔浩激流は先鋒軍を率い、東方同盟軍の大将と激突した。
戦前の挑将において、浩激流は勇猛無比で、敵方の大将を一撃で斬り伏せ、更に三人の副将をも討ち取った。
敵軍は統領を失い、士気沮喪する中、浩激流は勢いに乗じて猛攻を加え、大勝を収めた。然し追撃中、影劍客・辺絲軒の不意打ちに遭い、重傷を負わされた。
浩激流は止む無く進撃を中止し、駐屯して傷を癒しつつ、本隊の到着を待つこととなった。
三日後、黒楼蘭は中軍を率いて前線陣地に進駐した。
五日後、左右両軍が相次ぎ合流。
両陣営の距離は数百里に満たず、旌旗林立し、陣営重畳たり。大戦一触即発、雰囲気緊迫たり。
深夜、月明かり星疎ら。
部屋の中、方源は蒲团の上に結跏趺坐し、両眼を堅閉じて、絶え間なく空念蛊を催動していた。
空念蛊は五転蛊であり、宝黄天より購入したもの。推杯換盞蛊を通じて、狐仙福地より方源の手に渡された。
空念蛊の作用により、方源の頭の中に半透明の念が次々(つぎつぎ)と生じ、気泡の如く緩やかに頭髄の中の爆脳蛊に接近する。
爆脳蛊は四转蛊に過ぎず、方源は入手した当日、春秋蝉の気息を以て強引にこれを降伏していた。
然れども、彼は敢えて爆脳蛊を自らの頭脳の中に留め置いた。
此の数日間、爆脳蛊は彼の脳髄液を吸収し続ける一方、空念に侵食され続け、遂に質的転換の時を迎えた!
瞬時、爆脳蛊は分解し広がり、一団の黒い光、一蓬の白い煙、そして拳大の空念一顆と化した。
「逆煉成功だ」
此の光景を見て、方源は濁った息を吐き出し、心中は限りない歓喜に満ちた。
彼は黒光と白煙を頭脳から取り出し、各々(おのおの)二匹の三転蛊へと変えた。
此等の蛊は凡庸な品に過ぎず、方源は傍らに放置して顧みなかった。
真の要は、依然として其の一顆の空念に在った。
方源は空念を自らの脳裏に取り込み、其中に記録された念情報を読み解いた。
間もなく、彼の身体は軽く震え、瞳孔が大きく広がり、顔には押さえ切れない驚喜の色が浮かんだ。
「盗天魔尊の此の伝承が、何と落魄谷を指しているだと!?」