第百七十九節:歴史は人によって書き記される
「花酒行者が跪地いて助命懇願するも、四代族長が慈悲深く油断した隙に不意打ちを喰わせた!四代族長は花酒行者を即座に討取ったが、自身も重傷※1を負い、間もなく逝去!悲しきかな!魔道の輩は果たして背信忘義、心変わりが常態な※2の証左……」
鉄若男は此の記述を読み終え、両眼の輝きが漸次薄れた。
「遺念だ…花酒行者は現場で討たれた。継承を遺す余地など無い。彼が遺産を残せば時期的整合が叶った※3ものを」
少女は心奥で嘆息した。
彼女は諦めず、古月史典を緻密に繙き続け、時間制限の限界を迎え、古月薬姫に催促されて初めて止めた。
鉄家父娘が族長閣を出るや、方正が駆け寄った:
「何か発見は?」
鉄血冷は無言の沈黙を保ち、鉄若男は自嘲気味に首を横に振った。
方正が口を挟んだ:「ただ今思い出したのですが…何か手がかりになるかも。兄はかつて赤脈と親しく、家老の古月赤練が公の場で彼を庇ったことも。鉄姑娘、酒虫は赤練が密かに兄に渡したのでは?」
「赤脈の者?」鉄若男の眉根が刻まれた。
「ええ。狼潮以前、赤脈と漠脈が古月一族で二大勢力でした」と方正が説明する。
(また新たな勢力が…?)
鉄若男は沈思したまま黙り込む。
頭痛が募る。
初めての事件捜査――当初は自信満々(じしんまんまん)だったが、実際に動き出すと困難の連続だった。
父の捜査を目にした時は、
繭から糸を抽くように繊細で、
冷静沈着に理路整然と進み、
まるで水が渠へ流れるが如き自然さだった。
だが今、自ら実践してみて――
初めて事件解決の険しさを悟ったのだ。
「手掛かりが無い時もあれば、次々(つぎつぎ)と乱雑に湧き出す時もある。まったく右往左往だ。」
真実は一貫として霧に包まれている。
彼女にさえ、自分が真実へ近づいているのか、遠ざかっているのか分からない。
赤脈のこの糸口は、果たして意味があるのだろうか?
鉄若男は思わず茫然とした。本能的に父・鉄血冷の顔を仰いだ。
(きっと父は既に核心を掴んでるはず……)
少女の胸中で父親への畏敬が深まった。
(父ならとっくに解決しているだろう。私の未熟さはまだ遠く及ばない。でも例え私が失敗しても、父が傍にいる限り真実は明らかになり、犯人は裁かれる──)
そんな後悔と誇りが入り混じった感情が彼女を満たした。
鉄血冷が居る以上、犯人の逃亡を憂える必要はない。
だが少女はすぐに首を振り、激しい自嘲の念に襲われた。
この苛立ちは、紛れもなく自分自身へ向けられたものだった。
**鉄若男は唇を強く結び、心の奥で叱咤した:
「若男、何て情けない!父を超えると言ったのは誰だ?いつまでも父頼みでいる限り、超えられる日は永遠に来ない!」
「若男、頑張れ!お前ならできる!」**
闘志が再び全身にみなぎる。
彼女はこれまでの仮説を棄却し、白紙から始める決意を固めた。
「酒虫が遺蔵からの継承ではなく、他者からの贈物なら――赤脈が最も怪しい。だが疑問が残る」
彼女の瞳が鋭く光った:
「赤脈がなぜ丙等※1の凡人を青眼し、秘かに酒虫を渡す必要がある?」
「方源の何処に投資する価値が?方正の兄というだけなら、取り上げる値も無い……待て!」
推理に弾みが付く:
「赤脈の積極的投資ではない可能性が残っている──脅迫の可能性だ!」
拳を握り締め、自問自答を繰り返す:
「赤脈が鼻をつままれても、蠱師ですらない研修生に屈するほどの恥を握られていたとは……何が彼らをそこまで追い込んだのか?」
鉄若男は深く思索を巡らせるうち、一つの答えが徐々に脳裏に浮かんだ。だがその答えはあまりに曖昧で、まるで障子越しに見える灯りのようだった。若男にはその存在は感じられるが、手に触れることも、はっきり見定めることもできない。
「父上」少女はふと顔を上げ、鉄血冷を見た。「仙人指をお借りしたいのですが」
鉄血冷の声は低く落ち着いていた:「仙人指が出す示唆は、使用者の知る手掛かり(てがかり)に基づく。あくまで思考の補助であり、必ずしも正解とは限らない。それでも使うか?」
少女はうなずいた。
仙人指は一粒の種である。若男はそれを足元の土に埋め、掌を地面に押し当てて白銀真元を注いだ。
数息の後、手を離す。すぐに土が緩み、若木が突き破って生えた。
生まれたばかりの若芽は半透明の緑を帯び、生々(なま)しい鮮度を放つ。風に応じて伸び広がり、黄緑色から蒼翠へ、ついには深く碧が鮮烈に燃えあがる。
やがてその姿は仙人掌の如く整い、表面は鋭い黒棘を備え、厚い肉質の中に生命を漲らせた。
瞬時くうちに、頂上の中央から一輪の蕾が浮かび上がる。白い蕾は次第に膨らみ、花苞へと変貌した。その可憐な輝きに対し、仙人掌本体はみるみる萎縮し、水を奪われたかのように干涸びてゆく。
鉄若男は細長い指を伸ばし、そっとその花苞を摘み取った。すると仙人掌はたちまち灰色に変わり、数秒で完全に息絶える。
仙人指――それは三転の消耗型蛊虫に属す。
