書斎で、趙家の族長は疲れ切った様子で手にしていた文書を置いた。
窓枠を透して差し込む陽光が、彼の顔を照らしている。
五転初階の蛊師である此の五十歳の男は、長年部族の事務に忙殺されたため、既に白髪交じりで皺だらけの顔をしていた。
此の数日間、黒家の大軍が迫り、東方余亮が積極的に誘いを掛けたことから、族内は二派に分裂している。
両派は絶え間なく争い続けており、一方は東方部族に帰属して旧怨を解くべきだと主張し、他方は黒家の方が勢力が大きいのだからと、其れに附すべきだと提唱している。
しかし果たして東方家に投靠すれば、真に積年の怨みを消し去せるのだろうか?本家と東方家が代々(だいだい)積み重ねて来た深い仇怨を思うと、趙家の族長には自信が持てなかった。
かと行って黒家に附するのも問題がある。
趙家の本拠地は何と言っても草府の地にある。一方黒家が代表する玉田の豪族たちは既に盟約を結んでいる。後から帰属する部族として、他の者たちから連合で虐められる可能性も高く、得られる利益も限られよう。もしかすると、単なる犠牲の駒として扱われるかもしれない。
故に、趙家の族長も矛盾と逡巡に苛まれている。
特に此の数日間、族内の高官たちの争いは収拾が付かず、趙家の族長は対外では狡猾な東方余亮の陰謀詭計を防ぎ、対内では局面を鎮め家を統率しなければならない。趙家の族長は深い疲労を感じていた。
「はあ……」
彼は深く息を吐き、椅子の背にもたれかかる。虚ろな瞳で、陽の光に浮かぶ塵を眺めていた。
煌めく陽光の下、微細な塵がくっきりと見て取れる。趙家の族長は、自れも此の漂う塵の一粒の如く、迷い彷徨い、今は空中に浮かんでいるが、一陣の風が吹けば、瞬く間に地上の塵へと堕ちてしまうのではないかと感じていた。
そして黒家と東方家の大戦は、まさに今にも襲い来うとする激風なのである。
斯くの如き嵐に直面して、己は、家族は、何処へ向かうべきなのか?
趙家の族長が心煩意燥しているまさに其の時、窓の外から突然泣き声が聞こえてきた。
此の懐かしい声を聞き、趙家の族長は即座に眉をひそめ、心配そうな表情を浮かべて外に向かって問いかけた。「何事だ?」
扉の外の護衛が直ちに答えた。「はっ、族長様、お姫様が駆けて来られた際、階段で足を滑らせ、頭を打たれてしまわれました。」
「なんと!」趙家の族長は座席から飛び起き、胸を痛めるような表情で言った。「我が肝心要の娘が、どうして転んでしまったのか?血はどれほど流れた?早く、彼女を中に連れて来なさい。」
趙家の族長には以前何人か息子がいたが、皆東方余亮の陰謀に掛けられて死に、今では膝下に残されたのは一人娘だけなのである。
娘は五、六歳(ご、ろくさい)程の容姿で、少し腕白な性分だが、眉目の間に亡き先妻の面影が色濃く、趙家の族長は溺愛とも言えるほど寵愛していた。
間もなく、書斎の扉が開いた。
護衛が一人の女児を部屋に導いた。
少女は陶器のように透き通る肌に錦衣を纏い、実に愛おしい姿をしていたが、今はしくしくと泣きながら、腕で目元を覆っていた。
「我が肝心要の娘よ、我が雲のような子よ、どこを打ったのか?」趙家の族長は急いで駆け寄り、幼い娘を抱き起こして心配そうに尋ねた。
『父上、目が見えないのか?傷口は額にあるのに……』 少女は心で叫びながらも、趙家の族長の腕のなかで甘えるようにすり寄り、「父上、雲々(くもくも)、頭が痛いの……」と泣き声を濁した。
「おお、父が見てやる、見てやるからな」 趙家の族長は優しく娘の額の髪を払い、かすかに赤く擦りむけた傷を確かめた。血が出るほど深い傷ではないが、彼は胸が痛むほど心配した。
彼は娘に優しく語りかける一方で、駆け付けて来た乳母に向かって冷たい口調で叱責した。「呉媽、何をしておるのか!お前には姫の身の回りを常に注意して仕えと申してあろう。此の額の傷をよく見よ!」
「老身、不覚でございます!族長様、何卒お許しくださいませ。」老乳母は恐れ慄き、即座に跪いて地面に頭を叩きつけた。額には冷や汗が浮かんでいる。心中では舌打ちしたくなるほど悔しかった——此の子は彼女が生きて来て出会った中で最も手が掛かり、最も厄介な小悪魔だった。日頃から悪戯に富み、油断すれば瞬く間に姿を消し、狡知に長けて、大人である自分を翻弄して生死の境を彷徨わせる。然も族長の前では、利口で可憐な子の仮面を被り、生まれ持った演技力を発揮する。彼女は此の小さい化け物の弱みを捕むことさえ出来ないのだ!
