方源が五十歩駆け抜けたところで、勢いが止まった。体を翻し、李然に向き直り、攻撃を続けようとした。
しかし李然は既に手を上げ、「待て!戦いは止める!降参だ!」と高らかに叫んでいた。
この声に場内は一瞬静まり返り、続いて大騒動となった。
「何をやってるんだ?もう止めるのか?」
「わざわざ元石を払って全力以赴蛊を見に来たのに!」
「腰抜けめ!男か?立ち上がって戦えよ!」
人々(ひとびと)は怒髪天を衝く勢いだった。
多くの者が荒い息を吐き、元石を無駄にしたと怒り、罵声を浴びせた。しかし一方で、李然を理解する者も少なからずいた。
「戦うことなど不可能だ。李然の降参は賢明な判断だ」
「先の一撃で差は明らかだ。続ければ命の危険がある」
「李然は演武場の古参の常連だ。経験豊かだから、こうするのは当然だ」
カーン。
澄んだ鐘の音が響き、演武の終了を告げた。
演武場の周りでは、人々(ひとびと)が退場し始めた。方源も、去ろうとする様子を見せた。
「方正、待ってくれ」李然が突然声を掛け、彼を呼び止めた。
方源は眉をひそめ、振り返って言った。「何の用だ?」
周りの人々(ひとびと)も足を止めた。
「方正!俺はお前に恩があるのに、今俺を傷つけた。恩を仇で返すとは!賠償しろ!」李然は叫んだ。
この言い分は厚かましい。明らかに自らの身の程も知らず挑戦しておきながら、怪我をした結果を逆に相手の「恩を仇で返す」行為だと言うとは。
この言葉を聞いて、多くの者が鼻で笑い、李然に一層軽蔑の目を向けた。
方源に無理やり挑戦したのは、怒りに任せたとはいえ、人の情として理解できなくもない。だが今になって絡み続けるのは、完全に因縁づけに過ぎない。
方源は首を振り、背を向けて去ろうとした。「お前の頭も俺にぶつかっておかしくなったのか?」
周囲から哄笑が湧き上がった。
だが李然はもがき起き上がり、方源に向かって叫んだ。「方正!お前のことは知っている!お前は恩讐に明らかで、『滴る水の恩に湧泉で報い、星火の仇は燎原にして返す』と評判だ。商心慈が小さな恩を施しただけで、命がけで彼女を救い、商家城まで護り通した。商家の族長が褒賞を与えようとしても、『恩は返した』と一概に断った。紫荊令牌は族長が無理やり押し付けたのだ!」
「方正!俺もお前に恩がある!言ってみろ、もし俺が星辰石を選んでいなければ、お前は全力以赴蛊を手にできたか?できなかったろう!ふふ、他人はどうでもいいが、俺はお前をよく知っている。お前は少し横暴だが、恩は必ず返す。そうでなければ、夜も眠れないだろう?考えてみろ、俺への借りを返さずに、これからよく眠れるのか?」
「ふん、お前は方源の本性を見抜けていないな」人混みの中、白凝冰は李然の言葉を聞いて、心の中で冷笑した。
方源が全力以赴蛊を手にしたことで、彼女の好奇心もかき立てられた。
何と言っても、方源は常に彼女の仮想敵だったのだ。
しかし方源は足を止めた。
衆人環視の中、彼は体を翻し、李然に向き合い、険しい表情を浮かべた。
「そう言われれば、確かにお前に借りがあるようだ。だが、元々(もともと)お前が先に俺を冒涜した。それに、全力以赴蛊を他人に渡すわけにはいかない。お前の思うところを聞かせてくれ」
方源のこの言葉に、去りかけた人々(ひとびと)も思わず足を止め、見守るように立ち尽くした。
白凝冰の心の中で軽い驚きの声がした。
「全力以赴蛊は三转とはいえ、上古の時代から伝わる唯一無二の存在だ。真の価値は計り知れない。十万元石くれれば、借りは帳消しにしてやる!」李然は思案を巡らせて言った。
「こいつ、馬鹿か?」
「法外な要求だ。呆れた愚かさだ」「よくもまあ、そんな厚かましい要求ができるものだ!」
人々(ひとびと)は一斉に首を振り、李然を心の底で軽蔑した。
方源は一考した後、やはり首を振った。
「十万元石では、この借りは消せない。二十万元石払ってこそ、心が安らぐ」そう言うと、彼は手を挙げ、元老蛊を呼び出し、中の元石を残らず取り出した。
演武場の地面に、瞬く間に元石の山が現れた。
「これは八万余りの元石、今手元にあるのはこれだけだ。後ほど金ができ次第、埋め合わせる!」
「何だと!?」方源の言葉に、人々(ひとびと)は驚きを隠せなかった。
「本当に払うつもりなのか?それも自ら値を切り上げて二十万とは!」多くの者が呆然とした。
「まさか!李然は全力以赴蛊は手にできなかったが、これほどの元石の補償があれば、悪くないだろう」大勢の人が目を瞬かせ、元石の山を見つめ、思わずよだれを垂らしそうになった。
「この方正という男は本当に……」多くの者が方源の去り行く背中を眺め、一斉に奇妙な表情を浮かべ、何と言ってよいか分からなかった。
全力以赴蛊の力を思い存分に見られなかったのは残念だが、李然と方源の興味深い対話は、人々(ひとびと)に少なからぬ収穫をもたらした。
この戦いは、人々(ひとびと)の口から口へと伝わり、一から十、十から百へと、商家城中に瞬く間に広まっていった。
