「何だこれは?」
「狼の大群が押し寄せてくるのか!?」
「無数の狼だ!夜狼、風狼、亀甲狼に、水狼、朱炎狼までも!」
驚愕の声が沸き起こり、混戦していた者たちは次第に戦闘を止め、踵を返して凝視した。
視界の果てには、浩蕩たる狼の大群が黒潮の如く押し寄せている。北原の多種多様な狼たちが一団となり、隙間なく迫り来る。
漆黒で俊敏な夜狼、風采颯爽たる風狼、鉄壁の防御を誇る亀甲狼、雪原の如き純白の水狼、炎の如く赤く燃える朱炎狼……
これらの狼の群れは一斉に前進し、それぞれの群れは少なくとも数万の規模があった。一瞬にして、膨大な狼の群れが人々の視界を埋め尽くし、無数の者に寒気を覚えさせ、呼吸を困難にさせた。
狼の群れに囲まれるようにして、一つの部族がゆっくりと近づいてきた。大量の蛞蝓蛊や黒皮肥甲虫が豊富な物資を運び、一匹一匹の蜥屋蛊が四肢を動かして歩いている。旗幟が林立する中、一本の巨大な旗が王帳の所在を示していた。青い旗地には、大きな「葛」の文字が書かれている。
「葛家だ……」
「ということは、この狼の群れは常山陰のものなのか?」
「常山陰は三家族と連戦したはずだ。その手にある狼群の規模が、どうして此れ程までに膨大なのか!?」
人々(ひとびと)の心中には、同様の疑念が渦巻いていた。
「情報によれば、狼王の手には夜狼、風狼、亀甲狼がいるはずだ。しかし此の大量の水狼と朱炎狼は、いったい何処から現れたのか?」劉文武の顔には深刻な表情が浮かんでいた。
「兄貴。」墨獅狂は劉文武の側に戻り、眼前に広がる果てしない狼の大群に内心震撼を覚えた。
「水狼の由来は説明が付く。葛家が長らく三日月湖の畔に駐屯しており、あの地で最も多いのが水狼群だからだ。だが、此の八万にも及ぶ朱炎狼群については、誰か説明してくれる者はおるのか?」
「朱炎狼は風狼や水狼、夜狼より遥かに稀で、野生狼の中でも最強の攻撃力を誇る。我々(われわれ)の調査では明らかなはずだが、常山陰の手に如何して此れ程の恐るべき戦力が突然現れたのか?誰か説明できる者はおるのか!?」
瞬時、無数の族長や家老が心中で自族の情報担当者を罵倒した。言葉は血を吐く程辛辣であった。
「朱炎狼群は暫らく措くとして、あの最大級の夜狼はまさか狼皇ではあるまいな!?」仲費尤が遠方を指差し驚叫した。
実のところ、夜狼皇が現れた瞬間から、既に無数の視線を集めていたのである。
「まさしく……夜狼皇である。」
狼皇の威儀は疑いようもない。貝草川は確認後、渇いた声でそう認めた。
人群はどよめいた。
狼皇!
それは五転蛊師に匹敵する戦力である!!
常山陰はたった四転蛊師に過ぎないのに、何故一頭の狼皇を駕馭できたのか?
さすがは長年名を馳せた人物、北原の英雄よ。かつて単身で哈突骨ら馬賊一味を討ち果たした伝説の男である!
「許ならん!奴の実力が、どうして此れ程急速に増強したのだ?狼皇を手にした今、奴は既に馬尊や江暴牙、楊破纓と肩を並べる存在だ!」
復讐を志す裴燕飛は拳を固く握り締めた。膨大な狼群は、彼に虚脱感と挫折感をもたらした。
眼前に迫る狼群を目にし、人々(ひとびと)の顔には峻厳と畏怖の色が浮かんだ。
混戦は完全に止み、人々(ひとびと)は自発的に劉文武と黒楼蘭の周りに集結し、陣を組んだ。
やがて衆人の注視する中、方源は白眼狼に騎乗し、葛光らを従えて黒楼蘭の面前に現れた。
「狼王常山陰、其方の大名はかねてより承っておる!」黒楼蘭は真っ先に一礼を述べた。
黒楼蘭は肥満した熊の如く膨れ上がった体躯に、不揃いの白く輝く歯は短刀や利剣の如く、人に猟奇的な印象を与えた。三角の目の中には、絶え間なく人を脅かす鋭い眼光がきらめいている。
此の者の女癖の悪さは、北原では早くから噂になっていた。
方源は軽く笑ったが、傍にいる劉文武を一瞥した。
劉文武は全身白の衣を纏い、風采が翩翻として、濁世の佳公子の如き風貌であった。その潤いのある双眸は、玉のように美しい顔を飾っている。傍には九尺の墨人が立ち、黒膚に白髪という対比が守護神の如くに聳え立っていた——此れこそが王庭争覇における北原随一の猛将、墨獅狂である。
