方源は白凝冰の背中が遠ざかるまで見送っていた。
「この世の精彩を証し続けよう…」少年の黒い双眸が一瞬曇った。迷いを脱けた白凝冰は、以前より危険な存在になるだろう。
生と死はもはや彼を惑わせず、死に近づけば近づくほど、北冥冰魄体が放つ比類なき輝きを爆発させるに違いない。
「だが後日再戦だと? ふっ」方源は突然嘲るように嗤った。「あいつは必ず失望することになる…」
黒煙が滾る戦場から脱出したその瞬間、方源は即座に青茅山を離れると決意していたのだ。
白凝冰との戦いは面白くはあるが、得る利など微塵もない。
白凝冰がこの世の精彩を方源に見出すのは、彼が若すぎて視野が青茅山に閉ざされている証拠だ。
方源はそれとは違う。
彼の再誕の大計において、青茅山など単なる出発点に過ぎない。
大志を胸に抱える者は必ず心広く、他人の些細な事柄に拘泥しないものだ。
「行く時だ。狡電狈は雷冠頭狼より狡猾で、遥かに手強い。白家と古月一族の現有戦力では防ぎ切れまい。五転強豪が現れて窮地を救うか、あるいは両家が合同でもしない限り」
白家と古月一族の積怨が絡み合って、合同は大勢の流れだ。必ず協力するだろう。しかし協力したところで、心を一にすることなどできまい。
方源は彼らの将来を楽観はしていない。
「青茅山の今後の情勢は、この決戦の結果次第だ。もし二人の族長が狡電狈に殺されれば、青茅山は電狼の縄張りとなる。もし一族長が残れば、合同し、もう一方は犠牲の盾にされるに決まっている。もし狡電狈が倒されれば、両家も甚大な被害を受け、必ず養生が必要となる。家は内務を整え、俺は確実に捜査対象となる」
方源はこの大勢の流れを明察していた。
ここは蠱の世――個人の力が集団を凌駕し得る。故に蠱師の修為が高ければ高いほど、乾坤一擲の大逆転さえ成し得るのだ。
白家であれ古月家であれ電狼群であれ、いずれかが新たな四転强者を擁すれば、必ず勝利を決められるだろう。
しかし、どの結末を迎えようと——
全て(すべて)が方源に不利だ。
「もはや離脱の時だ。治療に理想の蛊を欠いてはいるが、世の中すべて願い通り(どおり)になるわけがない。山寨へ戻り、天元宝蓮を入手し、族库[※1]から治療蛊を奪取した後、即座に出発する!」
方源は最期に背を振り返り、硝煙の奥で続く轟音を一瞥した。
体を翻すと、古月山寨へ向かって進み始めた。
家老の身分があれば、それに乗っ取って族库を強制的に開庫し、元石[※3]と蛊虫を入手できる。
今は最激動の時――人心慌て騒ぎ、好機に乗じやすい。
しかし時機を逃せば、戦闘結果にかかわらず大勢が確定し、方源が混乱に乗じて得るものはなくなる。
雷翼蛊は当分使えぬため、森の間を駆け抜けた。
「狼の奔流がすべてを洗い流し、逆に危険だらけだった山道が安全になった。」
やがて古月山寨が遥か彼方に見えてきた。
「む? 何者だ!」方源はサッと足を止めた——二人の見知らぬ者が眼前に立っている。
二人とも蛊師[※1]の装い。一人は年長で背が高く、ピンと伸びた腰は山のように重く淵のように深い威厳を放つ。特に目立つのは顔を覆う青銅の仮面だ。
その仮面には古の気配が漂い、三つの切れ目で両目と唇を露わにしている。
目には人生の変遷が刻まれて威のある正気をたたえ、唇は刀で彫ったかのように固く結ばれ、鉄のような意志を示す。仮面の隙間からは白髪交じりのもみあげがのぞき、高齢であることを物語っている。
もう一人は若者。眉が剣のように真っ直ぐに伸び、澄み切った目はキッと見据えると同時に、鷹や虎のような鋭い輝きを放った。
この姿形から見るに、若者は方源とほぼ同年頃だ。だが彼の腰帯には銀片が嵌め込まれ、その表面に「三」の文字が刻まれている。
この年齢で既に三転蛊師とは——その修練の才の程が窺える!
紛れもない神童だ!
