分銅の如き十鈞之力蛊が、方源の頭頂に静かに浮遊している。
方源は目を閉じて結跏趺坐し、全身が十鈞之力蛊の光輝に包まれていた。
良久にして。
方源が双眼を開けると、光輝は徐々(じょじょ)に消散し、十鈞之力蛊は元の半分の大きさに縮んでいた。
「あと二回は使えるな。」方源は黙って推算した。
十鈞之力は消耗蛊であり、此の蛊を使い切った後、彼は七十鈞の力を有することになる。此の様な底蕴は、四転初階の力道蛊師としっては、申し分のない水準と言える。
しかし全力以赴蛊が二転に抑制されている以上、此の問題を解決しない限り、力道の修行に質的変化の可能性はない。即ち、短期的には力道修為による戦闘力は期待できないと言える。
次に、第一空竅と第二空竅を順に点検した。
第一空竅にある本命蛊の春秋蝉は、相変わらず身を隠したままで、沉睡して休養を取っている。
九割を占める晶紫の真元の海は、きらめく波が、五转巅峰の晶壁を紫にかすんで映し出していた。
海面の上空では、狼煙蛊が狼の形をした暗雲の如く漂っていた。
海面には、既に修復完了した戦骨車輪と、白き柳葉の如き雪洗蛊が漂っている。
五転の蛛絲馬跡蛊は烏賊の如く潜遊し、時折狼頭魚肚の狼呑蛊と共に戯れている。
真元海底には、大量の馭狼蛊、少なからぬ十鈞之力蛊、そして幾つかの狼魂蛊が堆積している。
同時に、方源が現段階で最重視する星門蛊、推杯換盞蛊、東窓蛊、葬魂蛊、馬到成功蛊も潜められている。
一方、狼嚎蛊、狼顧蛊、鷹揚蛊、狼奔蛊、斂息蛊は、何れも体の各所に寄託されている。
北原で過ごす日数が増えるに連れて、方源の体は次第に北原の環境に適応していった。第一空竅の修為は、北原において五転中階の域に達することが可能となっている。
ただし方源は斂息蛊を使い続け、自身の気息を四转巅峰に抑制していた。
一方、第二空竅の内は、また違った景観を呈している。
四方の晶膜が空竅を透き通るほど明るく照らし出していた。
九割を占める真金の真元の海には、きらめく波が揺らめいている。
此の数日間の修行により、方源の第二空竅も当初の三转巅峰から、四转巅峰にまで達していた。
空竅の中央に位置するのは、三転の全力以赴蛊である。
他には、獣力虚影を凝実した気流に変換できる三転の力气蛊、身体が傷つけば傷つくほど力を増す四転の苦力蛊が存在する。
さらに四転の横冲直撞蛊、三転の兜率花と元老蛊、四転の费力蛊、そして治療効果を持つ三転の自力更生蛊も備わっている。
元来所持していた金刚怒目蛊、点金蛊、乌七蛊、血颅蛊、骨肉团圆蛊、阴阳转身蛊などは、当面使用予定がないため、すべて狐仙福地に保管されている。
琅琊福地から脱出した際、方源が最初に現れた場所が北原であったため、第二空竅は真っ先に北原の認証を受けた。四転巅峰の修為は、微かな異域の圧制も受けなかった。
第二空竅の修為が此れ程急速に進展したのは、方源が以前購入した舎利蛊の賜物と言える。
しかし仙元石に限りがあるため、紫晶舎利蛊を更に買うことはできなかった。故に、此れ以降は第二空竅の修為を方源自身の力で、順序を追って修行して行かねばならない。
「四転から五転へは質的転換の過程であり、其の隔たりは巨大だ。今夜は索性、第二空竅の修為を五転初階まで一気に突破してしまおう!」時間が十分に残っているのを確認した方源は、座布団の上に坐ったまま、五転境界への突入を決断した。
第二空竅の修為は既に四转巅峰に達し、その底蕴は十分に蓄積されている。資質は第一空竅を上回ることはできないが、琅琊地霊自らが煉製したため、資質も九割と極めて高い。
普通の蛊師であれば、此の二つの条件を満たせば、五転境界へ挑む十分な資本がある。
通常、何度か失敗を経験した後、経験が蓄積されれば、成功裡に昇格するものである。
しかし経験という点において、方源は常に強みを持っており、此の関門は彼にとって存在しない。更に重要なのは、第一空竅と第二空竅の真元が相互に共用できるという点である!
