「そろそろ時間だ。もう待ってはいられない。」
夜はとっくに更け、暗闇の部屋の中で方源は目を開けた。
彼はすでに蛊師服を脱ぎ捨て、足元まで隠す漆黒の長袍に身を包んでいた。伸ばし続けた黒髪と相俟って、闇夜を歩くその姿は幽霊のごとくだった。
前世で既に長髪に慣れていた。一部の蛊は長髪が必須であり、黒鬢蛊や鋼鬚蛊などは髪があることで真価を発揮するのだ。
長髪は便利でもある——変装が必要な際は思い切って切り落とせばよい。しかし短髪から再成長させるには、蛊の力で短時間に伸ばす他ない。
少し前、彼は古月漠塵と協約を結んだ。今時点では生铁蛊と4万元石は分割で引き渡されてきたが、治療用の草蛊の苗だけは未だ入手できなかった。
「治癒蛊が無ければ、諦めるしかあるまい。どうして万事思い通り(おもいどお)に行けようか……現実は無念に満ちているからなあ…」
方源は嘆息し、立ち上がると、そっと部屋の扉を押し開いた。隠鱗蛊を発動させ、その場は闇夜に吸い込まれるように消えた。
これも形勢に迫られての行動だ。最早動かざるを得なかった。
鉄家の父娘の追及が日増しに苛烈となり、熊家寨への使者として派遣される計画も阻まれてしまった。
熊家寨の戦力は大半が温存されていたため、白家も古月家も過剰な圧力を掛けられず、賠償要求は闇に葬られた。かくして三家は三族大比武を協定するに至ったのだ。
漠脈が方源を招こうとした動きは、逆に彼を政争の渦中へ陥れ、他の家老たちの敵視を招いてしまった。
そこへさらに、死に近づくほど強大化する白凝冰が加わる。全局面が方源に不利に傾き、最早絶体絶命の窮地と化していた。
方源といえども、老獪な計算も自身の実力あってこそである。この状況に対し、最善をつくし、前世の同期を大きく上回る(うわまわる)目覚ましい進歩を見せているものの、三转初階の実力ではまだ不足であり、局面打開は困難極まりない。
「情勢傾斜に抗うには、険手に出るのみ──劇薬※1を投ずるだ!」
方源は思案に沈み、天元宝蓮に心を定めた。
この宝蓮を摘み取れば、地下溶洞の元泉は廃れる。家族は狂ったように調査するだろうが、調査以外に何ができるか?
元泉は既に廃泉となっており、仮に宝蓮を戻しても、破壊しても、元の状態に復元は不可能だ。
家族が生存を続けるために選べる道とは何か?
唯一の手段はただ一つ──新しい元泉の奪取である!
しかし青茅山の元泉は三筋のみで、各家が独占している。その内の一つを方源が毀せば、古月一族の面前に横たわる選択肢はただ一つ/二つの選択肢のみとなるだろう。
その選択こそ──戦争である。
二つの選択肢——第一が白家、第二が熊家である。
その内の一つの元泉を奪取してこそ、古月一族は存立基盤を確保できる。元泉なくして蛊師の修業など論外だ。
しかしこの挙は危険極まる!
方源もやむを得ずこの策を選んだ。蠱が回復の速度を増し、空窍は限界を超えて疲弊している。時間はほとんど残されていない──絶体絶命の中から反撃の一手を打ち、死線をかいくぐって一条の生路を掴み取るしかないのだ。
広間には灯火が灯された。
蛊師は留影存声蛊を取ってきたが、古月博はそれを掌中に収めたままだった。
「鉄神捕、先程の私の願いについて、いかがお考えでしょうか?」古月博は笑いながら言う。
鉄若男は軽く鼻を鳴らした。
鉄血冷はしばし沈思し、うなずいた。「よかろう。もし方源が真犯人だと判明しても、三族大比へ参加できる十分な時間は残してやる」
「父上…」鉄若男の目には困惑の色が走った。これは鉄血冷の風ではなかった。
「ははは。鉄神捕の一言は重く、約束は決して破らない。わしはあなたを信頼し、ご配慮に感謝する」古月博の笑みは一層温かくなったが、内心では冷ややかな嘲笑いを漏らしていた。
古月薬姫が鉄家父娘を密かに地下溶洞へ連れ込み、一族の正史を閲覧させた件――族長である彼が知らぬはずがない※1。
ただ大比が迫っていること、加えて一族内の政争も複雑であるため、動かずに耐え忍んでいただけだ。
鉄血冷が五転の強者であろうとも、その圧倒的な力は、古月博の心に渦巻く不満を消し去ることはできない。
「幸いにも真実の核心は一族秘史に記録されており、歴代族長のみが掌握するものだ。あの正史は所詮、外部への見せ贅に過ぎん※1」古月博は胸中で密かな得意を噛みしめた。
古月一族の史書は正史と秘史に分かれる。
正史は地下溶洞の密室に収蔵され、内容は後世の者によって粉飾と糊塗※2が施され、真偽入り混じって人目を欺くものだ。
一方秘史には、一片の虚偽も無い生々(なまなま)しい真実が記され、数多の公表不能の内聞さえも克明に記録されている。
例えばあの血滴子の召喚法など、正史には絶対に記載されておらず、秘史にのみ詳細が記録されているのだ。
「古月族長、父上は既にご要請をお引き受け(ひきうけ)になりました。今頃になって映像をご覧に入れるおつもりですか」
鉄若男の口調は冷ややかだった。
「鉄神捕がお断りでも、私は全力で捜査協力をしたでしょうがね」古月博は含み笑いを浮かべて一言添え、そっと留影存声蛊を摘み潰した。
蛊は砕けて七色の烟と化わり、雑多な噪音を伴った。
