僵尸群の攻勢が次第に緩和し、戦況は膠着状態へ移行した。
刻一刻と時間が過ぎる中、蛊师が壮烈な最期を遂げたり、僵尸が完全に倒れたりする光景が散見された。
一時間余り後、丁浩は方源の指示通り突如攻勢を激化させ、既に崩壊寸前だった防衛線を瞬時に突破した。
商隊側は最早三十余名のみに激減。
「脱出必須だ!」という認識が全員を貫いた。重なり合う白毛僵尸の包囲網と、行く手を阻む黒毛僵尸の中を──生き延びるための一縷の生路へ向けた死闘が始まった。
「凡人など庇うな!速度が落ちるだけだ!」賈龍が怒鳴る。
商心慈と小蝶は二人共顔面蒼白となる。
「怖がるな、私が付ている」方源は二人を護るように寄り添った。
他の凡人たちは容赦なく見捨てられ、残されたのは彼女らだけだった。
賈龍らは不満を隠すも、方源と白凝冰の戦力に頼らざるを得なかった。
包囲突破が目前という時、ドサッ!と二体の青毛僵尸が出現。
「後退するぞ」方源が商心慈らを引き寄せ、声を潜めた。
白凝冰は一瞬動作を止める──後退すれば再び包囲網に陥るのに?
だが方源は既に主従を連れて後退を始めていた。視界が開けた正面を見つめ歯を食いしばった彼女は、結局踵を返し方源に合流した。
商隊の者たちと二体の青毛僵尸が激突、乱戦が爆発した。
青毛僵尸の戦闘力は千獣王級。疲弊し切った三転蛊师たちは太刀打ちできず、包囲網は瞬く間に縮小した。
ザワッ!
黒毛僵尸と白毛僵尸が流れるように合流、商人達を鉄壁の輪で閉じ込める。
一方方源らへの圧力は激減。数十歩後退した彼らは再び突撃を開始。
ビュンビュン!
方源の双拳が疾風のように駆抜ける。白毛僵尸は触れれば砕け、掠れば崩れ落ちる。
白凝冰が呆然と見守った──これが方源の真の実力だったのか?
「ん?」白凝冰が手を出した途端、違和感に気付いた。
阻む白毛僵尸は以前より数倍弱く、間抜けに突っ立っている。まともな攻撃もせず、打たれ放題の的のようだ。
「まさか方源は最初から弱点を見抜いていたのか?だが見た目は同じ白毛僵尸、どうやって見分けた?」彼女の胸に謎は深まる。
その頃、方源は内心で罵倒していた。
(丁浩め…撤退前に『強さを装い巧妙に手抜きせよ』と厳しく言い含めたはずだ。この手抜き工事のような脆弱ぶりは何だ!?本気を出せ!)
丁浩の額が滝のように汗を流した。
かくも全身全霊を傾けて僵尸軍を操ったことは、生涯で初めてだった。
「大師兄の密命を台無しにした」という罪悪感と不安が彼を苛み、方源の芝居に必死で合わせていた。
大師兄の身分を知らぬ前は良かったが、今や本気など出せるはずがない!
「す、すごい…!」小蝶が息を呑む。
商心慈の瞳も煌めいた。
方源は縦横無尽に駆巡り、手も足も出せない敵などいなかった。無敵の気概が彼を包む!
英雄を愛でない者がいるか?
白馬の王子様や英雄に救われる夢を抱かない少女がいるか?
小蝶も、商心慈も──例外ではなかった。
この時、主従は方源の広き背中に視線を注ぎ、胸に微かな波紋が広がった。
醜い容貌も今や愛おしい輝きを放ち、危機に立つ二人の心に圧倒的な安心感を生じさせる。彼の勇猛、彼の気概は、寄り懸かり依存したくなる衝動を抑えきれなかった。
「芝居が下手すぎる…腰抜けめ!」方源は丁浩を蹴り飛ばして断種したくなる。
(奴の心理は読めている…仕方あるまい)
瞬時に天蓬蛊を解除し、白毛僵尸の鉤爪に自ら身を投じた──ズキッ!