天下に全く同じ葉は存在せず、同様に蛊師の真元も各々(おのおの)異なる。骨肉团圆蛊の如き蛊を行使しない限り、蛊師が互いに真元を灌輸すれば、異種真元の衝突を招き、最終的には空竅の爆発に至る。
然るに、第一空竅も第二空竅も、共に方源一人が所有するものだ。両空竅の真元は百パーセント相互に融通が利き、本質的に全く同じものである。
「起て。」
方源が心の中で一声念じると、第一空竅の晶紫真元が逆流し、胸の中央にある第二空竅へと流れ込んだ。
五转巅峰の真元が四转晶壁を衝撃する効果は、予想通り(どおり)強烈であった。
夜明け時までに、方源は見事に五转初階への突破を成し遂げた。
此度の五転への挑戦は、彼がこれまで経験してきた中で、最も容易なものと言えた。
「只、第一空竅の真元を使用したため、第二空竅も異域の圧制を受けることとなった」と方源は感じ取った。現在、第二空竅には淡紫の真元が満ちているが、その催動効果は依然として元の真金真元と同じ程度であった。
「しかし半月余り経てば、第二空竅への異域圧制は消散する。三ヶ月後に至っては、第一空竅も完全に北原の環境に融け込み、異域圧制を受けなくなる。其の時には、王庭之争も終盤を迎えているだろう……」
方源は濁った息を吐き出し、立ち上がって軽く体を伸ばした。
一晩中休みなく続けた修行で、少しばかりの疲れと倦怠感を覚えている。
彼が密室の扉を押し開けると、入り口で待機していた二人の三転蛊師が即座に反応し、恭しく挨拶を送った。
その内の一人が、方源に吉報を伝えた:「狼王様、我々(われわれ)の蛊師が野外で幸運にも魚翅狼を一頭捕獲致しました。現在、檻に収容しております。族長からは、大人がご修行を終えられましたら、兵站營に赴きご収服下さいますようとのお取り次ぎがございます」
この知らせは方源に予想外の喜びをもたらした。
魚翅狼は異獣に類し、その戦力は四转蛊師に匹敵する。方源は宝黄天で数多の異獣狼を購入していたが、その出所を説明できぬため、表には出せずにいたのである。
仮一頭の魚翅狼が側近の護衛として付き従えば、戦場における方源の安全性は疑いもなく高まるであろう。
少時して、方源は兵站營に足を踏み入れた。
「土波、狼王様に御目見得仕る。」
三転蛊師の一人が慌てて駆け出し、出迎えた。
背が低く肥えた体躯に、脂ぎった顔面には媚びへつらう様子が溢れており、「狼王様、小生は久しくお待ちしておりました。只今御案内申し上げます」と述べた。
土波の先導で間もなく、方源らは木製の檻越しに、其の魚翅狼を目の当たりにした。
魚翅狼は象の如き巨体で、此刻は檻の中に俯せとなり、全身を鰐のような頑丈な皮甲に包まれていた。
その背中には、鮫を思わせる青黒い魚翅が一列に並び、狼の頭部から尾部まで延びていた。
朝焼けの光がその体を照らす中、魚翅狼は目を閉じ、昏睡蛊の効果で意識を失っていた。
「恭とう御座います、魚翅狼は防御力最強の異獣狼でございます。此の狼が護衛すれば、大人は虎に翼を得た如しと申し上げます」
「更に貴重なことに、魚翅狼は陸上で戦えるのみならず、水中を潜遊でき、其の場で一層戦力を発揮するのでございます!」
二人の護衛の三転蛊師は、此の様な神駿たる魚翅狼を目にし、次々(つぎつぎ)に方源を祝った。
方源は微笑みを浮かべ、眼前の魚翅狼を眺めながら、目を細めて余裕しゃくしゃくと尋ねた。「此の異獣狼を捕獲するのに、少なからぬ犠牲者が出たのだろう?」
土波は自分に問われていると悟り、即座に答えた。「はっ!仰る通りでございます。三転蛊師四名、二転蛊師二百名以上の犠牲が出ました。汪家と房家の両族長の及時な支援がなければ、此奴は逃げ逃げてしまっておりました」
方源は軽く肯き、目を一層細めて言った。「此の魚翅狼の体には傷が絶え間ないが、我れから見れば、古傷があるように見えるのだが?」
「はい、仰る通りでございます。古傷がなければ、偵察蛊師も生還して報告することは叶わなかったでしょう。狼王様が長生天の御加護にあずかっていらっしゃる証と存じます。大戦目前に、傷ついた魚翅狼をわざわざお運びくださったのですから」土波は追従を述べた。
