ウォッ!
山林の中、一匹の肥硕した黑熊が、立ち上がると足り二米の高さに達した。
それ(※)が方源と白凝冰に向かって咆哮したが、二人は微動だにしない。
黑熊は怒り狂い、四肢を地に着けて、二人の少年に向かって飛奔して来。
熊の様子が鈍重そうだとはいえ、事実、それらの奔走速度は相当に速い。通常は人類の二倍だ。
黑熊が自分との距離が五十歩程にまで近づいて来たのを目の当たりにしながら、方源の口元には企みが成功した笑みが露わになった。
ドカン。
一声の炸裂音、泥が飛び散る。
黑熊は悲鳴を上げ、頭を鈍器で殴られたかのように、突進が即座に止められた。
理解不能な攻撃に怒り狂い、方向を素早く変えて再び方源へ突っ込んだ。
だが十歩も走らない内に、今度は地面が爆発。
ゲオッ!
胸腹を血のりでべっとり炸裂させられた黑熊は、目を真っ赤に輝かせ、極限の怒りを抱いて襲いかかる。
「獣は所詮獣か、知恵が足りん」方源は悠々(ゆうゆう)と嘆き、後退した。
黒熊は後ろから粘り強く追撃するが、数歩進む毎に爆発が起こる。
さらに数十歩突進すると、黒熊は全身傷だらけ、毛皮に無事な部分は一切もない。四肢も不自由で、足を引きずり、最初の猛々(たけだけ)しい姿は見る影もない。
怒りは褪せ、生き延びようとする本能が優位に立った。
二十歩と離れていない眼前に方源が立っているにも関わらず、撤退を選んだ。
だが方源は既に撤退経路を読み、道に深穴を掘り、少なくとも五個の焦雷土豆蛊を埋めてあった。
ドッガーン!
大音響と共に戦闘は終結した。
その時、天幕の中で一筋の煙気が沈降と浮遊を繰り返している。
煙の中に映る映像は、方源の戦闘の全過程を実況同じく映し出していた。
「陌行家老、如何思し召す?」戦闘の終結を見届け、百家当主が声を発げた。
天幕の中には彼女と百陌行の二人のみ。
「見間違えていなければ、この古月家の若頭が使ったのは焦雷土豆蛊では? この蛊は一回限りの消耗品で、地面に埋めて地力を吸い成長し、衝撃を受けると爆発する。二転蛊虫の中では強力な部類だ。だが白骨山では大幅に効果が削がれる。白骨山に土などない。山肌すら骨で埋め尽くされているのだから」百陌行は分析を続けた。
百家族長は微かに首を振る:「分析は的を射ているが、私の着眼点はそこではなかった。焦雷土豆蛊の埋設から戦闘終結まで、全て(すべて)方正一人で完遂させた点に気が付いたか?三転の護衛が側にいるにも関わらず、自身の二転真元を削りながら苦戦して埋設し、その度に元石で真元を回復している。それでも尚自力に拘った。これは何を物語るのか?」
百陌行の双瞳が微かに輝く:「老朽にも解りました。この方正という若者は人格者で、小賢しい輩では決してない。狩猟参加を承諾した以上、面倒であろうと労力が要ろうと、外力を用いてまで不正を働くことを良しとしない証左でござろう」
「小賢しい輩は往々(おうおう)にして意志薄弱なものだ。だが真を貫く者は決然たる覚悟を持つ。元泉の在処を二人から聞き出す上での最良策は、遠回しの探りを入れ、知略で制することだ。ふっふっ、昨夜立案した計画に対し、一層自信が深まったよ」と百家族長は笑った。
……
「かしこまって、お役を果たしました」半柱の線香が燃える頃、方源は擦り切れた熊革を百家族長の前に差し出した。
「ほう…、短期の内に成獣の黒熊を仕留めるとは、流石古月家の若頭領」族長は微かに眉を上げつつも、程良く驚いた様子を見せて即座に笑顔に戻った。
「一休みなされ。青銅舍利蛊は直ぐに届けよう」
「厚情感謝いたします。お疲れでござる」方源は礼を述べて退いた。
方源と白凝冰は中央の大天幕を退き、昨夜の宿舎へ戻った。
片刻も経たぬ内に、蛊師が青銅舍利蛊を届けた。
方源はそれを受け取るや即座に天幕内で使用し、修為を中級階層から高級階層へ昇格させた。
蛊師の境域において、小境の突破は容易であり、不断の鍛錬で到達できる。しかし大境に至っては資質の支えが必要となる。
舍利蛊や石窍蛊など数多の蛊虫は、水練の時間を割愛し、短期間で修為を躍進させる能力を持つ。
とはいえ、一転高階層など所詮一転に過ぎぬ。この僅かな向上が、今の局面に何ら変革をもたらし得るはずもなかった。
夜になると、百家族長は再び大天幕にて宴を設け、方源と白凝冰を招待した。
百家の寨には伝統があり、狩猟大比の期間中は毎夜焚火の宴が催される。巨大な焚火宴は野営地で露天開催されるが、中央天幕の小宴は上位入賞者のみを招く。
古月家の少主と三転護衛という異なる身分の二人は、相変わらず上席の賓客である。
「さあ、我が部族の若武者の星を紹介しよう。若者同士、親しく交わっておくれ」宴も中盤、百陌行が話の端を発した。
中央大天幕に座っているのは、四人の若者。
男二人と女二人、例外なく全員三転修為を有する。
