匪猴は筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)で、体躯は象の如し。成獣は体長一丈に達、全身の筋肉が盛り上がり、上腕は下肢より倍以上も太い。尾は鉄棍の如く、山岩をも砕く。
匪猴の体毛は金色に輝き、黒い虎模様の斑が浮かぶ。特異なのは腰から自然に生えた毛皮が股間と尾を覆い、皮の袴の如き風情だ。
吼えッ!
この匪猴群の猴王が突如、巨口を開いて轟く咆哮を放った。
その雄叫びは獅子虎のように雄渾である。
吼えッ! 吼えッ! 吼えッ!…
猴王の咆哮に呼応するかのように、群猴が応答した。
一瞬、風雲激しく滾り、咆哮の衝撃波が白い靄を吹き飛ばした。
人々(ひとびと)の視界が急に開け、山道の両側の山々(やまやま)に匪猴が隙間なく立ち並んでいることに気づき愕然とした。千を超える匪猴が商隊を包囲していた。
巨体たる匪猴は、樹木と肩を並べる背丈。幼い樹は、彼らの腰の高さに満たぬほどであった。
商隊最前列、さらに巨大な猴王が石凳に泰然と座り、水瓶ほどの灰色の石酒壜が傍に置かれ、酒の芳醇な香りが辺りに充満していた。
猴王は一声吠えると口を閉じた。他の匪猴の雄叫びは鳴り止まぬ。
かえって猴王の威風が際立つ。
静かな眼差しに霊性の光を宿し、微動だにせず座り続ける。一方で凡庸な匪猴は商隊の貨物を狙い、身を乗り出さんばかりの獲物を見据える眼差しであった。
猿、狐、狽といった獣には知恵がある。
この匪猴王の知能は三歳児ほどで、狡電狈には及ばぬが、交流できるだけの聡明さを持つ。
商隊首領の賈龍は目を細め、猴王を睨みつけ、突然命じた:「賈俑、出よ」
「承知」賈俑が進み出た。
大柄で肥満、巨きな腹を突き出した体躯は、見るからに頑強だ。
防御型蛊师で、本命蛊は水甲蛊。二転の実力、水戦を得意とする。ある時、河を泳いでいると小舟ほどの巨きな亀に遭遇、これを討ち倒し龟力蛊を鹵獲。使い込んで永久に一龟の力を増加させていた。
賈俑が近づくのを見て、猿の群れの雄叫びが急に大きくなり、音波が山林を揺るがした。
賈俑は顔中緊迫の色を浮かべ、袖をまくり上げて猴王の前に立った。
猴王は体躯が巨大で、座ったままで俑より一頭分高い。
猴王は賈俑を一瞥し、一声吠えると、即座に何頭かの匪猴が石卓を担ぎ、「フンフン」と呻きながら運んできた。
石卓はベッドのように巨大で極めて重厚、地面に置かれた時には鈍い音を立てた。
さらに二頭の匪猴が石凳を運んできた。すべて猴王の前に配置されると、猴王は石卓を「ドンドン」と太鼓を擂るように叩いた。
賈俑は唾を飲み込み、腰を下ろすと右腕を伸ばし、肘を卓面に載せた。
猴王も右腕を伸ばし、両手が堅く握られた。
傍らの雌匪猴が突然、鋭く叫んだ。
賈俑と猴王はこの合図を聞き、同時に爆発的な力を込め、この異色の勝負を開始した。
匪猴は力量を崇め、腕相撲は猿群最大の社交活動。仔猿は生まれるとすぐに腕相撲ができる。匪猴群において、これは単なる遊びではく、紛糾を解決する常套手段でもある。
当時、正道蛊师冠天侯は五転の実力しかなく、とても匪猴山の頂まで戦い登れぬ実力だった。彼は匪猴の習俗を利用し、ひたすら腕相撲を挑み続け、山頂の猴皇を降し、猿群の認めを得て盟約を結び、交易路を開いたのだ。
爾来、商隊が匪猴山を通過する際は、この盟約に従い匪猴と腕相撲を取る。
勝者には匪猴の承認が下り通行料免除が認められる。敗者は猿群に貨物の一部を無条件で差し出さねばならない。
こうして商隊は交易を続け、匪猴も利益を得て、この儀式を楽しみ継けている。
長年、商隊は盟約を遵守し、交易路は次第に繁栄し、協定も徐々(じょじょ)に固まった。
石卓の傍ら、賈俑は顔中真っ赤に、表情は歪み、全力を尽くしていた。
だが猴王の力には抗えず、腕が徐ろに片側へ傾き、ついにドンと音を立てて猴王の腕が賈俑を押し倒した。
勝ったぞ!
