此処の水狼巣穴には四千頭余りの水狼が生息しており、千獣群を形成していた。
水狼は滅多に陸地に上がることはないが、巣穴が外敵に侵されるとなれば話は別である。
方源の狼群が怒涛の如く押し寄せるのを感知するや、此の野生水狼群は巣穴から一斉に猛然と反撃に出て、方源の狼群と激しく絡み合った。
阻害を受けて、方源麾下の狼群の進撃勢いは一時停滞した。
しかし彼は冷ややかに鼻で笑うと、狼嚎蛊を発動し、更に三方向から援軍を差し向けて支援させた。
野生水狼群はわずか半刻も持たず、此の圧力に耐え切れず粉々(こなごな)に散り、最早挽回の余地は無かった。
遥か遠くで。
「族長、我々(われわれ)の品が未だあの場所に残されたままです」
柴家の長老の一人が、悔しげに遠方を眺めながら訴えた。
柴章は深く息を吐き出し、諦らめの表情を浮かべて言った。
「もう十分だ。失くしたものは仕方ない。命を落とすよりは遥かによい。」
「もう少し様子を見てはいかがでしょうか?常山陰のような大人物であれば、三匹の黒甲肥虫など眼中にないかもしれません。」
別の柴家の長老が、すがるような期待を込めて提案した。
しかし柴章は現実を冷徹に見据え、鼻で冷ややかに笑った。
「もし常山陰を怒らせ、虐殺を招く危険をも厭わないというのなら、止めはしない。」
柴家の長老は瞬時に顔色が硬直した。
「ふん、其の様な考え、仲家が思い付かぬとでも?仮令常山陰が目もくれなくとも、我々(われわれ)が其の物資を手に出来る訳がなかろう!ああ、常山陰の如き強者が居る以上、此の三日月湖に留まることは叶わぬ。急ぎ旅立つとしよう」
柴章は手を振りながら、諦念と憤慨、そして無力感の混じった声で言い放った。
柴家は小規模部族に過ぎず、実力は脆弱である。特に十年風雪が迫り、王庭の争覇が始まる今、竜蛇が地を蹴って起き上がり、北原全土が紛争の渦に巻き込まれる乱世と化している。
柴家の如き部族は、乱世の渦中に浮かぶ木の葉の小舟の如き存在である。風雨に翻弄され、波に漂う。より強力な勢力に依附して初めて、生存の可能性を僅かに増やすことが出来るのだ。
柴家は陣営を撤収し、あっさりと撤退した。
しばらくして、仲家の偵察蛊師が未だ悸動の残る表情で仲費尤に報告した。
「殿、狼王は大勝されました。手のひらを返す如くあの狼の巣穴を殲滅され、四千頭の水狼のうち、実に三千頭近くを編入されました。一方で失われた狼は三百頭に過ぎません。」
仲費尤をはじめ仲家の高幹部たちは、全員身震いを覚えた。
十対一以上の戦損比――実に恐ろしい!道理で狼王の狼群が此れ程早く補充できる訳だ。
「族長様、御目に掛かっていらっしゃらないのが残念です。常山陰の指揮は超凡脱俗、既はや神技の域に達しております!」
偵察蛊師は額の冷や汗を拭いながら、付け加えた。
仲費尤は冷ややかに鼻で笑い、自らの気勢を削がれまいと強がって言い放った。「常山陰の手には水狼万獣王がおる。其方の野生狼群の首領など所詮千獣王に過ぎぬ。一旦交戦となれば、水狼群は万狼王の威圧を受け、戦力は削がれる。編入も格段に容易となるわけてあろう。…其の三匹の黒甲肥虫の行方は如何なった?」
偵察蛊師は即座に答えた。「全て(すべて)常山陰に奪い取られました」
仲費尤の顔色は見る見るうちに険しくなった。
今回の行動は『犬を欺いて肉を失う』結果となった。物資を奪えなかったばかりか、柴家との関係まで悪化させてしまったのである。
元々(もともと)柴家と仲家は縁組で結ばれた親戚同士で、以前は緊密な関係にあった。其れ故に、共に移動し、陣営を隣接させて相互援助してきたのである。
然し現実は非情だった。
今、王庭の争覇は仲家と柴家にとって、単なる利益の問題ではなく、両族の生死存亡に関わる事態である。
