貝草川は戦局の推移を静かに見守っていた。
彼の周囲には十一人の蛊師が集っている。貝家の家老のみならず、鄭家から逃れてきた数名の家老も、貝草川の呼び掛けに応じて此処に結集した。
彼ら(かれら)が此処に来たった一つの目的は、常山陰を斬り除き、戦局の勝敗を逆転させることにある。
「葛家は烏合の衆に過ぎず、憂うるに足りない。真の要は狼王常山陰ただ一人である。彼を倒せば、勝利は我々(われわれ)のものだ!我々(われわれ)には未だ逆転の希望がある!!」
貝草川は目に鋭い光を宿らせ、戦場を観察しつつ、仲間の士気を高め続けた。
鄭家の家老たちは既に彼の説きに従っていた:「貝家族長の言う通り(どおり)だ。だが、我々(われわれ)はいつ攻撃を開始すべきか?」
貝草川は目を細めた:「忍ぶことが必要だ。狼王は極めて慎重で、常に亀背万狼王のみを前線に派遣し、風狼万獣王を身辺に残している。彼の周りの防御力は相当に厚い。我々(われわれ)の実力は強いが、突撃の機会は一度きりだ。失敗すれば、強行突破するしかなくなる。其の時には、守るべき地形もなく、狼の群れの中に立ち、常山陰を討つ機会はますます遠のくだろう。」
其の瞬間、戦場は史上最も激烈な対轟を爆発させた。
様々(さまざま)な攻撃が色とりどりに戦場の空を満たし、轟音と爆発音が絶えることなく響き渡った。
此の如き光景を目にし、一同は心を凜とさせた。此の様な戦場では、三転蛊師と雖も微かな存在に過ぎない。四転、五転蛊師こそが、真の大黒柱なのである。
「殿、今こそ我々(われわれ)が攻撃を開始する最良の時機でございます。」
一人の家老が突然提案した。
「焦るな。」
貝草川は手を振って制した。
激しい対轟がしばらく続いた後に終息すると、また別の家老が待ち切れずに言った:「族長殿、時は来たれり。葛家の蛊師たちが真元回復に専念している隙に衝けば、必ずや不意打ちを成功させられます。」
「否!我々(われわれ)の標的は常山陰ただ一人。先程の激戦でむしろ彼の周りの狼群は増強されている。」
貝草川は厳しく拒絶した。
その直後、方源が突然動き出し、鋭く戦機を捉えて一区画の城壁を轟音と共に崩壊させた。
此れが決定的な進展となった。
裴家の防衛線は、遂に一つの突破口を裂かれた。大量の野狼が殺到し、同時に亀背万狼王も到着した。
「此れは大変だ!防衛線が破れ、狼群が完全に攻勢を展開すれば、裴家の状況は急転直下し、危機に陥る!」
「殿、我々(われわれ)は直ぐに出手すべきです。此のままでは裴家も全滅してしまいます。」
「今動けば、未だ此の局面を救うことができます。」
「否!」
貝草川は立ち上がった。其の目には鋭い光が揺らめき、心中は喜びに満ちていた。彼が辛抱強く待ち続けていた戦機が、遂に現れたのである。
裴家の防衛線が突破されさえすれば、常山陰は必ず狼群を駆り立てて、大挙して裴家の陣営を攻撃せざるを得ない。そうなれば、彼の身辺の防御力は手薄になり、貝草川に奇襲して討ち取る絶好の機会を与えることになる。
「もし今出手すれば、常山陰に気付かせ、狼群を収束させて戦局を再び膠着状態に陥入れるだけだ。我々(われわれ)が露見すれば、彼を討つ貴重な機会を失う。三家連合の中で、何故裴家の損害が我が家より少ないのか?狼王が此の如く慎重である以上、容易に倒せる相手では決してない。裴家を餌として用い、彼に勝利の滋味を一舐めさせ、警戒心を緩ませた時こそ、我々(われわれ)が彼を討つ機会なのである!」
電光石火の間に、貝草川の脳裏で思考が電転し、心念が幾度も翻えった。
しかし口にし出す言葉は、此のようであってはならなかった。彼は口を開いて言った:「もう少し待て。我々(われわれ)は決して慌ててはならぬ。裴燕飛を信じよ!彼は北原に名高き猛将である。お前達は彼の実力が此れだけだと本気で思っているのか?」
一群の三転蛊師たちは此の言葉を聞き、辛うじて突進の足を止めた。
貝草川の語音が落ちるや否や、裴燕飛は殺招「金虹一撃」を発動した。強烈な爆発と燦爛たる光芒は、人々(ひとびと)をして思わず腕を上げて双眼を遮らしめた。
光芒が散じた後、亀背万狼王は重傷を負い、裴燕飛は崩壊した城壁の廃墟の上に浮遊し、顔色は蒼白であった。