皮膚が裂け肉がめくれ、鮮血が迸る。
(よし、これだ!)傷こそ商心慈の信頼を勝ち取る絶好の機会。見逃すわけにはいかなかった。
「この野郎!!」白凝冰が呪いの言葉を吐き商心慈を離れ、方源へ駆け寄った。方源が持つ阳蛊こそ彼女が男に戻る唯一の鍵だった。
「あかんわ!!!」丁浩は方源の負傷に震え上がった。自責と焦燥に駆られ、顔面蒼白で呟く。「わてのせいじゃ…わてのせいや…大師兄!」
「あっ…!」主従同時に叫びが漏れる。方源の傷が二人の胸を刺した。
「来ずに護れ!」白凝冰に低く叱咤する方源。
蒼い双眸が見開かれる──(この詐欺師、わざと傷付いたんだ!)白凝冰は目を剥いて睨んだ。「調子に乗るなよ」
丁浩の操る白毛僵尸は爪を振りかざすが、見せ掛けだけで脅威は皆無。
トンッ!
白凝冰が一蹴で僵尸を弾き飛ばし、商心慈の傍らへ舞戻った。
「黑土様の様子は…?」商心慈が白凝冰の腕を掴んで問いただした。
「死なん」白凝冰は唇を歪めた。「なぜ交代させないのです?怪我してるのに!」
普段穏やかな彼女が、極めて稀に怒り混じりの口調で言った。
白凝冰の口元が微かに痙攣した──(自ら傷を負った真実など言えるはずがない)。
「奴はそういう男だ。一たん突撃したら止まらない。倒れるまでな」と嘘で誤魔化した。
商心慈の美しい瞳が瞬き、微かに赤らんだ。
小蝶は口を押さえ、目の縁に涙を溜めた。
再び前の方源を見ると、主従二人の胸に波紋が広がった。
これは一体何者だ!魑魅魍魎の如き屍群の中を縦横無尽に駆け巡り、一歩も退かぬ。
間違いなく、彼は英雄だ!悲劇を帯びた英雄だ!
丁浩は方源の負傷を見て恐怖に震え上がり、最早遮る勇気などなかった。
方源が奮戦するうちに、商心慈ら三人を連れて尸群の包囲を突破した。
「これで終わりか?」不満そうに舌打ちし、自身の唯一の傷口を呆れたように見やった。
(せっかくの見せ場なのに、一つしか傷を負えなかったとは…演技が足りない)
たった一つの負傷でも、商心慈と小蝶を極度に不安に陥れた。
「黒土様、お怪我は?傷が深くて…全て私のせいです!」商心慈の瞳に涙の花が浮かぶ。
「真黒な血がどっと流れてます。お毒におかされましたわ!」小蝶が心配そうに告げる。
方源は胸を張り、低く沈んだ声で豪快に言い放った。
「この程度の傷が何だ?屍毒も清熱蛊で解毒できる。心配無用よ…フフフ」
陣営跡の廃墟で炎が天を衝いて燃え上がっていた。退路を断つため、また照明と威勢づけのため、商隊の者たちは出発前に燃やすものは全て燃やしたのだ。
方源ら四人が尸群の包囲を突破した場所は、炎の照らす外縁だった。
炎の光が方源の顔に、胸に、傷口に揺らめいていた。
彼は微笑んでいた。醜い容貌だが、二人の女性の目には、別の英雄的魅力を放って見えた!
彼女たちも英雄に救われる夢を見たことがある。夢の中の英雄は颯爽として美男だった。正直、方源はその像からは程遠かった。
だが不思議なことに、二人はこそが真の英雄だと感じた!疾走れ!恐れぬ!豪気無双!
「助けてくれ!」尸群の深くに囚われた商隊の者たちが、方源らの状況を見て救援を叫び求めた。
方源の目が一瞬光ったが、口を開く間もなく──
商心慈が彼の腕を掴んだ。「お怪我してるんです、行かないで…私たち逃げましょう。覚えていますか?力の及ぶ範囲のことだけをすると、おっしゃったでしょう?」
力の及ぶ範囲で良しとすれば、心が安らぐ。
方源は朗らかに笑い、商心慈の手をポンポンと叩いた。「安心しろ、行く気などない。奴らと私には恩も仇もない。さあ行こう!」
だがこのまま去るのは少し不都合だった。
万が一、張柱を殺したことを知る者が絶望の余り叫び出したら?商心慈はどう思うだろう?
