「趙家が夜も更けずに陣営を撤収しただと?」王帳の中、黒楼蘭は手にした情報を一瞥するや、案几に放り投げた。
彼から見れば、趙家は大規模な氏族ではあるものの、一支の精鋭兵もおらず、まともな蛊師強者一人として存在しない。趙家の族長は確かに五転初階ではあるが、三年前に東坡空に四転巅峰の修業で挑戦成功を許し、威信は高くない。此れまで趙家を執掌してきても、大きな成果は上げられていない。
仮に趙家が東方部族に帰属するなら、彼も少しは注目しただろう。五転蛊師とあれば、名が実を伴わなくとも、軽視できる存在ではないからだ。
しかし今、趙家が身を引き、夜逃げ同然の醜態を晒したことで、黒楼蘭の心中には蔑視の意が尽きることはなかった。
北原では、人々(ひとびと)は武勇を尊び、此の様な戦いもせずに怯え逃げ去る腰抜けの行為を最も軽蔑する。
「盟主様、お祝い申し上げます。我々(われわれ)が未だ手を出さぬ内に、相手の大規模部族を嚇し跑がしたのですから。」
「東方余亮は逆上したであろう。奴が必死で誘った趙家が、直ちに逃げ出すとは、はははは。」
「私見だが、趙家は大規模な氏族とはいえ、所詮此の程度、竟に此れ程臆病とは嗤うべきだ……」
王帳に居並ぶ蛊師たちは口々(くちぐち)に言い放ち、趙家に対する態度も皆同様に冷淡であった。
傍に端座する方源は、案几の上に置かれた情報文書を一瞥した。
趙憐雲。
此の名は彼が常に心に留めているものだ。後世の奇女子、馬鴻運の妻の一人、智道蛊仙として大成する人物。今は——まだ幼い少女に過ぎない。
「どうやら、後世に伝わる虎狼羊の諫めは、既に始まっていたようだな……」
方源は心の中で冷笑した。
前世の五百年にわたり、趙憐雲が智道蛊仙となった後、其の伝記を著す者も現れた。
此の様な文化的伝統は、最早《人祖伝》に遡る。蛊道における第一の経典である此の書に、多くの蛊師が生涯をかけて研鑽する。多くの傑出した蛊師や蛊仙たちは、人々(ひとびと)が其の功績を記録し称賛する為に伝記が作られる。
《趙憐雲伝》にも、一節が記されている。
趙憐雲は幼少期より、並外れた聡明さと知恵を示していた。“黒暴君・黒楼蘭”が王庭の主の座を争う大戦の中、趙家は東方部族と黒家という二大勢力の狭間に立たされていたのである。
趙家が逡巡する中、趙憐雲は虎と狼と羊の譬えを以て父を諫め、遂に趙家の族長をして決断させ、万里の道程を駆けて馬家に奔らしめた。其の結果、趙家は全うされるのみならず、馬家から极高い評価と熱烈な受け入れを得ることとなる。
五百年前の前世の記憶は雑多で乱れているが、方源は此れらを鮮明に覚えている。
何となれば、後年五域乱戦に於いて、馬鴻運と聖霊児、趙憐雲は北原の蛊仙となったばかりでなく、天庭の侵略に抗う中流の砥柱として、象征的な人物であったからだ。
五域において、此の如き人物有れば、其の伝記は広く伝え誦ぜられるのである。
「ふん、馬鴻運や趙憐雲の如き者は、遅かれ早かれ揺り籠の中で扼殺してやる。だが今は慌てる時ではない……」方源は心中の殺意を抑え、表面は平静を装った。
馬鴻運にせよ趙憐雲にせよ、此の五域大戦の寵児たちも、現に蛊仙となるまでには未だ長い道のりが残っている。方源には彼等に対処する十分な時間がある。
但し馬鴻運は、八十八角真陽楼に対する駒として生かしておく必要がある。一方此の趙憐雲に対しては、殺意はあるものの、現の身分と状況が障りとなり、手を出し難い。
何しろ方源は今、常山陰を演じている。堂々(どうどう)たる常山陰が、如何にして数歳の幼女に此れ程執着し、ましてや殺害まで企むことがあろうか?
