第三十七節:妥協でもあり、脅威でもある
その時、漠家の屋敷では――
「何度言い聞かせたと思ってる? このザマを見てみろ!」書斎で古月漠塵が机をバンと叩きつけ、烈火のごとく怒鳴っていた。
漠顔は老人の前にうつむきながら、驚きと怒りで目を爛々とさせていた。高碗が方源に殺された――たった今知った衝撃的事実だ。15歳のガキに、そんな手口と根性があるなんて!あれは我が漠家の家僕だぞ?方源の野郎、漠家を舐めてんじゃねえのか!
「じいちゃん、そんなにカリカリすんなよ。高碗なんて所詮よそ者の下僕だし、死んだって別にいいじゃん。問題は方源の方だろ!犬を殴る時だって飼い主の顔見るもんなのに、あいつは犬を殺した上に飼い主まで侮辱してきたんだぜ!」漠顔が舌打ち混じりに言い放った。
古月漠塵が拳で机をドンと鳴らす:「調子に乗るんじゃない!爺さんの言いつけを聞かねえとは、いい度胸だな!お前、何を注意されてたかすっかり忘れたか!」
「わ、悪かったよ!」漠顔はギクリとして慌てて土下座。「じいちゃんの言うことなんでも聞くから!でもさ、本当にムカつくんだよ!方源のクソ野郎、最初は学舎にだまし込んで、寮に籠もってずっと出てこなくて…こっちが帰った隙に高碗を殺すなんて、ずる賢くて最低じゃねえか!」
「…ほう、そうだったのか」古月漠塵は眉をひそめ、初耳の情報に目を細めた。
深く息を吸い込み、顎ひげを撫でながら唸る:「方源なら聞いたことがある。幼い頃から詩才があり、早熟と言われてたが…素質が丙等だと判明して見限ったはずだ。これほどの策士とはな」
机をコンコン叩いて従者を呼びつけた:「例の箱を持って来い」
扉の外には従僕が控えていた。すぐに箱が運び込まれた。中型の木箱だが重量があり、下僕が両手で抱えるようにして書斎の傍らに立った。
「じいちゃん、これ何?」漠顔が木箱を訝しげに見つめた。
「開けてみるがいい」古月漠塵は細目になり、複雑な声色で答える。
漠顔が立ち上がり蓋を開けた瞬間――
「ぎゃああっ!!」
彼女は真っ青になり、瞳が針の先のように縮んだ。大きく後退り、蓋を床に落とす音が響いた。
箱の中には生々しい肉塊が詰まっていた。
切り刻まれた皮膚の断片、べっとりとした内臓の塊。腿骨らしき白い骨が突き出し、血溜まりの中に浮かぶ指先と足指。腐敗臭と鉄臭が混じり、書斎全体に充満する。
「うっ…げぇっ」
漠顔はさらに後ずさり、腹の底から沸き上がる吐き気を必死で押し殺した。二転蠱師として人を斬った経験はあれど、このような猟奇的な光景は初めてだ。
箱を抱える下僕も震える手で必死に耐えていた。既に中身を知っているはずなのに、改めて見れば背筋が凍る。
古月漠塵だけが平然と肉塊を眺め、ゆっくりと口を開いた:「今朝、方源が裏門に置いていったものじゃ」
「まさか…あのガキが!?」漠顔の脳裏に、初めて会った時の方源の姿が浮かぶ。
宿屋の窓際。無表情で食事をする痩せた少年。どこにでもいるような蒼白い顔。
「あんな地味な奴が…こんなキチガイじみた真似を!?」
恐怖が怒りに変わると、漠顔は叫んだ:「あのクソ野郎! 我が家を舐めやがって!今すぐ捕まえて来るわ!」 勢いで出口へ駆け出そうとする
「愚か者め! 動いてはならぬ!」古月漠塵は孫娘以上の怒気を漲らせ、書案上の硯を掴むと猛然と投擲した。
硬質の石硯が漠顔の右肩を直撃し、鈍い音を立てて床面に転落する。
「祖父上!?」漠顔は痛みに顔を歪ませながらも跪座の姿勢を保った。