猴王は立ち上がり、両拳で嬉しそうに胸を叩いた。
猿群が歓声を上げ、その声勢は天を揺るがすほどだった。
賈俑はうつむいて退いた。戻る道の両側では、匪猴たちが嘲笑の限りを尽くした。皮の袴を捲り上げて赤い尻を晒し賈俑に向ける者、顔を歪める者、指を振る者もいた。
「畜生に嘲笑われる日が来ようとは…」賈俑は諦らめの溜息をつき、顔中苦笑いを浮かべた。
賈龍は無表情で後ろに手招きした。
賈家の隊列が前進を開始、猿どもが押し寄せ、開いた貨車から勝手に貨物を摘み取っていく。
賈家は小細工を仕掛けていた――上質炭の上に色鮮やかな絹と絹布を被せていたのだ。猿どもは色布に注意を奪われ、煤色で地味だが市場価値の高い上質炭には手を出さなかった。
猿の群れは思う存分に遊び狂い、多くの猿が布を腕に巻きつけ、腰に巻き、背中に羽織り、場面は騒然としていた。
「賈平はどこだ?」賈龍が低く呼んだ。
賈平がのっそり現れた。彼は賈俑と著しい対照を成しており、骨と皮ばかりで、風に飛ばされそうな弱々(よわよわ)しさだった。
「仇は討ってやる」賈俑の傍らを通り過ぎるとき、さりげなく彼の肩を叩いた。
「賈平兄がお出ましなら、当然お手の物」賈俑は拳を握り挨拶し、乾いた笑いを漏らした。賈家の者たちは賈平の登場を見て安堵の吐息をつき、安心した表情を浮かべた。
賈平の到着を見た猿の群れは奇声を発し、軽蔑と嘲りの意に満ちていた。
猴王は座り直し、何でもなさそうに酒壜を持ち上げ、猿の酒を一口含んだ。
「所詮畜生め、見た目で人を判断する」賈龍は冷笑した。
賈平は見かけは痩せ弱げだが、実は双熊の力を有す。ただ盤筋蛊を使用しており、全身の筋肉と筋が絡み合い樹根が蟠る如くなっており、こんがりと鍛えられた体躯となっている。
賈平は座り、手を差し出した。
その手は猴王の前足の四分の一にも満たない。しかし力を込めると、僅かな膠着状態を経て、猴王を組み伏せた。
瞬時、猿群の雄叫びが渋る。
猴王は目を見開き、信じ難い面持ちを露わにした。
賈龍は軽く笑い、手を振って隊列に前進を促した。
道を塞でいた猿どもは自ずと道を譲り、手を出すことはなかった。賈家隊の半分弱が通る頃、猿群が再び叫び路を閉塞した。
猴王は石卓をポンポン叩き、魔が差したように賈平に挑戦を申し込んだ。
賈平は微笑みを絶やさず、再たび勝利を収めた。
「諸君、我先に失礼する」賈龍は拳を拱いて別れを告げると、賈家隊全員がこの関門を突破した。
「さて、次は我が林家の番だ。林動!」林家副首領が喝を入れた。
他の者は争わず、商隊内部では既に順番を定めている。
刻一刻と時は流れ、商隊は区間を刻むように前進する。
匪猴山を渡り切り、損失を最小限に抑えるため、各大家族は特に数多の蛊师を育成した。
牛力、虎力、象力、蟒力、馬力……蛊师たちが次々(つぎつぎ)に登場し、各々(おのおの)腕前を披露した。勝ち負けは様々(さまざま)だった。
多くの者が関門を通過し、遂に張家隊の番となった。
張柱の表情は険しい。彼は治療特化型蛊师で、力比べは得意ではない。
何より猴王との腕相撲は己の筋力のみで戦わねばならず、蛊虫を使えば即ち不正行為と見做され、猿群の総攻撃を招く。
