嘗て方正の心中では、方源は恰も高峰の如く、登攀不可能な高さで聳えていた。
嘗て方正は思っていた──その高峰が生涯己を覆い尽くすのだと。
然し生活は彼に予想外の転機を齎した。
方源の自堕落は、方正に彼の脆弱を見せつけた。方正心中の高峰は、崩れ落ちた。
然れども――
元々(もともと)は兄貴の一つの演技、一つの芝居に過ぎなかったのか?
心中で既に崩落した筈の高峰が、今此の時、神秘の霧に覆われた如くなった。
「兄貴…お前は一体何者何か?」
方正は初めて悟った──自分が全く実兄を見通せて居なかったという事実を。
方源の深沉とした心謀と難測な城府、斯様な演技力、そして殺人を厭わない残酷性は、彼に比類無い隔絶感を覚えさせた。
この隔絶感の中に、方正すら認めたがらない畏怖が混濁している。
この忌々(いまいま)しい感覚が、再び彼の心髄に舞い戻った。
彼は必死でこの畏怖を振り払おうとし、それが無意識のうちに鉄若男の歩幅へ追従させる結果となった。
「鉄姑娘、真実を発見させてくれて感謝する。兄の裏面を知る機会をくれたのだ。君を助けることは即ち自らを助けること※。遠慮なく尋ねてくれ、私が知る限りの情報を話そう」
方正は誠実な口調で述べた。
鉄若男は頷いてから首を振った:
「必要情報は大抵把握しています。
現問題は──
方源は何処から酒虫を入手したのか?です」
「君の言う通りだ。此の点は極めて不審※1だ。当時の兄の状況では、父母の遺産も未相続、資質は丙等、修行開始したばかりだ。何処から酒虫を入手できたのか?」
方正も眉を顰めた。
「こうした場合、主に二種の原因が考えられる。他者の資金援助、或いは遺蔵継承※2だ。丙等資質の者に誰が投資する?もし遺蔵なら、それは何だったのか?」
そう考え及んだ瞬間、鉄若男は思わず足を停めた。
遺蔵継承…遺蔵継承…
彼女の脳裏を、この言葉が執拗に反芻し続けた。
彼女は深考の淵に陥った。
「もし遺蔵継承が存在したなら、一切が合点がいく!
第一に、酒虫の出所が説明できる。
第二に、賈金生が暗殺された動機も解ける!」
鉄若男の胸中が高鳴った。
永に彼女を悩ませてきた核心問題、それは殺人動機※3であった。
人殺しには常に動機が要する。
方源が酒虫を露見させ、賈金生が買収を試みた。
しかし酒虫の価値は尚些少で、
殺人動機を構築するには不十分だった。
しかも、分が悪い商談に決して応じない賈金生が──
方源の酒虫を執念で狙い、追跡して密蔵の継承を発見した場合は……
方源は如何に行動したか?
「ふっふっふ」
鉄若男は笑声を漏らした。
方正が奇妙な目線を投げ掛けた。
鉄若男が振り返り言下に:
「古月一族の歴史正典を閲読せよと命じる!」
方正が首振り双手を広げた:
「歴史正典は一族の禁地に保管されております。他者が安易に閲覧できるものですか?」
「ならば君は入れるのか?」
方正が首を横振り:
「家老の身分が必須です」
「そうか…これは難問だ」
鉄若男が眉根を皺めた。
「鉄姑娘、老身が助力いたそう」
──暗影から片腕の老婆が歩き出した。
他ならぬ古月薬姫である。
彼女は未だ薬脈の家主だが、薬堂家老の職を退き古月赤鐘に取って代わられ、自ら片腕を断ってからは、権勢は最早形を成さぬほど萎縮していた。
然れども権勢への渇求は骨髄の奥まで浸透していた。彼女は深く自覚していた──古月赤鐘との協力は一時的凌ぎに過ぎず、漠脉を倒し併合して初めて、薬堂家老の座を奪回する原資を得られると。
漠脉を併合するには、彼等の希望を扼殺すれば足りる。
この希望とは当然、古月方源である。
「鉄神捕※、虚偽なく申し上げれば、老身は貴殿等を長らく注視して参りました。何卒随って下さい。一族の禁地へと御案内いたします。普段ならば厳重警備の場所ですが、折悪しくも老身が現在その警備責任者で御座いましてね」
古月薬姫が含み笑いを漏らした。
彼女は言外に示していた──
借刀殺人※を望んではいるが、
仮に方源が無実でも、誣告の手を惜しむ気は毛頭ないと。
地下鍾乳洞の一室に設けられた密室で、