実は心配無用だった。真相を知る陳鑫と陳双全は既に戦死していた。
方源の瞳に鋭い光が一瞬走り、声を張り上げた。「耐え抜け!彼女たちを安全な場所へ移したら戻り、援護する!」
「黑土様、高潔なり!」
「速やかに戻られよ!」
「命を救われば、莫大な礼を呈せん!」
商隊の者たちが叫び続けた。
方源は嗤い、怪訝そうな主従の顔を向いて言った。「奴らに希望を与えたまでだ。奇跡を起こせることを願う。哀、私にできるのはこれだけだ」
その言葉で、方源の姿は二人の女性の心の中で更に高大に映った。
方源は三人を連れ、山道を一路駆け抜けた。
月光の下、山道の地面は霜雪を敷いたように白く輝いていた。
先の打ち合わせ通り(どおり)、丁浩は此処にも僵尸の群れを配置し待ち伏せていた。
四人が突っ込んだ瞬間、方源は白凝冰に目配せし、自らは足を止めた。「先へ行け!俺がここで食い止める。後で追いつく」
主従の二人の女性は足を躊躇させたが、白凝冰に促され走り出し、瞬く間に方源の視界から消えた。
方源はしばらく待ち、見せ掛けの戦闘を僵尸群と繰り広げた。頃合いを見計らい跳跳草を駆り、僵尸の群れを飛び越え丁浩の元へ舞戻った。
戦場の彼方では戦いが続いていた。
商隊の者たちは最早三名にまで減っていた。だが方源を驚かせたのは、青毛僵尸が一頭も損壊されていたことだ!
丁浩に問いただしたところ、とある蛊师が珍しい三转爆燃蛊を使ったという。
「大師兄」丁浩は慌てて深く頭を下げた。蒼白な顔に冷や汗が玉になっていた。
かくも激烈な分心操作は生涯初めてだ。要は方源の芝居に合わせるため、魂の底から疲れ切っていた。
かつて僵尸を指揮するときは撤退か進撃の二択。今日のごとき、牙を剥き爪を立てて威嚇しながら空虚を突き、方源に叩かれたら傀儡を静止させる――そんな複雑な操作などありえなかった。
「大師兄、お怪我は大丈夫ですか?わてのせいじゃ…わてのせいじゃあらしまへん!治療の蛊がございますわ」丁浩が慌てて弁明した。
方源は彼の肩をポンポンと叩いた。「お前は良くやった。本気を出したな。傷は俺が自ら受けたものだ。今から更に気を入れて、残り全員を始末しろ!」
「かしこまりました」方源の言葉に丁浩は安堵の息を吐いた。
背を向けると、気を奮い立て無数の僵尸を押し寄せた。
残された三人は死を覚悟した。一人は目を閉じ嘆息し、一人は方源を罵倒し、一人は声を張り上げて号泣した。
死の前に、各々(おのおの)の本性が露になる。
尸群が三人を飲み込んだ。方源は満足げに頷いた。「漏れはあるか?」
「一切ありません!大師兄のご指示通り(どおり)、外郭にも僵尸を三重に配置してございます!」丁浩が慌てて答えた。
「良い。善戦だった。戦後処理を始めよ。痕跡を残すな」
「畏まりました、大師兄」
丁浩は数年商隊を襲撃しながら露見せず、確かな手練を持つ。戦場の掃き清めも手慣れており、一般の尸群が襲った様に偽装する手腕に、方源も微かに肯いた。
だが彼は方源より年長ながら、経験の狡猾さでは及ばない。
方源が幾箇所か指摘し不備を補完すると、丁浩は敬嘆の念を禁じ得なかった。
例えば:
元石は全額回収せず数個残す(尸群は元石を拾わぬ)
死体も完全に僵尸化しない(屍毒の浸透度に差があり、100%の転化は不可能)
「大師兄、これらの元石、どうかお納めください」茶一服の間もせず、丁浩は機転を利かせて得た元石を奉った。
方源は一瞥し──約一万三千枚の元石と見做した。遠慮なく受け取り、全て(すべて)兜率花に収めた。
「今回は収穫はどうだった?」肩をポンと叩きながら穏やかに尋ねる。
丁浩の蒼白な顔に興奮の赤みが差した。「大きな獲物ですわ!三转蛊师の完璧な死体五体、更に力气を養った蛊师の死体十数体。僵尸に転化すれば少なくとも黒毛僵尸になります!」