劉文武は胸騒ぎを覚えた。方源の深遠な眼差しが、不吉な予感を彼に感じさせたのである。
常山陰と常家の確執は、月牙湖での戦いの際に既に葛家によって広く宣伝されていた。
現在、常家は既に劉文武に帰属している。常山陰が復讐を果たし、常家に対処するならば、当然真っ先に劉文武と対決しなければならない。
方源は視線を収め、黒楼蘭を見据えて声をかけた。その声は平淡ながら、全員の耳に響き渡った。「此度私が再び江湖に現れたのは、仇を討ち恨みを晴らす為である。丁度王庭争覇も控えており、北原の英傑たちと腕を試す良い機会でもある。楼蘭兄、共に手を組んでみてはどうか?」
黒楼蘭は此の言葉を聞いて瞳を大きく見開き、喜びを抑え切れず群衆から飛び出して方源の面前に立ち、其の肩を掴んで哄笑した。「狼王の加勢を得られるとは、我が方にとって此れ以上ない光栄である!」
黒家の陣営は瞬時に沸騰し、歓呼の声が湧き起こった。
「かつての敗残者・浩激流、狼王様に御目通り(おめどおり)いたす。」
水魔はびくびくしながら、方源に向かって礼を述べた。
黒楼蘭は眉をひそめ、即座に心配そうに見つめた。浩激流は戦功を立てたとはいえ、もし常山陰の機嫌を損ねるようなことがあれば、彼を殺して常山陰に好意を示すしかない。
しかし方源は浩激流に軽く肯き、「構わぬ。今後しっかりと働いてくれればよい」と言った。
浩激流は思わず安堵の息を吐いた。
「はははは、狼王の広き胸襟、此の如き大度には敬服の至りでござる!」
黒楼蘭の笑い声は一層大きくなった。浩激流は四転高階の実力者であり、絶対的な高手である。如今両者丸く収まり、彼を大いに喜ばせた。
黒家側は有頂天となる一方、劉家側は重苦しい沈黙に包まれた。
劉文武は早くから予測してはいたが、此刻の心情は依然として最悪であった。
「早くから此の様になることを知っていれば、常家の帰属など認めなかったものを。たかが一つの常家が、どうして常山陰に比肩できようか?ああ、残念ながら既に手遅れだ。我れにはもはや局面を挽回する力はない。」
彼は心中で嘆息した。
厳翠児は彼の婚約者であったが、彼は捨てることもできた。男尊女卑の伝統だけでなく、厳家が既に滅亡しているという要素もあってのことだ。
しかし常家は実力が完全に保たれている。
仮に常家を見捨てれば、自れに帰属する各部族を失望させることになる。劉文武は決して其うするわけにはいかない。
「黒家の族長、我が汪家は貴方の陣営に加わりたいと考えておるが、如何がであろうか?」
「黒楼蘭よ、此度我が房家は貴様に賭けることにする。」
「葉家は黒家への帰属を願う。」
瞬時、元々(もともと)態度を決めかねていた幾つかの大規模部族が、次々(つぎつぎ)に公の場で黒楼蘭への帰属を選んだ。
劉文武の側には、墨獅狂の如き猛将が付き従ってはいるものの、狼王常山陰は黒楼蘭と手を組んでしまった。
此れ程膨大な狼の大群が先鋒を務めれば、将来の戦場でどれほど族民の死傷者を減らせるか分からない。
かくして、玉田英雄大会に参集した各部族は各々(おのおの)の選択を下した。大半が黒楼蘭に追随し、残りは悉く劉文武に付いた。
「はははは、劉家の小僧、戦場で再会することを期して待つがいい!」
「楼蘭兄、後会を期す。」
今はまだ互いに戦う時ではない。玉田の外には無数の豪強が控えているのだ。両陣営は互いに警戒し合い、距離を取ると、各々(おのおの)の本拠地へと悠々(ゆうゆう)と去って行った。
帰路についた劉文武は早速情報担当の家老を呼び出し、公衆の面前で叱咤した。「常山陰の狼群は、一体どこから現れたのか?調べよ。徹底的に調べ尽くせ!」
「はっ、公子!必ずや全力を尽くして、失態を償います……」家老は汗だくになって退いた。
「兄貴、心配すんなよ。あいつが狼をどんだけ集めようが、俺がいる限り、常山陰を直接ぶち殺してやるからな。」墨獅狂は濁声で慰めた。
劉文武の心中は重かった。
奴道大師に対処するには、斬首戦術を選ぶのが最適である。しかし今、常山陰が黒楼蘭に帰属した以上、将来の戦場では黒家が厳重な防護を施すであろう。
その時には、斬首を成し遂げるのは、何と困難なことか!