だが方源の視線は若者の上を一瞬掠めただけで、年長者へと移った。
この若者は浅黒い肌をし、同様に唇を固く結んでおり、全身から練達で精悍な気風を放って侮れない。
しかし——
微かに膨らんだ胸。
手や足、喉仏の線の細やかな造形。
これらの細部が方源に彼女の正体を瞬時くして看破させた。
方源は女性を甘く見たことは一度もない。しかし、この精悍な少女よりも、彼女の傍に立つ中肉中背の男性の来歴は、誰もが注目せざるを得ないほど大物であった。
「鉄血冷…」方源の心臓がドキリと高鳴った——そっと心の中でその男の正体を見破る。
青銅の仮面を着け、腰帯には紫水晶の角板が嵌め込まれ、そこには一字が刻まれている。
【五】
彼こそが五転蛊師、天下を統べ正義を貫き、謎解きは神業のように、追跡能力は天下一と謳われる南疆神捕鉄血冷その人だったのだ!
彼は厳正で私心なく、鉄面で容赦知らず——数多の魔道がその手に捕らえられ、数多の卑劣漢が斬首された。正道の模範として南疆を巡り、数限りなき事件を解決し、輝かしい威名を轟かせている。
「小兄弟、失礼ながらお尋ねする」鉄血冷は方源に向かって拱手[※1]の礼をとった。
彼は名を馳せて久しく、五転蛊師であるにも関わらず、態度はきわめて丁重で気取りがなかった。
「小兄弟のその傷だらけの身、足早に駆ける様子を見るに――もしかして貴族長や家老衆が厄介事に遭われたか?」と続けて問いかける。
方源は自然に表情を切り替えた——焦燥と驚愕、そこに疑念と畏怖が絡み合って:「お前たち(まえたち)は何者だ? どうしてその件を知っている? 確かに我々(われわれ)は雷冠頭狼を追撃中、狡電狈に出会って大変な事態に陥った。俺は今救援要請のため戻るところだ」
「この者は鉄血冷——味方であって敵ではない。古月山寨から来たばかりだ。小兄弟、救援に戻るには及ばない。獣潮の下では人族は一心同体、手を携えて進退すべきだ。鉄某としても微力ながら力を尽くさせてもらう」鉄血冷は即座に進んで引き受けた。
……
「くそっ…まさか我古月博が今日ここで果てるとは!」
「ふん、たとえ死んでも、この狡電狈を生かしはせぬ」
古月族長と白家族長は全身傷だらけで、真元[※1]も枯渇寸前。死の気配が濃厚に漂っていた。
濃かった硝煙は既に散り、家老たちは全員戦死していた。残ったのは二人の族長だけだ。
狡電狈も無傷ではなく、骨まで達する深手を負っていた。牙を剥き出して電狼群の後方に縮こまり、狡猾な光を宿した眼で両族長を窺い、自ら戦おうとはしない。
「かかってこい!腰抜け野郎!」白家族長が怒号するが、狡電狈は更に後退。雷の様な狼嚎と共に、群狼を指揮して二人の四转蛊师へ突撃を敢行させた。
「狡猾な獣め、はあ…」古月博と白家族長は顔を見合わせ、嘆息をもらした。
二人は最期の切り札として、死を賭した反撃を用意していた。
しかし狡電狈は人に劣らぬ知恵を持ち、罠には掛からなかった。
「我が命、此処に尽きる…」
「無念だ…普通の電狼の口にかかるとは!」
両族長が無念に嘆いていると、突然遠方から声が響いた:「二君、踏み止どまれッ!」
声は山林に反響した。両族長の身体が同時に震え、振り返ると――高い身軀の影が狼群の中を自由自在に駆け抜け、幾つかの呼吸の後には既に二人の傍に立っていた。
「お前は…?」二人の族長が同時に尋ねた。
「拙者は鉄血冷」
ヒッ…
白家族長は微かに息を呑んだ――驚きと喜びと疑念が入り混じる。なぜ神捕がここに?
古月博は事情を知り、大いに喜んだ:「なんと鉄神捕では!」
話している隙に狼群が迫る。
「畜生どもめ!」鉄血冷が雷鳴の如き声を轟かせ、丹田の空に潜む蛊虫を駆動した。
ドオォン!
無形の気迫が突如迸り、八荒を覆い、四方を飲み込んだ。
その気魄はそびえる山の如く――天を貫き地を支え、微動だにしない。
されどまた蒼穹の如く――人界を見下ろし、万物を見透かす。
正気蠱!