方源が紫荊令牌を所持していることは広く知れ渡り、多くの悪党の邪な思いを挫いた。
多くの者が李然を羨み、一方で方源が約束した二十万元石に疑いを抱く者もいた。
だが何と言っても、方源の「恩讐に明らか」という評判は確立した。
楠秋苑に戻ると、白凝冰が怪訝そうに尋ねた。「本気で李然に二十万の元石を与えるつもりか?」
これは方源の風ではない。
「無論だ」方源は簡潔に答えた。白凝冰には明かせないが、これは李然との密約だった。李然が芝居を手伝い、合炼秘方を教える代わりに、方源が二十万元石を補償するという取引だ。
白凝冰は一瞬沈黙し、疑わしげに冷笑した。「二十万もの元石を名声のためにつぎ込む価値があるのか?」
方源は軽く笑った。「名声蛊の話を聞いたことがないのか?」
白凝冰の目に迷いが走った。「何が言いたい?」
「名声とは橋のようなものだ。深淵を渡せる。通行手形のようなものだ。紫荊令牌よりも貴重で、どこでも通り抜けられる。二十万では紫荊令牌すら買えない。二十万で名声を買えるなんて、これ以上お得な取引はない。ははは」方源は笑い続けた。
白凝冰は冷ややかに鼻を鳴らした。彼が予知蛊を持つことを思い出し、一応納得した様子だった。
名声蛊の話は、人祖の伝説に由来する……
太日陽莽が酔い潰れて目覚めた時、頭痛に襲われ、泥酔中の記憶を失っていた。気が付くと、孤峰の頂に閉じ込められていた。峰の周りは、数千丈の幅の深淵が広がっている。
深淵は渦巻く風で満たされ、惨めな緑色の「平凡風」が吹き荒れていた。風には暗い黄色の「俗塵」が舞っていた。
太日陽莽の心は奈落の底へ沈んだ。ここが平凡の淵だと気付いたからだ。かつて生き物でこの淵を飛び越えた者はいない。孤峰に閉じ込められた彼は、出口もなく、飢え死にを待つだけだった。
幸い、孤峰の頂上には密林が広がっていた。太日陽莽は空腹に耐えかね、野の実を求めて密林へ分け入った。
しかしこの森は奇妙だった。黒い土は沼のようで、腐敗の匂いを漂わせている。どの木にも葉はなく、枯れ細った枝は骸骨の指のようだ。不思議なことに、風が吹く度に、サラサラという葉擦れの音が聞こえるのだ。
太日陽莽は食べ物を見つけられず、絶望に陥った。もはや命は長くないと悟った。
数日が過ぎ、太日陽莽は飢えで四肢が力を失い、木の幹に寄り掛かり、地面にへたり込んだ。
次第に意識が遠のいていった。
朦朧とした中で、多くの人の声が話しているのを聞いた。
「おい、見ろよ。ついに気を失ったぞ」
「はあ、思った通りだ。終わりだな」
「実は平凡の淵から出る方法があるんだ。名声蛊を手に入れればいいだけだ」
「名声蛊は細語密林の中心にある石の下に押さえられている。残念ながら彼は知らないらしい。ははは……」
「シー!声を潜めて話そう。万が一聞かれたら大変だ」
「大丈夫だよ。もう気絶してる。すぐに黒い泥に埋もれて、養分となり、俺たち木の糧になるさ」
その言葉を聞いて、太日陽莽は飛び起きた。
この密林こそが細語密林だったのだ。聞こえていた葉擦れの音は、実は森の細語だった。聞き覚えた情報を頼りに、太日陽莽は密林の中心へ向かい、石を押しのけて名声蛊を手に入れた。
名声蛊は菊の花のような姿で、黄金色の花弁が輝き、香りとも臭いともつかない不思議な匂いを放っていた。
名声蛊は太日陽莽に言った。「若者よ、石を除いて私を救ってくれて感謝する。命の恩に報いるため、平凡の淵を渡すのを助けよう」
名声蛊は自らの使い方を教えた。
太日陽莽は大いに喜び、淵の縁に立つと、名声蛊を口に押し込み、力の限り叫び声を上げた。
不思議なことに、彼がどれほど力を込めて叫んでも、一切の音は立たなかった。しかし平凡の淵は激しく揺れ動き、山崩れのような大きな轟音が響き渡った。空気中には芳醇な香りが満ち溢れる。
太日陽莽は疑わなかった。名声蛊から教わっていた通り──名声そのものは音を立てないが、広く伝わり、激しい震動を引き起こすのだ。
叫び続けるうちに、半空に金色の光の橋が現れた。だがその橋は長さが足らず、対岸までにはまだ遠く離れていた。
太日陽莽は飢えと疲れで力尽き、何度か試すも効果は次第に弱まり、自らを救う望みは絶たれた。
名声蛊は嘆息した。「ふう…長く何も食べておらず、腹の仙気も少ない。その気を腹から胸、喉を経て口まで送るには道程が長すぎる。道を縮めねばならん。よって、我れを貴様の尻の間に押し当てよ」
太日陽莽は言われた通りにした。
名声蛊は彼の下腹部付近に落ちると、菊の花のような小さな穴へと変わった。
「よし、これで気を調え、再び叫べ」名声蛊が告げた。
太日陽莽は仙気を一すじ調え、その穴を通して外へ放った。
ブッ!
恍惚とした間に、彼の耳には鈍い音が響いた。空気中は鼻が曲がるほどの悪臭に包まれたが、金色の橋は見る見るうちに雄大に成長し、千丈を跨いで対岸に届いた。
臭名声は好名声よりも速く広まり、根付きやすいものだ。太日陽莽は急いで光の橋を渡り、平凡の淵を越え、無事に対岸へ脱出した。