「ハハハ、上々(じょうじょう)の収穫じゃ。それらの黑毛僵尸、良く飼育すれば必ず新しい青毛僵尸が生まれるだろう」
丁浩は激しく頷き、敬服の色を浮かべた。「わてが商隊を丸ごと葬るのは初めてでんねん。大師兄が獣群を誘引し、奴らを弱め続けてくれたお陰です。この収穫は大師兄あってのもの!」
「お前も上々(じょうじょう)じゃ。指揮は見事だった。だが顔色を見るに心神を酷使し、魂魄を損なっている。十分な休養が必要だ。我が流では魂魄の養生が肝要。魂魄が弱ければ心念も衰え、尸群の指揮も困難となる」方源は穏やかな笑みを浮かべ諭した。
「大師兄の御心配、感謝します!」孤独で寄る辺ない十年を過ごしてきた丁浩は、他者から気遣われるのが初めてだった。思わず声を詰まらせ、ひそかに感動した。
その感激が昂ぶり、突然強烈な眩暈に襲われた。体がぐらりと揺らぎ、方源が支えなければ地面にドサッと倒れ込むところだった。
「恥ずかしい…わての修行が足りんとですわ。頭がぼーっとし、心念も回りませぬ」丁浩が辛うじて立ち直り言うた。
「構わん。洞窟へ戻りよく眠れ。翌日目覚めれば頭痛は激しいが、心念は大方回復し、僵尸も自由自在に操れるようになる」方源が笑いながら言うた。
「はっ!わても経験ありまんねん。一度僵尸を召し過ぎて、その場で卒倒しそうになりましてん。ホホホ」丁浩も笑いを返した。
「うむ…そろそろ我れは発つ。小师弟よ、貴様を認めた。良く休んで待っておれ。戻ったら師尊へ共に拝謁する。ところで、お前の洞窟はどこにある?」
「中腹の陰潭の傍らでんねん。五芒星形の陰潭が目印で、一目で分かりやすおす」丁浩は狂喜して答えた。「大師兄、本当に洞窟へ一服されまへんか?」
「遠慮する。時間が迫っておる、師尊から密命を受けている。しまった…!死を偽装していた者がおる!一匹の漏れ網が!」
「どこです!?」丁浩は心臓が跳ね上がり、慌てて振り返った。
ズッ!
次の瞬間、一本の骨槍が彼の頭蓋骨を貫通した。
ドスン!
丁浩が地面に倒れ伏す。額には太い螺旋状の骨槍が突き立ち、血と脳漿が螺旋状の溝を伝ってゆっくり流れ落ちていた。
彼は目を見開き、信じ難い表情を固めたままだった。
方源の顔から笑みが消え、無表情になった。ゆっくりと腰を屈め、丁浩の足首を掴むと、陣営の廃墟へゆっくりと引きずっていった。
炎は尚も燃え続け、主を失った尸群は漫然と跳ね回っていた。
地面に転がる死体が彼らを誘惑する。
尸群は死体に覆い被さり、喰らい付き、引き裂き始めた。
方源は丁浩の死体を引き摺りながら、死屍累々(ししるいるい)の戦場を歩いた。耳には僵尸が貪り喰う音が響く。
火の中へ丁浩を放り込むと、静かに見守った。死体が徐々(じょじょ)に焦炭と化し、身に付けた蛊虫が凄厲な悲鳴を挙げ、次々(つぎつぎ)に焼け死んでいく。
商心慈が商家の族長に認知されれば、商家の厳密な調査が入る。この戦場は必ず核心となる。
もし丁浩が捕まり、拷問で真実を白状すれば、方源は危険に陥る。
彼は実直で騙し易く、使い勝いの良い駒だったが、商心慈と比べれば価値は遥かに劣る。危険を孕んだ駒は捨てるのが最善だ。
身に付けていた蛊虫も同様に処分する。二代僵尸王はこれらを媒介に方源を追跡できる。何より僵心蛊を飼育する際、商家の調査に痕跡を残す危険がある。
主を失った僵尸たちは、最早普通の尸群に過ぎない。
それらが死体を喰い尽くした後、一部は此処に留まり、他方は墓碑山を彷徨い、生血を求めて散り散りになるだろう。
この処理を経れば、現場は一層真実味を増すと確信している。
丁浩の死体が灰燼に焼かれるのを見届け、方源は悠々(ゆうゆう)と踵を返した。
尸群は皆食に夢中で、知性のかけらもない連中に、最早微塵も脅威など存在しなかった。