夜の帳が降り注ぐ草原を、桑易は必死で駆け抜けていた。
刺すような寒風が顔に襲い掛かるが、彼の全身は大汗で濡れていた。
「早く、もっと早く!」
内心で叫びながら、空竅の真元を移動蛊に狂ったように注ぎ込んだ。
オオオォン――!
背後では、一団の夜狼が執拗に追跡を続けている。
桑易が手に提げた夜狼の幼獣の死骸が、此の追跡劇を既に半刻も続けさせている原因であった。
もし普段ならば、この半刻ほどの時間は桑易にとって瞬きほどのものだった。しかし背後に万余の狼群が執拗に追ってくる今、一分一秒が耐え難く長く感じられる。
「着いた、やっと着いた!」
前方の小さな谷間を見て、桑易は新たな力が湧き出るのを感じ、谷に飛び込んだ。
ドドドドッ……
二万頭近い夜狼は黒い濁流の如く、速度を落とすことなく谷間に流れ込んだ。
「入った、入ったぞ!」
谷間に潜伏していた蛊師たちは歓声を上げた。
「速やかに包囲網を閉じろ。失敗は許されん。」
埋伏の指揮を執る三転蛊師の頭が即座に命令を下した。
「土壁、立てろ!」
大勢の二転蛊師が協力し、同時に二転土壁蛊を発動させた。
これだけの数の土壁蛊が一斉に発動したことで、谷間の狭い入口では土石が急激に隆起し、三転土壁蛊級の障害物が瞬時に形成された。
同時に、谷の反対側では数十名の蛊師たちが二転落石蛊を一斉に作動させた。
大量の岩石が轟音と共に転がり落ち、入口を完全に封鎖した。
此の谷間の出口は既に封じられていた。今や入口も失ない、飛び込んできた夜狼の群れは袋の鼠となった。夜狼万獣王は異変に気付き、直ちに狼群を率いて谷壁を攀じ登り、脱出を試みた。
然し其の時、蒼涼にして雄大な狼の遠吠えが天を衝いて響き渡った。
方源は夜狼皇に騎乗し、大勢の夜狼を従えて上から下へ突撃を開始した。
野生の夜狼群は目を赤らめ、怒号を繰り出していたが、狼皇の威光に押され、躊躇して前進できなかった。
神清蛊!
方源が念じるや、一匹の神清蛊が現れた。
此の四転蛊は真元を注がれるや、直ちに一筋の清風と化した。
清風がそよそよと吹き抜け、場内全体に行き渡った。
元々(もともと)二転葱爆蛊の影響で狂暴化していた野生夜狼群は、此の清風に吹かれるや正気に返った。
狼皇が再び一声吠え上がると、野生の夜狼群は大きな混乱に陥り、陣形は崩壊の兆しを見せ、戦意は深刻に動揺した。
方源は朗然と笑い、其れから初めて狼群を率いて真正の突撃を開始した。
既に何名かの蛊師が戦闘に参加し、野生の万狼王を足止めしていた。
方源は先ず狼群を動かして野生群を分断し、蚕食しながら全局を牢固に掌握した。其の後に野生万狼王の面前に躍り出ると、頃合いを見計り四転驭狼蛊を発動させた。
最終的には、数百頭の夜狼の犠牲という代償のみで、此の万狼王と二万頭近くの狼群を見事に収編することに成功した。
大功成り遂げた後、戦場の掃討を此れら蛊師たちに任せ、方源は更に膨大化した狼群を率いて次の地点へ急行した。
其処には、更に大規模な野生の夜狼群が、彼の収編を待ち構えている。
「良くやったぞ。」三転の首領は桑易の肩をポンと叩き、五百枚の元石と一匹の三転蛊を渡した。「此れは貴様が相応しい褒美だ。」
桑易は額の汗を拭い、息を切らしながら元石と蛊を受け取った。
彼はぼんやりと遠くを見つめ、羨望の眼差しを方源の去って行く背中に注いだ。
「自分は三転蛊師ではあるが、魔道で少し名を知られているだけだ。狼王様と比べれば、取るに足らない。此れが真の大物というものか。いつになったら、此のような成し遂げることができるだろうか。」
此の一夜、方源は数千里にわたり転戦し、七万頭の野生夜狼群を見事に収編した。
夜明けまでに、夜狼たちは狩りを終えて次々(つぎつぎ)と巣窟に戻り始めた。方源は其の後、狼群を率き、風塵にまみれて黒家の陣営へと戻った。
黒楼蘭が同盟を結成してからは、人員も勢力も大きく増え、近くに五つもの巨大な陣営を設置していた。
方源の狼群は、此れら五陣営に分散配置され、専任の要員によって飼育されている。
此れまで数日間、彼は膨大な夜狼を収編し、元々(もともと)三万頭程だった手持ちの夜狼が、今や三十二万頭まで爆発的に増加した!
