「鋸歯金蜈……」白凝冰は青白き細手を伸ばし、三転蛊の暗金の甲羅を撫でるように摺りつつ、複雑な表情で呟いた。
彼女は方源との死闘で、この鋸歯金蜈に散々(さんざん)痛い目を見わされた。まさか方源自ら貸してくれる日が来るとは。
方源の鋸歯金蜈操作は鮮烈に脳裏に焼き付いていた。
白凝冰は瓜二つに再現し、鋸歯金蜈を大剣のように振り回す。
時折念を走らせれば、蜈蚣の胴体が鞭のように伸縮し、銀縁の鋸歯がキンキンと旋回——空中に歪にくねる光の帯が刻まれた。
「天蓬蛊!」彼女は蛊虫を空窍に収容し、眉を跳ね上げながら白银真元を注ぐ——瞬時くに全身に白光虚甲が立ち上った。
「運命とは不可思議なものだ…お前の蛊を操る日が来るとはな」方源を仰ぎ見て吐息をついた。
方源は黙り、温かな炭石の傍らに坐り込み、目を閉じる。
意識を空窍に集中すると——甲等资质の満たされた真元海が拡がっていた。
九割!
元は四割少しだったのに、今は倍以上に膨らんでいる。
「実力が三转から一转に落ち、数年の苦修が水泡に帰したが…それこそが報われた証だ!」方源は深い満足感に包まれた。
歴代の蛊師修行は、三大重点がある。
一に资质、二に资源、三に蛊虫。
この三要素は不可欠にして、重中の重み!
元の方源は丙等の资质であり、資源と蛊虫を駆使してありとあらゆる手段でその短所を補ってきた。青茅山での数年は苦難の道だった。修行が順調に見えても、それは彼が思慮を尽くし、模索と冒険の結果に過ぎない。
仮にあの時甲等の资质を持っていたなら、人生はまったく別の栄光の道を歩み、とっくに三转に達していただろう。
「造化は皮肉なものだ……今の俺には甲等资质がある。だが山塞の安定的な環境は消えた。資源と蛊虫の両面で、以前に及ばない」
流浪中の方源は実力が弱すぎ、生死が常時脅かされる状況だ。青茅山の安逸な日々(ひび)とは比べものにならない。交易路など当然存在せず、物資流通も絶えたままだ。
「幸い天元宝蓮がある。資源面の最難関は解決した——少なくとも三转までは心配無用だ」
念を走らせると、九割の青銅真元海の底に一輪の藍白の蓮が根を下ろしている。花弁は豊かに膨らみ、聖なる仙気に満ちていた。
この天元宝莲は三転蛊であり、発展潜力の巨大さでは比類がない。これを煉化するために、古月一族の基盤となる元泉は廃された。
それは移動可能な超小型元泉と言え、当時方源が三转時には乙等の回復速度にも匹敵する真元再生能力をもたらした。
三转時は白银真元。今の一转初阶では青铜真元だが、天元宝莲が空窍に存在するお陰で、その真元回復速度は常人離れた水準に達している
「俺が一転の蛊を使えば真元は驚異的に回復し、ほとんど無限と言える。二転蛊一~二匹(いち~にひき)なら真元海の水位が下がっても、使い続けるほど回復するので海面は安定する。だが三転蛊だと真元が激減し、回復を完全に上回る。一瞬たりとも支えられずに干からびてしまう」方源が心中で計算した。
畢竟青銅真元の翡翠色――低次元の未熟な力に過ぎなかった。
天元宝蓮以外に、方源は数匹の蛊を所有する。
まずは本命蛊の春秋蝉。
この六転蛊は天下奇物榜第七位。本命となった以上、空窍の外には出せぬ。今は竅内の中心に泰然と構える。
再重生を経て、かつての威光は消え黄緑の強光も跡形なく。輝きを失い、衰弱の極みにあった。
蝉は虚空に溶けるように姿を隠す。刻の流れに従い、冥河の水を吸い上げて、静かに天の御許へ還る時を待つ。
「短きの内に春秋蝉を使うのは不可能だな」方源は悟った。「衰微したこの状態で使えば、光陰の河に飲み込まれ、爆散して死を招くだろう」
春秋蝉の威圧が消えると、他の蛊虫たちが本性を現わした。
二転蛊の四味酒虫は丸々(まるまる)とした体に四色の輝きを順番に点滅。嵩高く盛り上がる真元海でじゃぶじゃぶ水遊びに興じる。
鯉魚化石のような隠鱗蛊は海底に静かに横たわり、真元の水が鱗を洗うのに任せていた。
頭部に鉄製の鋏を持つ漆黒の甲虫――強纏蛊が、海上をひらひら飛び回る。
その傍らで戯れ飛ぶのは、陰陽轉身蛊の片割れである白甲の陽蛊だった。
四転の血髄蛊も海底の深みに沈み、時折猩々(しょうじょう)とした血光を表面にちらつかせる。
その他の蛊虫では、血月蛊が紅の月牙痕と化わって方源の掌中に潜む。地聴肉耳草は彼の耳の一つとなり、普段は目立たない。兜率花は舌苔に宿る。
天蓬蛊と鋸歯金蜈は先程白凝冰に貸した。
数え上げれば、方源の手元には計えて十二匹の蛊虫が存在する。
多過ぎる数だ!