若男が摘み取った花苞は、幾重にも花弁に包まれた物体ではなく、むしろ皺くちゃに丸められた紙片を思わせた。慎重に広げるうち、それは真四角の花弁の白紙へと変わった。
白紙には二文字が記されている――
『資質』
この二字は他の者にとっては何の変哲もない謎めいた言葉だが、鉄若男にとっては最も重要な手掛かり(てがかり)だった。
仙人指という草蛊は本来、思い詰めた蛊師に霊感を与え、障子を破るような閃きをもたらすためにある。
「そうだ、資質だ!」若男は叫んだ。
懐から一通の書簡を取り出す。賈富が集めた全情報が記されたものだ。
そこには一行、浄水蛊がいつ、いくらで古月赤练に買い取られたかが書かれていた。
「そうだ、これだ!先に目を通した時も、この記述には気付いたが、まさか深層の意味が…まるで見過ごしていたとしか思えない。仙人指が代わって思考した結果が、この答えを導いた」
「浄水蛊の役目はただ一つ――空元窍に混じった異種の真元の気配を洗浄することだ」
「なぜ古月赤练がこれを必要としたか? …ふっ、これはよくある話だ。どこの山寨でも頻繁に起きている。おそらく赤脈の継承者への施しだろう。その者の資質が劣るため、赤练が己の真元を注いで無理に力量を高めたのだ。だがその反動を消すには、浄水蛊が不可欠となる」
「方源は何かの手でこの秘密を握り、赤脉を脅迫し、酒虫を譲らせたに違いない!」
鉄若男は口の中でつぶやくように仮説を述べた。
「鉄姑娘、本当に凄い! こんな僅かな情報から核心を見抜くなんて…ただ古月赤城は乙等資質ではなかったのか?」方正が問う。
「乙等? …ふん、それが不正で得たものとは限らないのか? 立証は極めて容易だ。赤城の空元窍を検すれば、隠された真実が露わになるだろう」
若男の眼光が鋭く研ぎ澄まされ、口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「良策にあらず」鉄血冷は首を振り、即座に遮った。
この真相が暴かれれば、赤脈への打撃は深刻で、古月山寨の上層部は動揺し、権力争いに陥り、政権崩壊寸前に至る(いたる)おそれもある。
鉄血冷は説く:「我々(われわれ)は事件解決のため来訪した。他族の政を乱すためではない。他郷の者が、やむを得ぬ場合を除き、内政に干渉すべきではない」
鉄若男は肯いた:「父上の言う通り(とおり)です。ただし、この方法以外にも証明手段はある──重大な祭祀や典礼は、家族が留影存声蛊で記録するのが伝統的慣例と承知しております。古月一族も例外ではあるまい。その期の開窍大典の記録映像を拝見いたします!」
……
「鉄神捕、ここ数日のご捜査お疲れ様です。どうぞお茶を!ご要望の映像ですが、我が一族の禁地・地下溶洞の密室に保管してございます。お二方がお入りになるのは差し障りがありますゆえ、すでに取り寄せの者を遣わせております。少々(しょうしょう)お待ちくだされば……」
古月博は座りながら微笑んで言った。
「ご足労お掛けしました」鉄血冷は社交辞令を返した。
鉄若男と古月方正は脇に控える。
「鉄神捕、一つお願いがあって」古月博が突然口を開いた。
「ほう? ご提案を」と鉄血冷。
「これは青茅山の内紛に関わる話で。我が古月一族、白家、熊家の三家の対立が続き、今回の狼潮で勢力図が変動いたしました。熊家が意図的に戦いを避け、他二族の消耗を図っております。先般の賠償交渉も不首尾に終わり、せめてもう数日お待ち頂けませんでしょうか?三族の大比武は明後日の開催と決まっておりますのに……」
古月博は息をつく。
「方源の奇怪な点はとっくに察知しておりましたが、狼潮の対応で調査が遅れてしまいました。彼が真犯人ならば一族を挙げて庇うつもりは毛頭ございません。せめてもう数日の猶予を……」
方源が王老漢一家を殺害した件は――それらは凡庸な平民に過ぎず、追求する値打ちもない。殺したなら殺したで、大した問題ではない。
だがもし方源が賈金生を殺害した事実があれば、状況は一変する。
古月一族が方源を擁護し続けるなら、賈家との関係は決裂し、商隊の往来が絶えるのみならず、報復を招くこともあろう。
組織は構成員を保護するものだ。しかしながら重大な利益の侵害に及ぶ場合は、成熟した組織ほど、一、二の成員を捨て去ることを巧みに実行するものだ。
組織の起源は遠古の時代、人族が生存の脅威に迫られて結集し、互いの力を借り、食糧の収集や分業による狩猟の効率を高めたことに遡る。
いかなる組織の本質も所詮、大きな利を得ることにある。
もし一りふたりの成員が利益獲得の妨げになるなら、彼らを犠牲にするのも当然の帰結だ。
故に、古月一族の家老が少ないとはいえ、方源を捨てるべき時が来れば、族長は躊躇なく決断するだろう。
しかし明後日には三族大比武が控える。その結果が今後数年間の青茅山の利益配分を決定する。三转蛊师である方源は、古月山寨にとって重要な戦力なのだ。
白家族長の手法と同様く、古月博もまた方源から最大限の価値を搾り取ろうとしている。