夜狼群は一挙に方源の手中で最も膨大な戦力となり、他に並ぶものがない。
更に以前から持つ朱炎狼、風狼、水狼などを加えると、方源が支配する狼群の総数は五十三万頭という天文学的数字に達している!
「夜狼皇が居たからこそ、夜狼群の収編が此れ程容易だったのだ。」狼群を手配した後、方源は疲労困憊の体を押して密室に戻り休息を取った。
夜狼群が増加するに伴い、方源が駆使する万狼王の数も数倍に増えている。
膨大な夜狼万獣王が彼の魂魄に負担をかけており、魂の奥底に重苦しい感じが日増しに強まっていくのを覚えた。
数時間眠った後、方源は目を開け、座布団の上で結跏趺坐し、修行を続けた。
狼魂蛊。
彼は狼魂蛊を催動し、千人魂が蛊の力によって徐々(じょじょ)に狼人魂へと変容していくのを感じた。
元々(もともと)百人級の狼人魂を持っており、人体に狼の耳、尾、爪を備えていた。しかしその後、蕩魂山で多量の胆識蛊を使用したため魂魄が千人魂に膨張し、却って元の狼魂蛊の効果が薄まり、普通の魂魄の姿に戻ってしまっていたのである。
狼魂蛊の効果は顕著ではなく、一時間余り経ってようやく、方源の人魂の頭頂にある狼の耳が微かに伸びた程度であった。
しかし方源にとっては、心の奥底にあった重苦しい感じが大いに軽減されたことが重要だった。
狼人魂へと転換した後は、狼群の駆使が更に容易になる。狼群は魂魄の最深部から奴道蛊師を同族と認めるようになるのだ。
「残念ながら、我が手には五転の狼魂蛊がなく、四転狼魂蛊を使用している。後者は百人魂に作用させる分には効率が明らかだが、千人魂に及ぶと此の速度では緩慢すぎる。」
長らく催動を続けた後、方源は狼魂蛊を収め、心中に少からぬ遺憾を覚えた。
だが五転蛊は、常より容易に入手できるものではない。
四転狼魂蛊を煉製するには、万狼王の完全な魂魄が一匹必要だ。五転狼魂蛊の煉製には、狼皇の魂が求められる。
しかも、仮に煉道大師が自ら手を下したとしても、五転狼魂蛊の煉製成功確率は五割に満たない。
方源は元々(もともと)宝黄天での購入を考えていたが、残り二枚だけの仙元石と、暗に潜む謎の勢力の存在を慮り、慎重を期して此の計画は取り止めた。
「宝黄天で直接購入は叶わぬが、既に黒楼蘭に此の要求は伝えてある。黒家は黄金部族であり、太上家老は皆蛊仙、その基盤は極めて厚い。二、三日(に、さんにち)が経過した今、此度は直接催促に行ってみよう。」
方源は立ち上がり、密室を出た。
黒楼蘭に会い、事情を話すと、彼は愛莫能助の態度を示した。
「山陰老弟、実を言うと、既に太上家老たちに援軍要請の手紙を出したんだ。だが彼等は、五転狼魂蛊を貴方に渡すより、生きている狼皇を一頭直接提供する方が良いと考えている。しかし狼皇も簡単には渡せない。彼等の考えでは、戦功と交換すべきだという。何しろ私も皆を納得させなければならないからな。」
黒楼蘭は実に狡猾だった。方源が毒誓蛊を使ってからというもの、彼の態度は以前の如く熱心ではなくなっていた。
それに加え、此の間方源が夜狼群を収編できるよう、大量の人的・物的資源を動員したことで、彼は自分が方源のために十分尽くしたと感じていた。
