時は半刻ほど流れたか。
熔岩鰐王が最後の悲鳴を挙げ、声は途絶えた。
程なくして軒轅神鶏が肉をついばむ音が方源と白凝冰の耳に届く。
だが神鶏の食欲は旺盛で、熔岩鰐王一頭では明らかに足りない。
この夜、二人は一睡もできなかった。
鰐王の絶叫の後、白猿の哀しげな啼き声、毒吞蛙の驚いた鳴き声、蜂群のブンブンという煩わしい羽音——
何より強く響いたのは、軒轅神鶏の透き通る鶏鳴だった。
夜明け時分、軒轅神鶏は天へ舞い上がり飛び去った。
空には七色に輝く飛行光跡が弧を描いている。
その光跡の尾が空に完全に消えるのを確認して初めて、二人は洞窟から出た。
二人が元の谷に到着する。
谷間は見違えるほどに変貌し、半分以上が崩落していた。
熔岩鰐王は腹を天に向けて仰向けに倒れ、完全に息絶えている。
腹は軒轅神鶏に啄み破られ、内臓も肉も食い尽くされていた。
残されていたのは、無残な骨格で形を保つ暗赤色の鰐皮だけだ。
二人が周囲を探し回る。
程なくして赤い瑠璃の断片を次々(つぎつぎ)に発見した——これが炎胄蛊の残骸である。
全く以て明らかだった:熔岩鰐王が炎胄蛊で防御したものの、軒轅神鶏に強引に打ち破られたため、蛊が破滅したのだ。
他の熔岩炸裂蛊と積灰蛊は、何処を探しても跡形もなく消え失せていた。
別に不思議なことでもない。
宿主が死亡すると、野獣に寄生していた蛊虫は家を失った如く、自発的に離脱して再び彷徨うのだ。
積灰蛊は理想的な治療蛊で、現在の方源の状況に最適だ。
然しながら世事は思惑通り(どおり)に運ばぬこと十中八九である。
積灰蛊を入手できなかったのは、方源の予想内だった。だが二人も全くの無駄骨を折った訳ではない。
熔岩鰐王の死骸に、辛うじて血肉が残存していたのだ。
軒轅神鶏は主な部位を食べ尽くしたものの、残った冷えた残飯汁を方源と白凝冰に委ねたのだ。
二人は午前中かけて鱷肉を切り刻み、兜率花に収納めた。
「これだけの鱷肉で、鱷力蛊を三ヶ月は養えるぞ」
「他の場所も見回ろう」
白猿群の縄張りに到達した。
かつて茂った樹林では白猿たちが賑やかに戯れていたが、
今や折れた巨木が累々(るいるい)と横倒れ、猿の切断された手足や残骸が散在する。
老いた猿や子猿が、親族の遺骸の側にうずくまり、しゃくりあげる泣き声を漏らしている。
森全体に悲しみと凄惨な気配が漂っていた。
軒轅神鶏が昨夜、数千規模の白猿群に壊滅的な打撃を与えた。今や二三百頭に激減し、数頭の百獣王級の白猿が辛じて生存しているが、各々(おのおの)傷を負っている。
白凝冰の瞳が爛々(らんらん)と光る:「今こそ白猿群が最弱体だ。仕掛けるか?」
しかし方源は彼女を制止した。
猿たちへの憐憫からではなく——ある意味で現状の白猿群が却って危険度を増していると看破したからだ。
「悲憤の兵は必ず勝つ」方源は低音で警告する。「手出すな。刺激すれば狂暴化し、我々(われわれ)を死なせるまで決して退かない」
「例え傷負いの百獣王でも、単独で対抗できる相手ではない」
白凝冰は方源を一瞥し、最終的に襲撃を断念した。
二人は更に南西方面の腐敗沼沢へと足を運んだ。
沼は見る影もなく変わり果て、軒轅神鶏に底からひっくり返されていた。
生息環境が壊滅的に破壊された結果、沼沢の勢力図が一変する。神鶏は飛び去ったが、沼は不穏なままだ——各種の毒物が殺し合い、走り回っている。