「幸運……か」方源は呟くと、心の違和感が強まっていくのを感じた。
その違和感がどこから来るのか、彼自身も説明できない。ただ漠然とした危機感を覚えるだけだった。何度か問い質してみたが、特におかしな点は見当たらなかった。
魚翅狼は異獣であり、その戦力は四转蛊師の強者に匹敵する。体に古傷があったからこそ、足止めを食って生捕りにされたのである。
「此れらは全て(すべて)理りに適っている。
唯一不合理な点は、方源の心に巣くう不安の念だけであった。
然し方源は此の感じを極めて重んじている。
此の感覚は、彼が前世で此の世に来たばかりの頃には無かったものだ。数百年に渡る試練と、幾度も死線を彷徨った経験から、豊富な人生の知恵と共に培われた直感なのである。
諺に『亀の甲より年の功』とある如く、人が仮令愚鈍であろうと、数多の失敗を嘗め、幾多の苦難を乗り越え、様々(さまざま)な事物を目にすることで、自然と生存の知恵が形作られていくのである。」
実に、人のみならず普通の獣でさえ、危険の到来に対する直感と敏感さを備えている。
周囲の蛊師たちの期待の眼差しの中、方源は四転の馭狼蛊を取り出した。
「ほれ、此の異獣狼を従えよ」
他の者を驚かせたことに、方源は自ら手を下さず、馭狼蛊を土波に渡したのである。
「小生が使わせて頂くのですか?」土波は驚いた、「但し、此方の修為は三転に過ぎず……」
「無駄口を叩くな、早く使え」方源は業を煮やし、鋭く喝を入れると、強いて馭狼蛊を土波に押し付けた。
土波は仕方なく、狼王様のような大人物が何という古怪な気性をお持ちなのか理解できなかったが、方源の威勢に圧され、真元を灌輸するより他なかった。
彼は暫らく催動を続け、全身が大汗で濡れるほど疲労した頃、ようやく四転の馭狼蛊を緩やかに作動させた。
馭狼蛊は一筋の奇なる光と化し、危うく揺れながら魚翅狼の体に降り立った。
「はあ……」
悔恨に満ちた女性の嘆息が、突如として在场する者全員の耳もとに響き渡った。
刹那、方源の心に警戒警報が炸裂し、一瞬の躊躇もなく、其の身を爆発的に後退させた!
一股の戦慄が、瞬時に在场する各人の魂の奥底を駆け巡った。
殆ど同刻、土波は突然口を大きく開け、凄絶な断末魔の叫びを上げると、その場で即死した!二人の三転蛊師の護衛は呆然自失、彼等には土波の死因が全く理解できなかった。咄嗟に、彼等は本能的に方源に続き、後方へ飛退した。
しかし瞬く間に、其の内一人が身体を激しく震わせ、空中に在るうちに息の根を止めた。
「魂爆だ……」方源の脳裏を閃光が走り、思わず口を衝いて出た。
「流石狼王様、眼識の高さには脱帽です」女性のささやくような声が彼の耳元に響き、湧き上がる暗影が其れに続いた。
暗影は剣の如く、幾重にも重なり、黒孔雀が突如として羽を拡げたかと見える。陰険犀利なる其の一撃は、方源の身体を包囲した。
四転――多重剣影蛊!
鏗鏗と。
瞬く間に、密集した衝撃音が響き渡った。
幾重にも重なる剣影が方源の体躯を斬り付ける様は、金属同士の衝突の如く、燦然たる火花を迸らせた。
方源の皮膚は墨緑色へと変色し、注意深く観察すれば、亀甲の紋様が連綿と続いているのが確認できた。
五転――亀玉狼皮蛊!
「女賊め!」 残ったもう一人の三転蛊師は、方源が攻撃されているのを見るや、怒号一声、方向を転じて救援に駆けつけた。
方源を襲った女蛊師は冷やかに鼻で笑ったが、構うことなく、多重剣影蛊をより狂暴に催動し続けた。
同時に、彼女は口を開けて一本の糸状の虫を吐き出した。
その虫は黒い糸の如く、周囲の剣影を無視して、方源の耳へと真っ直ぐに鑽り進もうとする。
方源は無表情のまま、冷たい眼光を氷山の如く湛え、突然右手を伸ばし、援護に来た三転蛊師の護衛を強引に掴んだ。
「狼王様!」三転蛊師は愕然とした。彼は方源を守るために駆けつけたのに、まさか方源に掴まれるとは夢にも思わなかった。
その驚愕で放心している一瞬を突いて、方源は彼をぐいと自身の身体右側に引き寄せ、自分と魚翅狼の間に立て遮った。
ほとんど同時刻、三転蛊師は「あっ」と声を上げ、全身を痙攣させ、両目を白く見開り、泡を吹いて倒れ込んだ!