一方で、方源の狼群は五十万頭以上に膨れ上がっている。此れ程の膨大な戦力を前に、黒楼蘭は内心で警戒感を強めていた。毒誓蛊による拘束が効いているとはいえ、彼の潜在意識には幾ばくかの防備の念が生じていたのだ。
方源は肯き、理解を示した。
彼自身も小狐仙に宝黄天を注視させ、北原産の狼皇が現れ次第、出来る限り確保するよう指示していた。
しかし残念ながら、獣皇自体が市場に出回ることは稀である。此の数日間、確かに一頭の獣皇が出品されていたが、其れは狼皇ではなく豚皇だった。方源は黒楼蘭の言葉の端に、彼が最早遠征を開始する為に刃を磨ぎ始めており、焦りを抑え切れなくなっていることを感じ取った。
此の数日間、天川、猛丘、草府など北原各地では既に戦火が飛び交い、熱戦が繰り広げられている。王庭の座を争う有力候補の中で、黒家一族だけが動かず、狼群の蓄積に専念していた。
今や狼群もほぼ十分に蓄積された。野望に燃える黒楼蘭は、実は早くから待ち切れない程であった。
「では、楼蘭兄貴はまずどちらの勢力を攻略したいとお考えですか?」方源はそう問うた。
黒楼蘭は豪快に大笑いし、方源の肩をポンポンと叩いた。「老弟、眼が確かだな、見抜かれたか。老弟に隠さずに言おう、俺は草府を直撃し、東方部族を根絶やしにしたいと思っている。東方部族は美人の産地として有名だ。特に東方晴雨という女は、北原でも名高い絶世の美女だ。奴等の男は皆殺しにし、女は全て奪い取ってやる!はははは……!」
方源は微かに呆然とした。歴史の流れには、やはり慣性というものがあるのだろうか。回り回って、再び東方部族へと戻ってきた。
「しかし今や、我が手には五十万の狼群がいる。前世とは違うのだ。東方家……ふふ。」方源は内心で冷笑した。
彼の実力は既に、歴史の展開に影響を与え得る域に達している。
だが、其れがどうしたというのか?
歴史が面目を一変させようと、何の関わりもない。
利益が眼前にある以上、たとえ天が崩れ地が裂け、洪水が天を衝こうとも――万人に指差され、後世に汚名を残そうとも、一切がどうでもよいのだ!
翌日、黒家は全軍で陣営を払い、草府方向へ向けて浩浩蕩蕩と進軍を開始した。
此の報せが伝わるや、直ちに各勢力の注目を集めた。
風雲急を告げる情勢の中、草府側は大敵に臨むが如き態勢を整えた。
玉田英雄大会で劉黑二家が互角であったのとは異なり、草府英雄大会では東方部族が最大の優勢を握り、他の勢力を圧倒して既に多くの家族を傘下に収めていた。唯一趙家のみが、東方家の苛烈な同盟条件に応じることを拒み、孤軍奮闘で圧力に堪え忍いでいた。
黒家軍の進撃により、東方部族の注意が殆ど全て此れに集中した為、趙家は息をつく暇を得、陣営を転じて独鈷方向へ移動する兆しを見せ始めた。
東方家の当代族長である五転智道蛊師・東方余亮は、一夜を徹して推演测算を行った後、従来の強硬な姿勢を一転させた。同盟条件は苛烈さを排し、極めて寛容で豊潤な内容へと変更された。
東方余亮自ら説得に乗り出し、趙家の加盟を熱心に促した!
趙家の族長は決断をためらっていた。
趙家と東方家には古くから確執があり、近年になるほど其の溝は深まっていた。しかしながら此度の東方家の誠意は明らかであり、提示された条件は目を見張るほど魅力的だ。
或いは此れは、趙家と東方部族が旧怨を捨てて和解する、得難き好機となるのではあるまいか?