方源と白凝冰が沼縁に立ってほんの一息つく間に、すでに三つもの争いを遠くから見届けていた。
一場目は彩り鮮やかな二匹の毒蛇の死闘。遂に一方が他方を飲み込んだが、直後に蟹大の蠍が現れ、毒針で貫いた。
二場目は毒粉蛾と紺青の蝦蟇の対決。戦闘は突然勃発し、蝦蟇が長舌を伸縮させて蛾を丸呑み。然し片時も経たず、蛾は腹中で窒息死、蝦蟇も毒粉を吸い込んで絶命した。
三場目は洗面器大の黒蜘蛛が泥沼からもがき出す。胴体には蟻が群がり、瞬く間に蟻軍団が勝利、蜘蛛を現地でがつがつと食い尽くした。
この混乱した光景を目にした方源たちは踵を返す。
最後に狂針蜂の巣へ到着した。
元々(もともと)家屋大だった蜂巣は完全に崩壊。周辺はひっそりとして、一匹の蜂も残っていなかった。
二人が近づくと――
直ちに胡麻粒の如き芳香が、白凝冰の鼻腔に漂ってきた。小鼻をうごめかせて問う:「何の匂いだ?」
「蜂巣そのものの香りだ」方源は即答しつつ、内部の巣板を折り取る。
カリッ。
暗黄色の破片を、彼女の好奇心に満ちた眼差しの前で口に放り込む。噛み砕き、咀嚼し、さっと飲み下した。
蜂巣の味は地球上のビスケットを思い起させる。香ばしくてサクサクしている。
しかし間違いなく、この天然の食物はビスケットより遙かに美味しい。ほのかな甘みを含みつつ、油っこさは全くなく、むしろ清涼感すら覚える。
「うん、悪くない!」白凝冰も破片を摘み、口に放れると、瞬く間に口内に唾液が溢れ、甘美な味覚で常に皺の寄った眉根が思わず緩んだ。
「塩漬肉や干しパンも底をつきそうだ。君の兜率花に蜂巣を収納めたらどうか?」白凝冰が提案する。
方源が空を見上げ、一抹の憂色を浮かべて言った:「同考だ。だが急がねばならん」
「君は熔岩鰐王や白猿の死骸の血生臭さが、他の猛獣を呼び寄せるのを警戒しているんだろう」
白凝冰は軽く笑った:「安心しろ。風もない今日なら、獣を惹き付けるにしても時間がかかる。それまで存分に遊べる」
方源が首を振り、まさに口を開こうとしたその瞬間、不意に顔色が変わる。
ブーン...
蜂群の急飛行の音が二人の耳に届く。
白凝冰が音源を追って空を振り返ると、無数の狂針蜂が渦巻く黒雲となって、容赦なく二人に襲い掛かっていた!
軒轅神鶏が蜂巣の中心部を食い荒らしたとはいえ、狂針蜂自体はほとんど減っていなかったのだ。
狂針蜂の針が軒轅神鶏に危害を加えるのは難しく、満腹した後者も体力を費やしてまで、取るに足らない小物を殲滅しなかった。
巣窟を破壊された狂針蜂群は知能が低いため、執拗に軒轅神鶏を追跡した。
だが神鶏が高空へ舞上がると、彼女らには届かず、追い切れなくなって巣へ戻り、再建にかかろうとしていた。
そして目にしたのは、自分達の住処に立ち、巣を食っている二人の若者だった。
この状況で、尚更躊躇の余地があろうか?
先の軒轅神鶏へ向けた怒りが完全に方源たちへ転嫁された。
瞬時に無数の狂針蜂が羽を震わせ、黒雨の如く降り注いで来る!
白凝冰が一瞬呆然とする。
「逃げろ!」方源が踵を返し、全速力で駆け出した。
その声で我に返った彼女も方源を追って走り出す。
背後では狂針蜂群が執拗に追跡してくる。
先頭を走る方源、僅かに遅れる白凝冰——移動蛊虫を持たない彼女は、瞬く間に蜂群に追い付かれた。
ドッ、ドッ、ドッ!