過ぎ去った情誼など、所詮は利益を維持する為の手段に過ぎない。捨てる時が来れば、何の躊躇もなく捨て去られる。
王帳の内には、重苦しい沈黙が流れた。
良久にして、仲費尤は溜息を吐き出しながら言った。「常山陰の如き人物は、仮令我が仲家が総力を挙げて挑むとも、敵うべくもない。然し北原は決して彼一人が独走する場ではない。彼より強き奴道大師だけでも三人は存在する!此度の件は一旦胸に刻んでおこう。劉文武公子に帰属した後、遅くとも何時か必ず今日の雪辱を果たして見せよう!」
仲家の長老たちは一斉に恭しく肯き、応えた。
間もなく、仲家も陣営を撤収し旅立った。九日が瞬く間に過ぎ、方源は数倍に膨れ上がった狼群を率いて葛家の陣営へと帰還した。
葛光は葛家の高幹部を従え、自ら十里も出迎えに出た。
「太上家老様、まさか御修行が恢復されていたとは!」葛光が方源の四転巅峰の気息を感じ取った時、目を見開き、声を震わせて驚喜した。
方源は軽く肯き、淡々(たんたん)と答えた。「恢復した。そろそろ恢復する頃合いだった。」
当時の常山陰の修行は、正に四転巅峰であった。その後、哈突骨の馬賊との激戦で重傷を負い、生死の境を彷徨いながら地底に潜伏した。
しかし現在、方源の第一空竅は既に五転巅峰に達している。北原の压制を受けてはいるが、尚五転初階の気息を保っている。
現わにしている四転巅峰の気息は、敛息蛊を用いて故意に偽装したものに過ぎない。
一方、彼の第二空竅は最初に北原に現れたため、北原に認められ、異域压制を受けることなく、依然として三転巅峰を維持している。
此くして先ず気息を収敛し、徐々(じょ)に解放して行くことで、奥の手を隠せるだけでなく、他者に漸進的な受容の過程を与えることができるのだ。
方源は葛家の高幹部に随行し、陣営へと戻った。
葛家の陣営は拡張工事の最中で、道中見渡す限り活気に満ち溢れる施工現場の光景であった。大勢の凡人奴隷、果ては蛊師奴隷までもが、葛家一族によって恣意に駆り立てられている。
勝てば官軍、敗れれば賊軍。此れが戦争の残酷さであり、同時に其の妙味でもある。
葛家の高幹部たちは皆、得意満面の笑みを浮かべていた。貝家と鄭家を併合した葛家の勢力は飛躍的に膨張し、此れら日、其の消化に努める中で、一族全体の実力も大きく向上していた。
「現在最大の悩みは、奴隷蛊の不足でございます。仮し大量の奴隷蛊が入手できれば、此等の奴隷蛊師を戦場に投入することが可能に。是れは葛家の戦闘力を飛躍的に強化するものでございます!」葛光は嘆息混じりに述べた
奴隷蛊は人を操る蛊虫である。
然し人は万物の霊長であり、獣よりも遥かに制御が困難である。魂魄への負担も格段に大きく、特に魂魄の強い蛊師を奴隷化する場合は尚更である。
従って、基本的に一りの蛊師が五人以上の奴隷を操ることは稀である。奴隷蛊師の数に至っては更に少なく、往々(おうおう)にして一りの蛊師が一りの奴隷蛊師を制御するのが関の山である。数が増えれば魂魄への負担は急激に膨らむ。
特に魂魄の強い奴隷蛊師を支配するには、操る側が其の者より更に強力な魂魄を有していなければならない。
方源は無論、大量の奴隷蛊を入手する能力を有している。
しかし、そうすれば自らの手の内を過ぎり多く曝すことになる。葛家は彼の計画の中で、一介の駒に過ぎず、此れ程に慮る必要はない。
「次は引き続き閉関し修行に励む。此の狼群の世話は任せた。」方源は淡々(たんたん)と告げた。
「承知いたしました。」葛光は慌てて恭しく応えたが、内心では悲鳴を上げていた。
現在葛家は拡大の最中で、人手が不足している。狼群が増大すれば、餌や(や)りに要する労力も膨大になる。葛家の労働力を多大に消耗すること必定だ!