正義を胸に宿す蛊師のみが使用可能。
正気が勃発すれば、卑劣な者たちの肝を冷やし、一定範囲内で敵の意志力が低ければ低いほど、その弱体化度合も増大する。
鉄血冷はかつてこの蛊で四转蛊师を戦意喪失させ、敗走させた実績がある。戦わずして敵を屈伏させる最強兵器なのだ!
ウウッ…
電狼の突進が止まり、この気魄の威圧に足がガクガクと震え、前進できなくなる。
オォーン!
後方の狡電狈が長く鋭い叫びをあげ、電狼群の動きを統制しようとする。
「よくも図々しい!」鉄血冷が両目を見開き、右腕を猛然と伸ばして狡電狈を捉えんとした。
ドゴォン…!
大気に波紋が拡散する中、巨大な黒鉄の巨腕が空を突き破って出現し、遥か彼方の狡電狈を捕捉しようとする。
五転鉄手捕捉蛊!
狡電狈は狡猾な性質で血の勇気に乏しく、全身に重傷を負っているため真正面から受け止めることを恐れ、慌てて回避しようとした。
しかし黒鉄の巨腕が狡電狈をがっちり捕捉、執拗に追跡した。
逃げ場を失った狡電狈は「ウウォーン!」と咆哮して殺戮性に目を剥き、黒鉄の巨腕と激突した!
鉄屑が飛び散る凄絶なぶつかり合いとなった
巨腕が砕け散り、狡電狈もまた重傷を負って全ての骨が震動で散りそうになるほどの打撃を受けた。
クゥーン… と悲鳴を漏らし、もはや鉄血冷に挑む勇気など微塵もなく、最後に怨念に燃える目で鉄血冷と両族長を睨みつけると、尻尾を股の間に挟み、くるりと向きを変えて逃げ出した。
「逃げるぞ!」
「何としても食い止めろ!!」
両族長が叫んだが、鉄血冷は微動だにせず動こうとしない。
「神捕閣下、何卒!」古月博が拱手して懇願する。
鉄血冷は微かに首を振った。
その時、方源と少女も到着し、ちょうど狡電狈が鉄手に追われる場面を目撃した。
「お父様!傷を負っているのに、どうして戦えるんですか!」少女が駆け寄り、悔しそうに地団太を踏み[※1]、心配が溢れた抗議の口調だった。
「若男、狡電狈は極悪非道だ。強圧的に撃退するのが最善策だよ」鉄血冷が淡々(たんたん)と答えたが、突然身体が小刻みに震えた。
ぺっ
鮮血が飛んだ——だがそれは異様な緑がかった色をしており、地面に落ちるなり周辺の草をじりじりと腐食させ、嫌な臭いの煙を立てた。
明らかに重傷を負っていたのだ。
「お父様、大丈夫ですか!?」少女鉄若男は慌てて両手を挙げ、鉄血冷の治療にあたろうとした。
「騒ぐな。この傷はお前も知っているだろう。血を吐けばむしろ楽になるのだ」鉄血冷は「ふっ」と軽く笑い、手を振って治療を拒否した。
この光景を目にした両族長は、ついさっきまで抱いていた不満をきれいに消え去り、恥じ入る様子に変わった。
「神捕閣下は私心なく、重傷の身でありながらも御出手くださいました。この恩は骨身に刻みます」
「鉄血冷様の御名はかねがね伺っておりましたが、本日その御器量を目の当たりにし、心から敬服いたしました!命の恩に御礼申し上げます!」
両族長は続け様に拱手し、感謝の言葉を述べた。
「神捕閣下には是非我が白家寨へ御足労いただきたく!ご恩返しに全力尽くします!」白家族長が重ねて懇請する。
傍らで、古月博が白家に鉄血冷を奪われて黙っているわけがない。
彼は鉄血冷の来意を察知して勝ち誇るように笑った:「神捕閣下は賈富[※1]の依頼で例の殺人事件を調査に来れたのでしょう。古月一族は全力でご協力しますぞ!」
これを聞いた白家族長の顔色が瞬時く変わる。
鉄血冷が言下に応えた:「その通り。ただ今回の調査は某が主導せぬ。娘の若男が担当する」
「おお?」場の空気が一変、一同の視線がその少女へ集まった。