「強い!」
「一撃だけで、万獣王に重傷を負わせた。」
「此れは裴燕飛の看板殺招だ、流石に凄い!」
「やはり貝家族長は見事だ。戦場全体を見透かす如き洞察力には敬服した。」
家老たちは次々(つぎつぎ)と裴燕飛の戦闘力に驚嘆し、同時に貝草川の英明さを称えた。
貝草川は口元を微かに歪めた。彼としては、寧ろ裴燕飛が此処を守り切れない方を望んでいたのだ。
「機会はまだある。もう少し待たねばならない。裴燕飛が此の如き強力な殺招を使えば、必ず真元を大きく消耗している。彼の顔色を見れば、自身も相当に苦しんでいるのは明らかだ。風狼王が常山陰の側にいる限り、狼王は不敗の地にある。裴家は依然として劣勢だ。もし狼群が裴家陣営に攻め入れば、我れは先の計画を続行する。もし裴燕飛が優勢に転じれば、我れは痛打を加えて協力し、常山陰に致命の一撃をもたらす!」
貝草川の脳裏で此の念が電光石火の如く駆け巡った。瞬く間に、彼は戦術を調整した。
「我れにはまだ機会がある、まだ希望がある!此の時こそ、慌てることは最も許されぬ。落ち着き、耐え忍ばねばならぬ……常山陰さえ討ち取れば、形勢逆転は言うに及ばず、我れは此れによって名声を高め、劉文武に帰順した後にはより重きを為し、家族により多き機会を贏ち得ることになろう!」
貝草川は心の中で、不断に自らを奮い立てていた。
だが其の時、彼の瞳孔が急に縮み、我慢ならず呪罵が爆発した:「ちっ、畜生!」
家老たちは一斉に彼に訝しげな視線を投げかけた。
これまで、状況が不利であっても、貝草川は常に胸中に成算があるように振舞い、余裕に満ち自信を見せてきた。何故今此の如く取り乱しているのか?
貝草川はもはや他の者の目を気にする余裕などなかった。彼は戦場を固く見据え、声も震わせて自問した:「何故だ……常山陰は何故今此の時に撤退を選んだのか!?」
狼王は明らかに優勢にある。亀背万狼王は重傷を負ったが、未だ死には至っていない。彼の手元には依然として風狼万獣王が控えている!
一方、裴燕飛は明に見るからに強弩の末だ。最も重要なのは、裴家陣営の防衛線が既に一つの突破口を穿たれていることである。此の弱点を突いて猛攻を加えれば、裴家の防御への圧力は従前の数倍に跳ね上がるはずだ。防ぎ切れない可能性が極めて高い。
狼群が大挙して裴家陣営に侵攻する時を待てば、此の貝草川は其の隙に乗じて奇襲を仕掛け、狼王の背後から致命の一撃を加えることができたはずだ!
然るに今、奴は撤退しただと!?
常山陰が何故撤退したのか、貝草川には今考え(かんがえ)る暇もない。
彼は極度の緊張に襲われ、元来余裕のあった顔に一瞬の恐慌が走った。狼王は依然として雄厚な戦力を保っている。一度撤退されれば、彼が苦しい思い(おもい)で耐え忍び続けてきた斬首奇襲の計画は、開始もせずに頓挫してしまう。
更に悪いことには、貝家の陣営も鄭家の陣営も、既に葛家の支配下にある。一旦狼群が撤退し、これらの捕虜や陣営内の物資を持ち去られてしまえば、貝草川は完全に自らの家族を失うことになる。
家族すら失ってしまい、数人の家老だけが側に残るという状況では、貝草川の族長としての名は、必ずや衆人の笑い種となるだろう。
遠い将来は言うに及ばず、劉文武に帰順した後でも、彼は重きを為せないだろう。
「駄目だ、絶対に常山陰を此のまま撤退させてはならぬ!一旦奴が退けば、形勢逆転の希望は一切合切が潰える!」
貝草川は心の内で叫んだ。
彼は猛然と身体を起こし、声を張り上げて呼喝した:「諸君、もはや待ってはおれぬ。常山陰は既に力尽き、撤退を図ろうとしている。今こそ落ち目の犬を打ち、狼王を討ち取り、我が族を奪回する時である!」
其の側にいる家老たちも、既に戦場の状況を目にしていた。
貝草川の言葉は、彼ら(かれら)の精神を奮い立て、戦意を勃発させた。
「討て!」
「常山陰、引き下がるな!」
「狼王、覚悟あるなら我と三百合戦するがよい!!」
三転蛊師たちの一群が、貝草川に率いられ、偽装を剥ぎ捨て、葛家軍の背後から奇襲攻撃を開始した。
「ふん、果たして現れたな。」
方源は既に予測しておき、此等の者を見ても驚愕しなかった。