白凝冰が天蓬蛊を展開、白亜の虚甲が波打つように揺らめいた。瞬時く間に千撃を超える攻撃を受けた。
狂針蜂の針は鋼鉄の如く硬度が高く。加えて高速飛行による突撃は、矢雨の攻勢に引けを取らない。
圧倒的な数量が質的変化を起こした。
白凝冰の真元海が激しく沸騰し、消耗速度が増大していく。蜂群の攻撃は到底軽視などできない!
更に厄介なのは——群の中に三転蛊に進化した個体が潜んでいたことだ。
三転の狂針蜂蛊は貫通能力を有し、天蓬蛊すら防ぎ切れない。白凝冰の背中は瞬く間に血濡れの洞穴が穿たれ、痛みに呻き声を漏らす。しかしこの痛覚刺激が彼女の速度を加速させ、常時の限界を突破した!
白凝冰は足でこれほど疾走できるとは夢想だにしなかった。
山石や樹木が彼女に襲いかかるように感じられる。全精神と注意力を振り絞り、僅かな躓きも許せない——転倒すれば、背後の蜂群が即座に群がり包むだろう。
群れ攻めに遭えば、必ず命はない!
白凝冰が背後盾となったことで、方源の状況は圧倒的に良好だった。
真元を背中の背甲蛊へ注ぎ込む。
背部皮膚が即座に隆起し、厚硬な鰐革の甲殻へ変貌——ゴツゴツとした質感が陽光を跳ね返す。
凡蜂の針攻撃はこの鰐甲に命中しても、概ね無駄骨に終わる。
数少ない蛊化蜂たちは、全員白凝冰の方へ集中攻撃を続けていた。
更に半刻逃げ続けるも、狂針蜂群の追跡は一向に衰えない。
方源も白凝冰も荒い息を切らし、速度が落ち始めていた。
「助かった! 前方に湖だ!」
状況が最悪に緊迫する刹那、方源が叫んだ。
白凝冰も狂喜した。
樹木が徐々(じょじょ)に疎らになり、碧色の中に青白い水影が混じり、次第にその面積を増していく。
二人が森を駆け抜けると、視界に湖水が飛び込んでくる。
方源は躊躇せず、ドボンと湖へ飛び込んだ!
白凝冰も続いて同様に水に飛び込む。
ビュンビュンビュン!
狂針蜂が執念深く二人を標的と見定め、何と水面へも突入してきた!
白凝冰の白甲が激しく振動する——叩きつけるような衝撃が水流を伝わり、瞬時に大量の攻撃を受けた。
激痛が脊髄を走ると、唇を食いしばり、両手で必死に水を掻いて深層へ潜行する。
やがて、方源と白凝冰は別の岸辺に這い上がった。
全身の蜂巣の匂いは完全に洗い流されている。振り返れば、なおも大量の狂針蜂が諦めきれぬ様子で旋回し、時折水面を啄いて攻撃する姿があった。
狂針蜂は小柄ながら驚異的な生存力の持主で——仮に一時的に湖中に落ちても、深く潜らなければ水面へ再浮上できるのだ。
「くそったれ…」白凝冰が呻くように呟き、胸中には恐怖の余韻が渦巻いていた。彼女の顔色は著しく蒼白だ。
軒轅神鶏であれ、白猿群であれ、狂針蜂群であれ——すべて彼女の手には余る脅威だった。
もし昨夜神鶏に見つかっていれば、間違いなく腹中の餌食となっていただろう。
三転の修為など、この苛酷な自然の中では底辺の存在に過ぎないのだ。
「もう充分だ。いったいいつになったら白骨山に辿り着けるんだ…?」
「シーッ…静かに!」方源が緊張した面持で制した。腰を落として岸辺の焚火跡を人差指で示す。
白凝冰の眉間に深い皺が刻まれた——
間違いなく、人為の痕跡だった。