一般に、低階の蛊師が二~三匹(に~さんびき)の蛊を持つのは常態。四~五转(よん~ごてん)に至っても四~五匹(よん~ごひき)程度だ。高名なる神捕・铁血冷でさえ、蛊は七匹前後に過ぎぬ。
古月一代や天鶴上人が例外なのは、彼等が数百年もの蓄積を有する老怪物だからだ。
方源が持つ蛊虫の数は、普通の蛊师の三倍から四倍に及ぶ。数が多すぎれば、蛊师に重い経済的負担と維持労力を強いる。
これらは方源が厳選した飼育しやすい蛊だが、兜率花の収納量には限界があり、依然として負担となっていた。
真っ先に問題となるのは四味酒虫だ。美食の酒を要求し、兜率花の貯蔵酒は半年分しか持たない。
「この半年の内に新しい酒を探すか、**四味酒虫を逆炼で酒虫に戻さねばならん」
次に問題なのは強纏蛊だ。
強纏蛊の餌は探すのが難しく、兜率花の在庫も少なく、五ヶ月分しか持たない。
次に地聴肉耳草。
人参の髭を食うこの蛊には、兜率花内に豊富な蓄えがあり、一年近く維持可能だ。
血髄蛊と血月蛊は血を要求し、緻密な管理が必要となる。
陰陽轉身蛊は陰陽揃って初めて完全な太極光球となる。陰陽が転化し食べ物は不要だったが、今は陰蛊を欠き、陽蛊のみ残った。方源は一定間隔で蛊を解放し、空気中の陽気を吸収させねばならぬ。
陽蛊の飼育は極めて重要だ。陽蛊があって初めて白凝冰を抑えられる。この気楽な用心棒が生存を保障してくれるのだ。
それはつまり、方源が今後、洞窟や地下穴に安易に潜めないことを意味した。万一特殊な環境に閉じ込められ、陽気が枯れれば陽蛊は餓死する。その時、絶望的な白凝冰は方源の命を奪う死神と化すだろう。
今の方源は少し苦々(にがにが)しい立場にある。
持つ蛊虫の階層が高すぎる——三转、四转、そして六转まである。その実力は一转初阶に墜ちている。
上位蛊は負担となり、扱い難い。
何より致命的なのは——治療能力と機動力の欠如という二大の短所を抱えていることだ。
「今から手を打たねばならん。野蛊を集め、治療と移動の蛊を確保する。運良く適う蛊に巡り会えることを願うばかりだ。先程棱箭魚から逃れられたのは幸運だったが、運など常に味方するはずがない」
思考を整えた方源は微かに険しい面持ちで目を開いた。
視界に飛び込んできたのは、割れた卵殻を手にした白凝冰の姿だった。
「見ろ。鋸歯金蜈で砂を掘ったら、こいつが埋まっていたんだ。蛊が暴いて割れてしまった」
卵は洗面器ほどの大きさ。白い殻は粉々(こなごな)に砕け、卵黄はかすかに残るのみだ。
方源が割れた卵殻を一瞥した途端、顔色が強張った:「まずい…六足鰐の卵だ。ここはまさか奴等の産卵地なのか?」
素早く立ち上がり声を荒らげる:「今すぐ鋸歯金蜈で砂浜を探れ! どれだけ卵が埋まっているか確認しろ!」
白凝冰が指差す先の声は冷え切っていた:「手遅れだ…見ろ!」
方源が振り返ると——黄龍江の濁流に数百本の「枯れ木」が漂っている。
「枯れ木」は次々(つぎつぎ)と上陸し、その正体は全て(すべて)巨体の鰐だった。
甲羅は岩のように厚く、牙は鋭く輝き、六本の肢を持つ。無数の真紅の眼が白凝冰を射貫く。
六足鰐の群れ!
白凝冰は思わず手を離し、白い卵殻が砂の上に落ち粉々(こなごな)に砕けた。卵黄がどろりと流れ出す。
ガオォッ!
六足鰐が怒りの咆哮を挙げ、六本の足で砂を蹴りながら二人の少年目掛けて殺到した。
……
皑皑たる白雪の中、青茅山の古月山寨跡地。
雪原に佇む集団は、蒼白の世界に打たれた鉄釘のように凝然としていた。
「父上……」鉄若男が雪に跪き、嗄れた声を絞る。両頬には凍える涙が伝っていた。
五六日前、鉄血冷が古月一代との死闘で臨終の際、最期まで娘の安否を案じ、山丘巨傀蛊と铁手擒拿蛊を飛翔させた。
山丘巨傀蛊は青銅の覆面となって鉄若男の顔を護り、铁手擒拿蛊は巨腕と化わり彼女を青茅山から遠ざけた。
後日、血狂蛊に汚染された二匹の蛊は血水に溶解した。
鉄若男は狂気の如く引き返したが、道中で獣群に包囲される。
危機一髪、鉄家の援軍が到着——鉄血冷が慎重にも事前に送った求援の書簡が功を奏したのだった。
援軍と共に再び踏んだ故地には、氷雪に封じられた死の山が広がり、父の姿は永遠に消えていた。
数日に渡る捜索の末、冷酷な現実を受け入れた。
神捕墜落——父の死は確かだった。
「父上(ちちうえぇ——!」鉄若男の叫びは傷付いた雁の哀鳴のごとく、凍る白銀の原を震わせた。