糸状の長虫は此の好機を逃さず、瞬時に方源の耳へと鑽り込んでいった。
方源は沈かに呻き、三転蛊師を放すと、両拳を黒き屏風の如き剣影に向けて猛然と突き出した。
女蛊師は此の一撃の膨大な気力を察知するや、軽く笑い一声、敢えて正面から受け合わず、咄嗟に多重剣影蛊を収め、其の身を一筋の黑影と化して、瞬時に二十歩余り後方へ退いた。
黑影は天幕の陰に落ち着くと、再び一人の女性の姿へと戻った。
其の女は小柄で愛らしく、全身を黒衣に包み、顔には黒い薄紗を纏い、一対の細長い丹鳳眼だけを覗かせている。
彼女の全身からは幽暗で陰寂な気配が放たれ、其の美しさに妖しげな魔力を添えていた。一目見た者の心に深く刻まれ、容易には忘れ難い印象を残す。
「卑职・無影剣の辺絲軒にて御座います。狼王様、此度始めて御目に掛かります。」
女は方源に向かって軽く一礼を述べた。敵陣の只中で、多数の敵に囲まれているというのに、彼女は微だるむ所無く、泰然自若として落ち着いていた。
「此の間、貴様が我が身に仕込んだのは何れの蛊であるか?」
方源は冷やかに鼻を鳴らすと、鋭く問い詰めた。
辺絲軒は軽やかに笑いながら答えた。「是れは卑职が或る遺跡で偶然発見した不気味な蛊虫で御座います。一旦発動すれば、人の耳から脳髓へと侵入致します。宿り主が稍でも急速に思考しますれば、此の虫は瞬時に膨張し、頭脳を破裂させるまで成長致します。故に卑职、『爆脳蛊』と名付けました」
方源の顔色が曇った。
辺絲軒は再び一礼し、声の色に心からの敬服の念を込めて言った。「先輩はよくも東方公子の入念に仕掛けた必殺の罠を看破なさいましたわ。魂爆の威力からも殆ど逃れ切るとは、本当に敬服致します。先輩の命を頂けるとは、私の最大の誉で御座います。では、此れで。」
言葉が終わるか終わらない内に、彼女は一筋の黑影と化し、建物の影を縫うように飛び交った。
「影劍客だ!」
「畜生、食い止めろ!」
駆け付けて来た大勢の蛊師たちは怒号を上げ、密集した攻撃を四方の影に浴びせかけた。しかし辺絲軒の黑影は、既に跡形もなく消え去っていた。
「逃げたのか?それとも尚此処に潜んでいるのか?」
一瞬、誰一人として即座には判断が付かなかった。
「部下の到着が遅れ、狼王様に御免下さい!」
「狼王様、御無事でいらっしゃいますか?」
心配の余り、人々(ひとびと)は瞬く内に方源を取り囲んだ。
方源は肉体的には殆ど損傷を受けていなかったが、身に纏っていた毛皮が剣影によって散り散りに削ぎ落とされ、少し無様な姿と化っていた。
「我が身に何事か起ころうか?無能の役立たず共め!敵に兵站營まで侵し入られておきながら、何も気付かぬとは!全員、我が前から消え失せろ!」
方源は怒り狂った様子で吼えたが、内心では密かに喜びに湧いていた。
思いがけぬ暗殺が、盗天魔尊の伝承の手掛かりを自らの手に届けてくれるとは!
爆脳蛊?
本気で我れが防ぎ切れぬとでも思ったのか?
ふん、小賢しい小僧めが……
五百年の記憶を有する方源にとって、此の影劍客・辺絲軒もまた重要な人物なのであった。
彼女は馬鴻運の妻の一人であり、将来六転蛊仙に昇華する人物である。正に彼女が手にした此の「爆脳蛊」によって、馬鴻運は盗天魔尊の一つの伝承を手に入れたのであった。
但し、其の伝承が何であり、具体的な経緯が如何なるものであったかについては、馬鴻運は終始として口を濁しており、故に方源も詳しくは知らない。
只、此の「爆脳蛊」を正しく起動する方法のみを知っている。
「馬鴻運でさえ口を閉じてしまうとは、此の伝承の価値の大きさが窺える。真実を語れば他人の羨望を招くことを恐れているのだろう」
方源は表面では驚愕と怒りに満ちた表情を浮かべていたが、内心では冷徹に分析を続けていた。