しかし方源の次の一言に、此の葛家の若き族長は有頂天となった――
「此度は多種多様な物資を持ち帰った。野生狼群を編入する際に、ついでに収集したものだ。貴様らは此れらを活用せよ。但し、三匹の黒甲肥虫に積まれていた品は、必ず厳重に保管しろ。」
「畏まりました!太上家老様!」
以降の日々(ひび)、方源は葛家の陣営にて、表立って動くことなく、奥深く潜みながら厳しい修行に励んだ。
彼の第二空竅は、更なる修行の向上を必要としている。魂魄は既に千人魂の域に達しているが、狼魂蛊による不断の強化が必要で、千人級の狼人魂へと昇華するまで鍛え続けねばならない。
同時に、彼の力道も向上を続けており、钧力蛊を絶え間なく使用している。
息抜きが必要な時、彼は三匹の黒甲肥虫から回収した品々(しなじな)を取り出し、仔細に観察しては鑑賞した。
柴家が苦労して集めた此れらの物資は実に異様で、何てが灰白色の石板であった。
しかし此れら石板の表面には、漆黒の墨線が描かれている。直線も有れば曲線も有り、太い線も細い線も交じり合う。墨線が複雑に絡み合い、其の幾何学模様は文字の如きも有れば、山水画の景観を思わせるものも有った。
若し此れら石板が本物であれば、其の由来は計り知れない。源流を遡及すれば、太古の時代、人祖の第九王女たる逍遥智心にまで行き着くのである。
『人祖伝』に記されているところによれば、逍遥智心は知恵蛊を救うため、乾坤晶壁の前に赴いたという。
乾坤晶壁は虚空に屹立し、天を衝き地を貫く巨大な鏡の如く聳え立っていた。鏡の中には書山が存在し、其の山肌からは墨の滝が落ち注ぎ、岩肌に激突して文泉を形作っていた。
墨の滝は絶えることなく流れ落ち、文泉に激しく叩きつけられて幾千もの飛沫を挙げる。其の黒き飛沫は空中に散漫し、一滴一滴が文字へと変貌していった。
此れこそが蛊師世界における百族の文字の起源なのである。
後年、乾坤晶壁が破砕された際、無数の灰白色の石板へと分裂したのであった。
伝承によれば、全て(すべて)の石板を集め再構成すれば、乾坤晶壁を復元でき、蛊師は再び書山へと足を踏み入れることができるという。
人祖の歴史を繙けば、歴代の蛊師や蛊仙、果ては仙尊や魔尊に至るまで、此れら石板を収集した記録が残されている。
此の為に、間もなく大量の石板の模造品が現れるようになった。
此れら贋作石板は本物と見分けるのが極めて難しく、経験豊富な鑑宝蛊師でなければ判別できない。
歴史上、最も権威ある鑑宝蛊仙は、宝黄天の主であり宝光蛊を有する多宝真人であった。
しかし例え彼でさえ、七割から八割程度しか識別できなかったのである。
偽物の石板は実に多く、数多の蛊師が模造し、中には盗天魔尊さえも加わっていた。
盗天魔尊は特に多量の贋作石板を製作し、多数の蛊仙を欺いた。彼が作り出した偽石板は極めて精巧で、本物を凌駕する程であった。
方源は灰白色の石板を完全に収集し、書山を再構築しようなどと、微かにも思ったことはない。
例え九転蛊尊と雖も成功し得なかった事を、方源が身の程を忘れて企てるはずがなかった。
彼は休息中に、此れら石板の鑑定を試みるだけであった。
前世で商才に磨きを掛けた彼は、鋭い眼光を養っており、此種の灰白石板の販売や偽造にも手を染めた経験があった。
今、此れら石板の真贋を見極め、明らかな偽物を排除することは、一種の息抜きであり、気分転換でもあった。
然し予想に反して、彼が一枚の石板を撫で回していた時、突如として異変が生じた。
既に贋作と判定されていた其の石板は、方源の真元が注がれると、表面の墨線が俄かに流動し、変幻し始めたのである。