古月漠塵は身を起こし、震える指先で孫娘を指弾する:「年来の修練は何処へ消えた! まことに失望極まりない! 卑賤の一转初階蠱師相手に、衆目を集めて大動干戈を起こし、挙句に相手の術中に嵌り続けるとは。今また怒髪天を衝くばかりに暴走せんとするか? 未だに方源の真意を看破せぬとは!」
「真意とは…?」漠顔は困惑の色を隠せず。
古月漠塵は冷然と鼻息を漏らす:「若し真に挑発を企てるなら、人目稠密な表門に遺すべきものを、何故事もなげに裏門に置かん? この矛盾こそが鍵だ」
「和解の意思と? ならば直接詫びを入れればよいものを、なぜこのような凄惨な遺体の一部を…これは明らかな挑発です!」
「両義に解すべきだ」老練の家老は木箱を指差す。「裏門に遺したは穏便に事を収めんとする意思の表れ。然しながら箱内の惨状は我が家への警告。この容量に収まるは死体の一部のみ。残骸は未だ彼が掌握していると解すべきだろう」
古月漠塵の声に重みが増す:「つまり彼は告げているのだ。『この程度で手を引けば表沙汰にはせぬ。然れども執拗に追求するならば、残りの肉片を表門に晒し、規約違反の事実を全族に曝け出す』と。その時は共倒れ必至。我が家が先に定めを破り、将来を担う者すら庇護なしには立ち行かぬと、一族総出の嘲笑を買うことになろう」
漠顔は咽喉を鳴らした。木箱の隙間から覗く惨白の指節が、突然宿屋の窓辺で寡黙に箸を執る少年の姿と重なった。あの無表情な顔面の奥に、これほどの謀略が潜んでいたとは
「なんと巧妙な手管であろう」古月漠塵は感慨深げに嘆息した。「単なる一挙動にて剛柔を併せ持ち、進退の節度を弁える。この簡素な木箱は、方源の妥協の意を示すと同時に我が漠家への脅迫となる。まさに我が家の急所を穿たれた形じゃ」
老いたる手指で箱縁を撫でながら続ける:「若し漠家の名誉に瑕が生じれば、赤家の横槍や族長一門の攻撃は必至。まさに累卵の危うきと言えよう」
漠顔は不服そうに反駁した:「祖父上、彼を過大評価されてはおりませんか? 十五歳の小童に過ぎぬものを」
「過大評価だと?」漠塵は孫娘を鋭く睨む。「順境に慣れ、慢心の病に侵されているようだな。方源はまず危急に動ずることなく汝を学舎に誘導し、急場に機転を利かせて宿舎に潜伏す。辱めに耐えて反撃せざるは隠忍の極み、汝が去るや直ちに高碗を誅するは果断の証。更にこの箱を送りつけて謀略の才を示す。これでも過大と言えるか?」
漠顔は呆然とした。祖父がかくも方源を高く買っている事実に、喉元で抗弁を嚙み殺すように「…丙等の分際ですのに」
「然り、丙等じゃ」漠塵は顎髭を撫でつつ深く息を吐いた。「この智謀を持ちながら丙等とは天の悪戯。乙等ならば我が古月一族の風雲児となったものを。惜しいことよ」
老いた声には遺憾と安堵が交錯していた。
漠顔は沈黙し、脳裏に浮かぶ方源の影像が歪んでいく。かつての無害な少年像は、今や不気味な陰影に覆われていた。
「この事態は汝が招いたもの。如何に処すべきか」漠塵が突然に問いを投げた。
漠顔は暫し思索し、冷徹な声で答えた:「下僕の死など瑣事。丙等の処分も些事。要は漠家の威信保持にあり。高碗の一族を皆殺しとし、規律遵守の姿勢を全族に示すべきかと」
「大局を弁え私情を排する点は評価に値するが」漠塵は首を横に振り「手段が拙い。汝に七日間の謹慎を命ずる。今後方源に干渉するでない。高碗は主君を辱めた罪で誅されるが、監督不行き届きの責めを負い、方源に三十元石を賠償せよ。高碗の家族には五十元石を与え追放とする」
硯の割れ目に視線を落としつつ厳命した:「謹慎中に、この裁定の深意をよく考えるがよい」
「はい」漠顔は深く頭を垂れた