「それに今の当面の急務は、何と言っても東方部族に対処することだ!」そのように念い至り、方源は心を収め、再び王帳内の議論に意識を向けた。
趙家を嘲笑し貶斥した後、一同は此度の大戦の相手へと注意を集中させた。
東方家は黒家と同様、超級家族として深い基盤を持ち、北原草府に蟠居する巨大勢力である。
当代の東方家族長である東方余亮は、若くして有為と言うべき人物だ。智道における修養を活かし、一族の事務を整然に処理するのみならず、日増しに発展する気運を育んでいる。
確かに黒家の軍勢は優位に立っている。しかし相手は謀略を得意とする智道蛊師であり、その実力は決して侮れない!「此の戦いの最大の脅威となれば、間違いなく東方余亮をおいて他にはいない!」
「其の通りだ。此の若者は若くして博識で、琴棋書画から天文地理に至るまで通じていないものはない。十一歳で両親を失い、生計を立てるだけでなく、六歳の妹である東方晴雨の世話も担った。両親が巨額の遺産を残したが、此の小僧は人情に通じており、守り切れないと悟り、敢えてそれら家産の大半を権力ある家老に献上し、自身はごく一部だけを留めたのだ。」
「私塾時代から既に極めて優秀な成績を収め、卒業後には直ちに其の家老の側近となった。その後も屡々(しばしば)功績を挙げ、家老の賞賛と推薦を得て、遂には族中の蛊仙老祖の指導を受け、現在の地位と実力を築き上げたのである。」
一同は東方余亮に詳しく、口々(くちぐち)に彼の来歴を語り合った。
方源は注意深く耳を傾けた。
此れら具体的な事柄は、前世では経験しておらず、今此処に臨場感を以って直に聞くことで、東方余亮が単純ではないこと、重視する価値があることを強く感じ取った。
「歴史は茫漠として重厚であり、大河の激流が砂礫を洗うように、幾多の英雄人物が淘汰されてきたことか。」
人々(ひとびと)が騒ぎ立てる中、其の議論の的である東方余亮自身も、書斎にて此度の重大な戦いについて策を練っていた。
トントントン。
三つのかすかな扉を叩く音。
「入って来なさい、妹よ。」東方余亮は顔を上げるまでもなく、訪れた者が誰であるか分かっていた。
扉が開けられ、淡い黄色の衣装を纏った少女が現れた。眉目秀麗で、しとやかで優しく、極めて美しい少女である。
彼女の肌は凝脂のごとく、瞳は秋水の如く、優しい声には心遣いが溢れていた。「兄上、中洲から移し植えた玉杏花が咲きました。兄上、妹と一緒に庭で花を鑑賞してくれませんか」
東方余亮は微笑んだ。書斎に籠りっきりで一日一晩が過ぎ、妹を心配させていること、そしていつものように気分転換を促す口実であることを察していた。
「行こう、晴雨。」
兄妹は書斎を出て、連れ立って庭へ向かった。
其の時、空は煙雨が細かく降り、曇り空が重く垂れ込めていた。
遠くを眺めれば、天際と雨幕が溶け合い、墨緑の暗色を成していた。近づいて見れば、塀の向こうには東方家の無数の旌旗がひしめき、白い饅頭のような天幕が隙間なく立ち並んでいる。
人々(ひとびと)が天幕の間を駆け巡り、喧噪が渦巻く——間近に迫る大戦へ向けて準備が進められていた。
しかし此の小庭に居るのは、東方兄妹だけだった。
雨簾越しに聞こえる塀外の喧噪は、却って庭の幽玄な静寂を際立たせている。
中でも東方余亮が目にした庭先の一株の玉杏花は、雨に濡れて花弁が一層繊細で可憐に輝き、温潤な光沢を放っていた。淡い黄色の彩りが、雨中の二人に何とも言えぬ温もりを感じさせた。
「兄上、趙家の者たちは去ったと聞きましたが……」長い沈黙の後、東方晴雨は慎ましやかに尋ねた。