鉄若男は古月一族の歴史を記した秘典を目にした。
初代より古月山寨が草創された時代から、
栄華極みに達した時期、
現今の斜陽に至るまで。
秘典には此れら数百年の大小様々(だいしょうさまざま)な事件が克明に記録されていた。
「此の初代族長、経歴は神秘に包まれ、孤身で古月山寨を創立した。極めて魔修※1の可能性が高い!」
鉄若男が数頁を捲り見て、衝撃的発言を放った。
「然れども驚異には値しない。数多の魔道蛊师は放浪に疲れると、子孫繁栄を選び家門を興す。数百年後には黒歴史を洗浄され、其等の子孫は正道人士と成る。このような事例は実際、珍しくない」
傍らで鉄血冷が口を開いた。
「では彼等が犯した罪過は帳消しに許容されて宜しいのか?」
鉄若男は表情に不満を浮かべた。
「魔道蛊师が滔々(とうとう)の罪業を積み、或時期に疲れれば定住し、安穏な晩年を送る。余りに甘やかされているでは無か?」
鉄血冷は幽かに嘆息した:
「若男よ。若年期の私も貴殿と同様、此の世界は黒は黒、白は白と思考したものだ。
しかし経験を積む内に悟る──
世界実質は灰色であり、時に黒が白に転化し、白が黒へと反転することを。諸々(もろもろ)の黒は必ずしも白より劣悪でなく、或白は却って罪業を深く背負うのだ」
「況して魔道蛊师にも、彼等固有の窮状が存在する。正道蛊师は修行資源を掌握管理し、魔道蛊师は弱者として孤軍奮闘せざるをえず、偏った方法に拠る外ない。初代族長の如き例は改心して足を洗う※1ことのできた良例だ。少なくとも彼は悪事を止め、黒から白へ転換し、正道に寄与したのだ」
鉄血冷は慰撫すように述べたが、少女鉄若男は明らかに納得していなかった。
彼女は首を振り、一刀両断に宣言した:
「父上、魔道蛊师に同情されるのは誤りです。白は白、黒は黒。過ちを犯せば罰を受けるべきであり、法を犯せば規律正されるべきです。然らざれば公正は何処に?正義は何処に?法の支配は何処にあるのですか!?」
「これは同情ではない。人の集まる所には必ず利害が生じ、利害の生じる所には必ず犯罪が起こる。人が存在する限り、犯罪は終息しない。わが子よ、やがて気付くだろう――人の力など所詮、あまりにも微力なのだ」
鉄血冷の声調は慇懃無常でありながら悲愴に満ちていた。
「まあいい、今の君には…まだ早すぎる話だ。事件解決に集中するがよい」
「屁理屈※かよ」
鉄若男は口をへの字に曲げ、父の諦観に満ちた言葉を意に介さぬ様子だった。
人は若年時、往々にして自らが世界を変えられると錯覚する。だが成人して漸く悟るのだ――自分が世界に変えられずにいられることこそが、最早偉大な成功だと。
少女は頁を繰り続けたが、突然手の動きが停止。
「四代目族長…『花酒行者虫』?」
両眼が驟に光芒を放った!
……
電流が閃光と共に絡み合い、鋭利な牙が刃物の如く冴え渡る寒光を放つ。
一頭の狂電狼が白凝冰に猛然と襲い掛かり、狼爪が空中に光条を描いた。
白凝冰は微動だにせず、蒼眸に狂電狼の爪影が拡大するも、一片の回避の意思も見せない。
突如、腹部の空竅から白虹が電光石火に迸る。
光虹が炸裂し、光芒が雨霰の如く降り注ぐ。光雨の中に、優雅な白相仙蛇が顕現し、長い銀髭が仙帯の如く漂う。
五転の蛇蛊を眼前にし、一瞬前まで猖狂を極めていた狂電狼は頓に萎縮し、退却を試みた。
然れども白相仙蛇は口を開き、軽やかに一筋の雲霧を吐いた。
白霧は遅そうでいて速く、狂電狼を包み込んだ。
狂電狼は霧気に視界を遮蔽され、焦燥して後方跳躍を繰返す。
然れども如何に移動しようと、
此の白霧は影の如く付纏り、
常時其の周囲を包囲して離さない。
白相仙蛇蛊の能力※1こそ、此の「迷霧」。
遮蔽後は強敵に方向識別を不能とさせ、
視野を純白の茫漠に没する。
電狼と云う獣類は、元来視覚が強大だが聴力は微弱だ。
狂電狼も同様で、
此時最有力の感知器官を封じられ、焦躁の余り頻繁に咆哮を発した。
跳躍移動中、数多の樹木と岩石を粉砕、更に狂暴性を増していく。
吼ぇっ!(がおっ!)