「父上、乳母を責めないでください。雲々(くもくも)が自分で足元に注意しなかったのですから。」少女は細い声で言った。
心の中では続けて呟く。「此の老いぼれ婆は本当に煩さい、一日中あたしの後ろを付いて回ってくる。あたしが此の書斎に入る為に、わざわざ自分で傷を付けたんだから、容易なことじゃないんだぞ!」
趙家の族長は深く息をつくと、娘の艶やかな黒髪を優しく撫でながら、満面に笑みを浮かべて言った。「娘よ、お前は母上と同じように心優しい子だのう」。
老乳母は心の底で咆哮した。「族長様、お見目が曇っておられます!此方の姫君は間違いなく小悪魔でございますぞ……」
しかし彼女が叫べるのは内心の中だけだった。此の事実を信じてくれる者が自分以外にほとんどいないと知っているからだ。言い出せば、今後此の姫君からどんな仕打いを受けるか分かったものではない。
「役立たずめ、今日雲々(くもくも)が情けを掛けてくれたから良いようなものの……ふん、下がれ。」趙家の族長は老乳母を退けると、再び穏やかな表情で娘を見て「我が子よ、どうして父の所へ遊びに来たのかい?」と尋ねた。
「父上、雲々(くもくも)、父上のことが心配です。皆が此の頃家老たちが父上と喧嘩しているって言ってる。父上が嫌になって、一人で書斎に閉じ籠もってるんだって。」少女は黒く輝く大きな瞳を見開き、心配そうに趙家の族長を見つめた。
しかし実は内心では叫んでいた。「当り前だわ、此のままじゃ命が危ないんだから。親父さんったら、優柔不断すぎるのよ。此の状況で早く逃げ出さないと。ぐずぐず何をしてるのよ?!」
趙家の族長は娘の言葉を聞き、鼻の奥が酸っぱくなり、目が赤らんで涙が溢れ出そうになった。「我が娘よ、父を心配してくれるのか。普段可愛がってきた甲斐があるというものだ。だが安心しなさい、父は元気だ。娘の顔を見れば心も晴れるよ」。
『安っぽい親父め、今は生死が掛かっているってのに、此の無感覚な楽観主義は何だ! 仕方ない、あたしの将来の幸せの為なら、此度は少し行き過ぎたことをしても構わない!』
少女は心で叫びながら、桃色の小さな腕を振り、何とも思わない様子で言った。「父上、雲々(くもくも)が考えたの。喧嘩してる人達は皆馬鹿なのよ。趙家は羊のようで、東方家は狼みたい。今玉田から猛虎が来たから、狼は虎に勝てないから羊に助けて欲しいって言うの。でも羊がどっち側を助けても、最後には虎も狼も羊を食べちゃうのよ」。
娘の一言は、趙家の族長の胸を強く打った。岡目八目とは此の事で、当事者が迷う時、傍観者の一言が覚醒を促すこともある。
其の通りだ。東方家に付こうと黒家に付こうと、虎の皮を奪う様な危ない賭けだ。しかし趙家として、果たして此の局外に立ち続けることなどできようか?
否、十年に一度の天災である大吹雪が、北原に桃源郷など存在し得ないことを既に決定している。王庭の争いは避けて通れぬ道であり、只だ王庭福地に潜り込むことができさえすれば、得られる利益は天を衝く程である。だが趙家の進むべき道は果こにあるのか?