しかし、義兄弟の熱意を冷やかに扱うわけにもいかない。
劉文武は微笑みを浮かべ、墨獅狂の肩を軽く叩いた。「ふふふ、三弟、其方は敵将の首級を軽々(かるがる)と取る無双の猛士である。我れは当然其方を信じておる。」
「兄貴、二哥のことを忘れてはならんぞ。二哥さえ関を出れば、我々(われわれ)三兄弟が手を組み、北原がどれほど広かろうと、何を恐れようか?」墨獅狂は豪快に大笑いした。
「二哥だと?」劉文武の目が輝き、心中の圧力が再び半減した。「その通りだ。二哥が関を出れば、我々(われわれ)が手を組めば、常山陰など敵ではない。だが今は暫らく黒家を攻めずに置こう。あれは噛み砕くのに硬い骨だ。先ずは西面を掃討し、実力を蓄え、自らを強めねばならない。」
「兄貴、思う存分にやっちまえよ。俺は後ろから付いて行くからさ。」
一方、別の隊列では、黒楼蘭が哄笑していた。「はははは、今日以降、玉田英雄大会の報せが広まれば、各勢力は皆頭痛の種になること必至だ。山陰老弟、其方の麾下の狼群は、間違いなく奴等を困惑させ驚愕させるだろう。」
方源の実力の厚さは、黒楼蘭がかねてより注目していたところであった。此度自ら進んで来たことを受け、此の黒家の族長は方源を大いに籠絡せねばならないと考えた。
単に常山陰を対等に扱うのみならず、暫し言葉を交わした後、進んで方源と義兄弟の契りを結ぼうとしだした。
方源は黒楼蘭の此の言葉に、婉曲な探りが含まれていることを悟り、淡々(たんたん)と笑って答えた。「正直に言うと、私も此れ程の大きな収穫があるとは思っていなかった。昔、葱谷で少しばかりの狼の群れを放し飼いにしていたが、此れ程の年月を経て、かくも大規模な群れに成長するとは予想外であった。」
傍にいる葛光も同調した。「はい、太上家老様が葱谷から出て来られた時、隙間ない程の狼の大群を率いていらっしゃって、我々(われわれ)は皆呆然としてしまいました。」
実のところ、方源は葱谷に独り入った後、星門を開き狐仙福地と通じて、其中の大半の狼群を外に放ったのである。
彼が狼群を率いて葛家に戻った時、全員が震撼した。此れにより、葛家全体が彼の証人となった。
同時に、彼は葱谷内に偽装工作も施していた。
正に動かし難い証拠が山と積もったと言える。
「はははは、山陰老弟の運の良さは実に羨ましい限りだ。獣群を放牧するのは元々(もともと)止むを得ない措置で、成果を上げる例は極めて少ない。老弟が此の様な収穫を挙げられたのは天運の導きであり、天も老弟に再び江湖に現れることを望んでおられるのだ。実を言うと、老弟が行方不明になって以来、北原全体が何か沈み切ってしまった様だった。天は憐れみ深く、老弟の様な人物が其のまま山林に隠遁することを良しとされなかったのだ。」
黒楼蘭の此の言葉は、北原の豪雄が常山陰一人である如く、徹底したお世辞であった。然し方源は頃合いを見計って口元を歪め、孤高の笑みを浮かべた。「此度再起したのは、一つは復讐の為、二つには馬尊、楊破纓、江暴牙の類と腕を較べる為、三つには王庭福地を利用して修行を更に一層高める為である。」
その言葉の端々(はしばし)には、既に王庭の座を掌中の物と見做す傲岸不遜な気配が滲んでいた。
此の如き傲気粼粼たる態度は、水魔浩激流の如き者でさえも、舌を巻かずにはいられなかった。
「良し、此れぞ北原の男児が持つべき豪情壮志である!」黒楼蘭は賞賛の声を張り上げ、方源に親指を立てると、続けて一匹の蛊を取り出し彼に渡した。「良き蛊は英雄に贈る。山陰老弟が我が下に来てくれたのは、我れを一目置いての事だ。此の五転蛊を兄貴からの手向けとして受け取ってくれ。」
方源が一瞥すると、其れは亀玉狼皮蛊であった。防御力が極めて強く、此の蛊の秘方については、前世で微かに聞き及んだ記憶がある。五転の亀玉狼皮蛊の主材料は、生きている亀甲狼皇一頭なのである。
もし本物の生きている亀甲狼皇が手に入るなら、方源は迷わず戦力として使い、蛊の材料にすることなど決してしなかっただろう。
方源は宝黄天と通じることができ、五転蛊を手に入れる手段は持っている。
しかし此の亀玉狼皮蛊は、彼の奴道に恰好合うものだ。同種の蛊を入手するには、相応の時間と労力、更に重要なのは仙元石を消費せねばならない。
覚えておくべきは、方源が所持する仙元石は現在、二枚しか残っていないという事実である。
今此処で誰かが自ら進んで贈ってくれるなら、言うことなしだ。
「良し、では遠慮なく頂く。」方源は言うと同時に、文字通り一切の遠慮もなく蛊を掴み取った。