突如、口を開き咆哮、青霹靂を吐出した。
霹靂は丁度白凝冰を狙撃したが、
白凝冰は微動だにせず回避する素振りも見せない。
砕け!(バキッ!)※2
霹靂が白凝冰の胸郭を直撃、貫通する。
白凝冰は緩慢に俯くと、霹靂が穿った大孔から
前方から後方まで見通せた。
然し直後、
この大孔創傷に氷結が始まった。
幾層もの白氷が創口を蔽い、
瞬時く内に氷霜が融解し──
竟に血肉へと変異した!
「此こに北冥冰魄体の真骨頂が※1ある。我は即ち氷、氷は即ち我。凡庸な蛊师に取っての致命傷も、我に於いては数呼吸で治癒する」
白凝冰は心中で感歎し、緩慢に自らの右腕を挙げた。
彼の右腕は本来断裂していたが、今や北冥冰魄体の威能で完全復元、元通りに回復していた。
「『白相仙蛇蛊』もまた、北冥冰魄体の気配を感知して自ら空竅に帰依したのだ。北冥冰魄体は水行蛊虫を吸引し、自発的追随させる!然も此れほど強大であり乍ら、何と脆弱なのだろうか!」
白凝冰は天を仰ぎ長嘆した。
此れらの日々(ひび)、彼は修為を抑制しなかった。北冥冰魄体は益々(ますます)強大になるが、同時に死の刻限も刻一刻近付くを感じていたのだ。
「大仙様※1は依然として無反応なのか?」
此時、白家族長が近付き、気遣う口調で問う。
白凝冰は首を横振り:
「此の蛇蛊は私を認めておらず、北冥冰魄体の気配に引かれて元泉から空竅へ引越した迄だ。僅かに我が危機に瀕した時、護衛のため出現するのみである」
然し白相仙蛇は白凝冰に煉化されておらず、此の守護効果も極めて限定されていた。
例えば先程の狂電狼の霹靂は速度が速過ぎ、白相仙蛇は反応不能で、白凝冰は直撃を受けたのだ。
要るところ、白相仙蛇は防御蛊では無。
方源の前世でも、江凡と吞江蟾※2の関係が同様であった。江凡は五轉吞江蟾の協力を得たが、最終的には蛊师の暗殺に斃れたのだ。
白家族長は嘆息した──彼は此れに万感の悔恨と惜愕を覚えた。
然し最早為す術も無く、為すべきことは既に尽くしていたのだ。
「余談だが、三族協議の結論が出た。熊家寨は戦力の大半を温存しており、侮れない。最終的に三家は『三族大比武』の開催を決定し、其の結果で賠償案を定めることに。此の比試は、三十歳未満の蛊师のみが参加できる」
「承知した」
白凝冰は軽やかに頷いた。
「予感している──我が命の灯が間もなく消えることを。比試という形で終焉を迎えられるのは本望だ。感謝する、族長殿」
「何を言うか。私も一族のために慮った迄だ」
白家族長の顔色※1が微かに曇った。
此の提案を提唱したのは彼であり、目的は白凝冰の価値を最大限※2に搾取することにあった。
然れども白凝冰の謝辞は偽りない誠意であった。
白相仙蛇蛊が無反応なのは、
初代先祖の継承に縁が無い証左。
だが生きて在れば死が伴うのは道理、何の騒ぐことがあろうか?
白凝冰は既に己の戦道を見定め、恐懼の念などとっくに払拭していた。
ただ心奥には一戦の約束が在り、未練が存在した。
「方源、三族大比に来るだろうな?失望はさせないでくれ。何故なら──現今の俺は本当に…本当に強いのだから……」