張家のこの商隊には、三転の彼以外蛊师はおらず、隊列の中では最弱レベルだった。
商心慈は張家で思うように過ごせず、庶子として排斥され続けてきた。特に母が病没してからは状況が一層悪化した。
母の遺言に従い、商心慈は家産を売り払い、この商隊を組織した。
張家の多くは「一族の恥」の厄介払いを望み、むしろ外で死ねば良い(よい)とすら思っていた。故に支援の蛊师を派遣することもなかった。
「張柱叔父さん、気に病み過ぎないで。所詮貨物に過ぎませんから。人さえ無事ならそれで十分」商心慈は気配りが細やかで、張柱の険しい表情を察し、優しく慰めた。
「遂に張家だけが残ったな」
「ふんふん、見るまでもなく負けは決まっている。あの張柱なら良く知っている」
「張家の隊商は、噂では張家の娘が自ら組織したとか。だから張柱一人を看板にしているだけだ」
多くの蛊师が関門の後ろに立ち、見物気分で張家隊を眺めていた。
彼らは多かれ少なかれ貨物を失い、当然気分は良くなかった。
人はより不幸な者を見て安堵するものだ。不運な者ほど、自分より惨めな者を見つけると気が楽になる。
多くの視線が張家隊に注がれ、心の慰めを求めていた。
「貨物は所詮死物、人命こそ大切。張柱叔父さん、無理に挑まなくて良い(よい)。猿どもに貨物を取らせれば良い(よい)」商心慈が言った。
「ああ、お嬢様はご存じないでしょうが…挑まねば通せぬのです。猿どもは融通が利かず、必ず腕相撲をせねばならぬ。負けても意地は見せねば。他の者に侮られてなるものか!行って参る!」張柱は拳を拱き、覚悟を決めて進み出ようとした。
「待て!」その時、方源が人の群れから飛び出してきた。
「張お嬢様、命の恩を受けました。この度は私に任せてください」方源は拳を拱いて請うた。
「あんたが?」侍女小蝶は白目を剥いた。「今は冗談を言ってる場合じゃないわ!蛊师でもないくせに、邪魔しないで頂戴!」
商心慈も微かに笑みながら諭した:「黒土、お気持ちは嬉しいわ。でもこれは遊びじゃないの。猴王の力は桁外れよ。先の蛊师たちが骨折したのを見なかった?」
「お嬢様、たとえ骨が折れようと恩返しは致します」方源は固く主張した。
「本当に身の程知らずね!骨折れたら結局姫様が治療する羽目になるんだから」小蝶は嫌そうに手を振った。「いい加減にしなさいよ!」
「お嬢様はご存じないでしょうが、小さい頃から常人を超える力がございました。子供の頃に大人を凌いでいたのです。必ず行かねば!」そう言い終えると、方源は背を向け猴王へ歩き出した。
「黒土!」商心慈が遮ろうとしたが、張柱に阻まれた。
「お嬢様、彼は愚か者ではございませぬ。立ち上がった以上、何か拠り所がある故でございましょう。時には人を信じることも必要で」張柱は諭すように言った。
実のところ、彼は方源に全く自信がなかった。ただ、面倒を引き起こした凡人を懲らしめる好機だと思っただけである。
「おや、見ろよ!張家が家僕を出したぞ!」
「ははっ、張家は人おらず、恥を晒す為に家僕を出したのか?」
方源の姿は瞬く間に他の者の注意を引いた。