少女は終始趙家の族長の顔色を窺っており、頃合いを見計らって直ちに続けた。「父上、馬家は強くて、人にも優しいと聞いています。羊も馬も草を食べるけど、虎と狼はお肉を食べるの。馬家と友達にならない?」
趙家の族長ははっとした。
そうだ、なぜそうしないのか?
馬家は黒家や東方家とは違う。後者の二家には蛊仙の老祖がおり、背後には福地が控えている。いずれも歴史が長く、深い基盤を有する超大家族なのだ。
ps:超大家族=スーパー家族、好きな方を読めばいいよ
馬家も黄金家族の一員でありながら、蛊仙の後援を持たず、現在は超級家族へと躍進しつつある。馬家の族長と若き後継者は、いずれも英雄豪傑の名に恥じない人物だ。馬家は趙家の来訪を心から歓迎するであろう。ただ、天川まで旅するとなると、道程は遥かである……
『安っぽい親父、まだ何を躊躇っているの?早く決断しなさいよ!』至近距離から父の表情の変化を観察する少女は、内心で焦燥感に駆られていた。
しかし趙家の族長は、天川までの長旅を経て馬家に身を寄せることの危険性を思うと、再び逡巡と躊躇の淵に立たされた。
仕方なく、少女は更に一押しした。「父上、早く行きましょう。今が最も良い時です。狼と虎が互いに睨み合っていて、誰も余裕がありませんから」。
趙家の族長は心が緊張した。
「そうだ、俺は何を躊躇っているのだ?もっと逡巡していれば、最良の逃げ時さえ逃してしまう!黒家にせよ東方家にせよ、良き輩ではない。本家が王庭の戦いで一れの利を得ようとするなら、彼等に賭けるのは極めて不適切なことだ!」
「我が娘よ、其方の言う通り(どおり)だ。此度の大戦に、趙家は首を突っ込むべきではない。我が家の財を、此の渦に投じるわけにはいかぬ。そうだ、逃げよう!」趙家の族長は決意を固めた。
彼の胸に抱かれた少女は、思わず嬉し泣きしそうになりながら、心で感じ入った。「親父さん、やっと目が覚めたんだね。あたしがわざわざ足を運んで説得した甲斐があったよ……」
「しかし我が子よ、此れ等の言葉は一体誰から聞いたのだ?誰が教えたのか、父に話してごらん。」趙家の族長は我に返り、違和感に気付いて小娘を凝視して問い質した。少女は胸がどきりとし、大きな目を瞬かせて無邪気を装った。「誰も教えてないよ。父上、全部雲々(くもくも)が自分で考えたの。父上が毎日大変そうだから、雲々(くもくも)がお手伝いしたくてずっと考えてたんだよ。」
そう言い終えると、彼女は小心翼翼に、今にも泣き出しそうな様子で言け加えた。「父上、雲々(くもくも)の考え、間違ってるの?」
趙家の族長の目の中に、一筋の驚きと喜びが走った。彼は、眼前の此の小天女が自分を騙すとは思わなかった。
此の子はまだ何歳だ?
それに、自分が子の頃から見守って育てて来た子ではないか!
但し、彼女は幼い頃から此れ程聡明であれば、成長後の修行の素質も並大抵ではあるまい。
小娘が叱られるのを恐れる様子を目にすると、趙家の族長の胸に再び慈愛の情が湧き上がって来た。
彼は少女の髪を撫でながら言った。「雲々(くもくも)、お前が居て本当に良かった。父は、此んな素敵な娘がいて幸せだよ!」
「ああ、仕方ないわね、此の姿で転生しちゃったんだから。人生って、友達は選べるけど、親は天が決めるもの。普段あんたが私に優しくしてくれるから、私も恩に報いるわよ……」
少女は心でそう呟きながら、表向きには趙家の族長の首に抱きつき、小さな唇を尖らせて安っぽい親父の頬にチューした。「父上、娘、父上が一番大好きだよ。」
「はははは、我が娘よ、お前は父の心の肝臓のような宝だよ。」趙家の族長は大笑いした。