彼は明らかに認識していた:貝草川らが自らの陣営へ救援に戻らなかった以上、残される可能性は二つしかないと。
一つは葛家本拠を襲撃し、報復を実行すること。もう一つは、裴家を支援するために駆け付けることである。
三家の陣営が何の異変もない以上、此れら一味は必ず戦場周辺に潜伏しているはずだ。
方源がもし一本槍に裴家陣営を攻撃し、裴燕飛と死闘を繰り広げていれば、肝心な時に腹背に敵を受けること必定であった。故に撤退こそが賢明な選択なのである。「只、此の者たちは、なかなか耐え忍ぶ者よ。今になってようやく私に追い出されたとは、大きく企んでいる証しだ。」
方源は白眼狼の背に騎ったまま、表情は冷静を保っていた。
しかし葛家の者たちは、免れず慌て始めた。
貝草川ら十二人は、各々(おのおの)が高手であり、突進してくる道中向かう所敵無く、彼ら(かれら)に巨大な精神的圧力を押し付けてきた。
「太上家老様、今如何にすべきでしょうか?」
葛光が方針を仰いだ。
「慌てるな。我が命令に従い、共に撤退すればよい。」
方源は冷ややかに笑った。
戦場での撤退は、極めて高い危険を伴う。退却中に敵に追撃され、潰走に転じる可能性が大いにある。しかし方源は前世において数多の戦陣を経験しており、手中の狼群は断後に最適である。両方からの圧力を排し、安然撤退する手腕は、彼には備わっている。
彼は亀背万狼王を自らの側に呼び寄せ、狼群を収束させた。百狼王や千狼王などは、軍勢の中央に集結させた。
そして普通の野狼たちは後方に残し、殿軍として追撃軍の真元を消耗させる役目を担わせた。
果たして、しばらくすると貝草川らも衝勢を緩め始めた。空窓の中の真元を大切に使わざるを得なくなったのである。
「憎らしい……此のまま常山陰を見逃すわけにはいかぬ!」
貝草川は唇を噛み裂き、殺意に染まった双眸を赤らめ、心中は悔しさで沸き立っていた。
「裴燕飛!何故未だ手を出さぬ!?此の夜狼王を斃さずして、我々(われわれ)三家如何が英雄大会に顔向けできよう!?」
貝草川は絶叫した。
裴燕飛は冷ややかに鼻で笑った。彼は蛮勇の徒ではない。貝草川が今になって突如奇襲を開始したのは、裴家を囮に使おうという計算だと看破している。
しかし狼王常山陰を看過するつもりもない。
此役、葛家は一つで三つを敵に回し、もし無事に撤退できれば、必ず一戦で名を上げ、此方三家は葛家の踏み台と化るだろう。
更に、裴家は死傷者が甚大で、此の如き深仇を報いずして如何がすべきか?
此れを思い至り、裴燕飛は決意を固めた。
五転——破釜沈舟蛊!
ざあざあざあ——
裴燕飛の心底が空っぽになる感じと共に、膨大な真元が虚空から湧き出で、干れ切った彼の空窓を疾風の如く満たした。
「常山陰、命は頂くぞ!」
彼は怒号一声、追撃の速度を増した。
葛家の者たちは一斉に動揺した。
しかし方源は笑い出し、左右に問うた:「此の者は誰か?」
葛光は方源の平静ぶりに感服し、心中の動揺も半減した。低く重い声で答えた:「貝家の族長、貝草川でございます。」
「貝草川……裴燕飛……ふふふ、乱世に英雄現わるとは、実に結構なことだ。」
方源は高らかに評し、其の声は夜の空に響き渡った。
然る後、彼は白眼狼から飛び降り、駝狼に乗り換えた。
白眼狼は数歩跳躍し、風狼万獣王と亀背万狼王と肩を並べた。
「あれは……!」
貝草川の衝勢が途切れ、瞳孔が急に縮んだ。
裴燕飛の顔色は鉄青となり、極めて険しい表情を浮かべた。
白眼狼は異獣であり、その戦力は万獣王に匹敵する!彼ら(かれら)は之前方源にばかり注目し、白眼狼を軽視していた。今白眼狼が自ら進み出たことで、その正体は瞬時に見破られた。
「くっ……!」
裴燕飛は歯を食い縛ったが、為す術なく追撃を中止した。
方源が風狼万獣王一頭だけならまだしも、今また白眼狼が現れた。此の戦力は追撃を阻むに十分であり、反って逆襲してくる可能性さえある。
裴燕飛は危険を冒し、再び裴家を危殆に陥入れることを恐れた。
彼は手を引くことを選んだ。
一方、貝草川もやむなく追撃の足を止めざるを得なかった。
彼は大軍が安然と撤退するのを見送り、心中には失望感の他に、一股の冷たい畏怖の念が湧き上がった:「狼王常山陰、其方の手札の枚数は果れ程あるというのか?」