そのうちの男一人は百陌行の甥で、百陌亭と名乗る。痩身の体躯が特徴で、初日狩猟後の第三位だった。
女たちは一人が百草率という名で、容姿は文字通りの「ぞんざい」さながら第四位の実力者。もう一人は百蓮といい、清麗な容貌に白く透き通る肌、豊潤な睫が特徴的で、清潔感に満ちた雰囲気を持つ百家公認の族花。両女が並んで座る様は鮮烈な対照を成していた。
「百戦猟、両貴賓にお目にかかります」最後の青年男蛊師が自ら口を開き、百陌行の話を遮った。
筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)の体躯に傲岸な気配を漂わせ、闘志が湯気立つかのようだ。その目は方源と白凝冰を掃視し、まず方源の上で一旦停まると、薄い笑みを浮かべて見下ろすように流した。しかしその視線は白凝冰に釘付けになる。
白凝冰は雪の仙子の如く、銀髪に青い瞳。その容姿は百蓮を一髪分凌いでいる。更に決定的なのは、彼女が三転頂点の修為であること。それが百戦猟の興味を強く惹いていた。
フンッと鼻を鳴らした:「どうやら君たち古月一族では、陰盛陽衰とやらか?」
白凝冰は氷のような表情を微にも崩さず。
一方の方源は冷ややかな顔色となり、明らかに不快感を浮かべた。
百家族長が宥めるように:「こちらは我が族の若手随一の強者。言葉遣いが無礼でも、どうか大目に見ておくれ」
「とんでもない」方源は口元を歪めつつ、女族長に向き直った。「戦猎兄こそ人中の竜虎、方正、敬服いたします」
彼の声には複雑な情感が込められていた。
寄われる身としての忍耐、自らの弱さへの無念、それでいて拗ねた若者の矜持。完璧な演技だった。
白凝冰すら思わず視線をそらしたほどに。
百戦猟は冷ややかに鼻を鳴らしたが、方源の胸中では嘲笑が渦巻いていた。
百家の苦境は痛いほど分かっている。しかし相手は己の実像を知らぬ。局面は不利であれ、方源は確固たる情報優位を握っているのだ。
「この優位性をどう活かすかが脱出の鍵だ。青銅舍利蛊は吉兆――存在しない古月の大部隊を百家が警戒している証しだ。力攻めを避け、謀略で欺そうとしている。この百戦猟が次の一手なのか?」
「言葉遣いが露骨すぎはせぬか」
「もし彼が本当に次の駒なら厄介だ。むしろ自ら“弱み”を晒し、偽の“弱点”を差し出してやろう…」
相手に自由自在に罠を仕掛けさせるよりは、
自ら“柄”を授け、逆に主導権を奪い返すのだ。
ふと方源が天幕内を見渡し、閃いた。
向かいの百蓮に目をやる。
じっと見詰める時間が長くなるにつれ、百蓮がその視線を感じ取ったか、方源はサッと目を逸らした。
宴が進むにつれ、方源は折に触れて百蓮を盗み見しつつ、しかし決して視線を合わせようとしない。
宴も後半に差し掛かると、頻度は増す一方だった。
百家族長と何人かの家老の瞳に、この情景が焼き付けられた。
家老たちの眼差しには思惑めいた笑みが浮かんでいた。
「少年の慕情こそ人の常、百蓮は我が族の花、古月の若頭領が魅了されるのも当たり前」
宴が終わりを告げると、百陌行は足早に族長を訪れた:「あの一幕、ご覧になりましたか?」
百家族長は口元に笑みを浮かべ頷いた:「いま一つ策を練ろう」
狩猟大会二日目、百家族長は再び方源を召し、地角犀の狩猟を命じた。
方源は焦雷土豆蛊を用いた前回と同じ戦法で犀を爆破し、角を持ち帰った。
族長は賞賛の言葉を述べた後、清熱蛊を褒美として授けた。
清熱蛊は甲虫の化石を思わす半透明の玉石質。掌に握れば、清涼の気が漂う。
毒解け専用の二转治療蛊である。
方源はようやく最大の弱点を補う手を得たのだ。
その晩の焚火宴にて。
「こちらが拙者の息子、娘でござる。百生、百花、立ってお酌申し上げよ」と百家族長が告げる。
一卵性双生児の兄妹が小さな体で杯を掲げ、声を合わせて言上した。
「百生「百花」、古月若頭領へお酒を」
微かに一礼、その厳かで良く躾けられた振る舞いは、子供らしい無邪気さの欠片も見せない。
方源は僅かに呆気に取られ、思わず二人の兄妹を仔細に見詰めた。
前世の記憶に沿えば、眼前の幼い双子は正道の双星として、一時期世を風靡する存在となる。遂には共に五転の境に至り、百家寨を史上未到の高みに押し上げるのだ。
同時に彼らは白骨山継承者でもある。百生は未来の百家族長となる。
族長の座は通常、親の血を引く子息に継承される。古月山寨の如く、当主に実子が居ない場合は、純血の後継者候補から選抜される。
人は成長の途上にある。百生・百花の双子は未来、一方の雄傑と化るかも知れぬ。だが今この両人は、学員ですらない程幼い。
方源は視線を引き剥がすと、再び百蓮へ焦点を移した。
宴は続く。
その間、方源は繰り返し百蓮を盗み見る。
百戦猟は小突っ込みを入れ、口調が次第に露骨になる。
一方、百陌行の甥である百陌亭は、白凝冰を盗み見ていた。