「安心しなさい、妹よ。此の程度のことは兄の予想の範囲内だ。」東方余亮は顔をほころばせ、軽く妹の手を握った。
東方晴雨が微かに顔を上げると、雨の帳の向こうに、白衣の兄が玉の如き面差しで立っていた。その深く澄んだ双眸には、戦略を巡らす気品が漲り、優雅で落ち着いた風格を放っていた。
東方余亮は続けて言った。「私が趙家を熱心に招いたのは、集め得る力はすべて集めたいと考えたからだ。趙家の離脱は大した影響はない。今の我が手中の実力をもってすれば、依然として黒家の大軍に勝つことのできる力を有している。」
東方晴雨の心中の不安は大分霧が晴れたようだった。「何もかも兄上の計算から逃れられないのですね。但し、今回の相手は並大抵ではありません。黒楼蘭だけでなく、北原の英雄であった狼王常山陰までもが彼に与したと妹は聞きました。兄上、どうか御用心ください」
「ほっほっほ、妹よ、其方はまだ兄を心配しているのか?だがしかし……」東方余亮は穏やかに妹を宥めながら、その瞳の奥に鋭い光が走った。「昔我々(われわれ)が危険を冒して黒楼蘭と知己になった時、此奴は其方に邪念を抱き、兄が痛い目に遭わせてやった。しかし今見るに、未だに諦めきれぬようだ。此度は一生忘れられない教訓を授ってやらねばなるまい。常山陰に至っては、既に手を打ってある。此の程度のことは予め見越んでいた故、妹は安心して静養するがよい。其方は幼い頃から体が弱いのだから、余計な心配は無用だ。其方が病床に就けば、却って兄の気が散るというものだ」
東方晴雨は軽く肯き、心の荷を完全に下ろした。
幼い頃からずっと、兄が彼女を支え、気にかけ、思いやってくれていた。
彼女はあたかも柔らかな若芽のように、兄という大樹に庇われて育ってきたのだ。
此れまで長い年月、兄妹は手を取り合って雨風を乗り越えてきた。此度も必ず無事に越えられると信じている。
「何故なら、小さい時からずっと、兄上は此の様に落ち着いていたからね。ただ……若し私が重病でなく、蛊師として修行できる素質があれば、どれほど良かっただろうか」東方晴雨は心の底で深く息をついた。
兄妹は此の様に静かに並び立ち、眼前の玉杏花を眺め続けた。
「妹よ、雨露は湿気多く、立ち続けると体に障る。先に部屋に戻り休むがよい」しばらくして、東方余亮が口を開いた。
「はい、兄上もどうか過ぎたる労は取りませぬよう」東方晴雨は素直に肯いた。
妹の後姿が曲がり角に消えるのを見届けると、東方余亮の顔色は偽りなく曇り、眉をひそめて憂色を滲ませた。
此度の戦いは、彼が先程口にした様な生易しいものでは決してなかった。
「黒楼蘭一人で手強いのに、更に常山陰まで加わった。50万頭の狼の大群とは、流石は奴道の大家と謂うべき存在だ。此の者一騎で戦局を一変させ、本来微々(びび)たる優位しかなかった黒家を、一気に我が家を凌駕するまでに押し上げてしまった。」
「今度の大戦において、我が方が真っ先に解決すべきは、此の50万頭の狼群だ。然もなければ勝利の望みは風前の灯同然である。」
「俺は負けられない!蛊仙老祖が漸く承諾して下さった。此の秘密任務を完遂すれば、老祖自ら妹の病根を断ってくれると約束してくれた。妹の為に、俺は必ず王庭の主となり、八十八角真陽楼に足を踏み入れねばならない!」
「其れまでに、此の道を阻もうとする者は、誰であろうと死を覚悟せよ!故に、狼王常山陰、貴様は此の戦前の雨夜に散れ!」
東方余亮は顔を上げ、天を覆う暗雲を凝視した。その端麗な面影には、冷徹な決意が刻まれていた。