古月博が軽く息を吹きかけると、烟は壁へと漂い、吸込まれるように浸み込んでいった。
まるで墨が水に滲むように、白壁が次第に七色に染まり始める。
染み渡る領域は広がり続け、かつての開窍大典の光景が浮かび上がった。
映り込んだ中で、方正は直ぐに自分自身を見つけ、懐かしい顔も数多確認した。
未知の世界を見渡す彼ら(かれら)の眼差しは興奮に輝き、顔中に雛鳥のような稚さを満ちあふれている──巣立ちの羽搏きを始めたばかりの若者たちの姿だった。
「あれが方源か…」
同じく鉄若男も即座に方源の姿を捉えた。
隊列を進む方源は周囲を見渡してはいたが、その視線は平坦で冷徹だった。同世代の少年たちの中にいながら、まるで鶴が鶏の群れに立つが如し。ただし注意深く観察しなければ、この異質さに気づく者はまずいない。
しかし今、広間に集まる全員の視線が彼に集中しているため、その不自然さは隠しようもなかった。
「あの方源は……確かに奇怪だ」
古月博さえも、かすかな動揺を隠せない様子だった。
壁面の映像が切れ、少年たちは花畑へと移る。
開窍の刻――一人また一人と地下河川を渡り、対岸の花園へ足を踏み入れた。
希望蛊の光が揺らめいては消え、また輝き出す。
少年たちの息遣、家老のかすれた声すら鮮明に再現される。
当時の情景が再び現れ、まさに眼前に展開されているがごとくだった。
まず古月漠北が乙等の資質と測り出され、場は騒然となる。
追うように古月赤城も乙等と判定された。
「やはり怪しい。この古月赤城、緊張が不審なほど強く、体もこわばって尋常ではない。地下溶洞の薄暗さもあって目立たないが、よ(しろ)く観察すれば彼の体に何かが塗られ、希望蛊を誘引しているのが分かる。はっ、不正は明白だな」
鉄若男はこの場面で確信を固めた。
しかし彼女はすぐに眉を顰める。
方源が登場した。河を渡り対岸に上がる。
希望蛊の光はほのかなものだった。
「期待が大きいほど失望も深い」――少年たちと家老の落胆したため息が、その場に居る全員の耳に届く。
すべては一見正常そのものに思えたが、鉄若男の眉間の皺はさらに深まった。
方源の表情は終始平静だった。
当時、彼は家老や少年たちに背中を向けていたため、その真意を窺うことは不可能だった。
しかし今──鉄若男が傍観者として映像を観察していると、方源の表情が最初から最後まで無表情であることに気づいた。
微動だにしないその様子は、まるで……
まるであらかじめ結果を知っていたかのようだ!
「ありえない! 立場を換えて考えれば――もし私が15歳で衆望を背負いながら丙等と判定されれば、落胆も失望も悔しさも一片も感じないはずがない! なぜこんなことが? なぜ!」
鉄若男の眉は激しく歪み、溝のように深く刻まれた。
巨大な疑念が胸中を覆い、息さえ詰まるほどだった。
心臓は鼓動を高め続けている。電光石火のように思考が脳裏を駆け巡る。
一体なぜ?
どうしてこんなことに?
「待て…資質…まさか?!」鉄若男は顔を上げ、心臓が炸裂する感覚と共に、あまりにも大胆で狂気じみた推測が脳裏に浮かんだ。
…‥
燦然たる光彩が今方正の顔を照らしている。開窍大典は彼にとって人生最たる転機だった。
大典以前の人生は卑小で微々(びび)たるもの――誰にも知られない陰の存在だった。大典以後の人生は光芒に包まれ、自信は迸る。
彼の記憶の中では、開窍大典は曖昧で茫洋としており、呆然と過ごした時間に過ぎなかった。
しかし今――傍観者の視点からこの盛典を再び見ることで、彼の胸に渦巻く複雑な胸中は言葉に尽くせなかった。
方正は映像の中に登場する自分自身を見た――あの頃の自分はなんと卑屈で脆弱だったことか!
追って、自らが河の中に転び落ち、もがきながら水しぶきを上げている姿が映る。兄・方源に引き摑まれ、全身ずぶ濡れの醜態。
口元に笑みが浮かんだ。これがあの頃の自分だ――無数の嘲弄に曝され続けた少年!
そして彼岸に足を踏み入れ、うつむきながら歩く姿。
全身を包む希望蛊の輝きに、周囲が震えあがった!
これこそ栄光の瞬き! 奇跡の刻印!
甲等の資質は――彼の世界の色を変えた!
「方正、君に質問がある」
鉄若男の突然の声が、方正の感懐を遮った。
「何でしょうか? お話しいただければ、包み隠さずお話します」
方正は振り返り、柔らかな笑みを浮かべた。
「君の兄についてだ。兄上が君を支えた時、彼の唇が微かに動いていた。ただ周りの雑音が酷くて聞き取れなかった――あの時、何と話しかけてきたのか?」
若男の眼光が鋭く方正を射る。
「あの時の言葉か……」方正は記憶を遡った。「確か……『道』について……」
「そうだ!『道』だった!」
方正の瞳に突然光芒が走った。「覚えている!彼は言ったんだ:『これからの道は…面白くなるぞ』 …おかしいな?当時は気にも留めなかったが、今思い返せば、兄貴のこの言葉には深い含意が込められていたように感じる。まるで――まるで事前に俺の甲等の資質を知っていたかのようだ!」
「甲等資質を知っていたわけではなかった――それよりも、『道』に別の含意が秘められていたのだ」
鉄若男は細い肩をわななかせ、複雑な表情を浮かべ、深い息を一つ吐いた。