「『な…!?』」古月薬楽は言葉を聞いて呆然とした。
方源は電光石火に動き、手刀で少女の柔らかい首筋を打ち首を落とすように斬りつけた。薬楽は意識を失い、崩れ落ちる体を方源が素早く腕で掬い上げ(あげ)、隠鱗蠱を発動させると二人の姿は闇に溶けた。
薄目を開いた薬楽は、薄暗い洞窟の中にいることに気付いた。
重たい頭を振りながら起き上がろうとするが――
岩に縄でぐるぐる巻きにされていることに気付く。麻縄は指ほどの太さで、何重にも巻かれ固結びされていた。
蠱虫は全て(すべて)方源に強纏で奪われ煉化済み。十五歳の華奢な体では、どう逆らえる術もない。
見知らぬ場所で縛り上げ(あげ)られた少女の胸に、冷たい恐怖が込み上げ(あげ)てきた。
気を失う直前の光景を思い返すと、どんな天真爛漫な者でも方源の悪意を悟るだろう。
「でも方源は私をどうするつもり? お婆様に告げ口したから仕返しに……?」縛られた四肢は動かぬまま、脳裏は疾走を続けた。
想えば想うほど恐怖が膨らみ、涙が零れた。
「お婆様、どこにいるの? 早く楽々(らくらく)を助けて……」震える声は未曽有の孤独と恐怖を伝えていた。
方源の気配はなく、洞窟に泣き声だけが反響する。
「まさか私をここに閉じ込めて……7日も8日も飢えさせて、二度と言わせないようにするつもり?」涙に濡れた瞼を開き、可能性を考え付いた。
最低!
方源、絶対許さないわ!!
歯を食いしばり、元々(もともと)最悪だった方源への印象は地底まで堕ちていた。
古月薬楽は生まれてこの方、これほど人を憎んだことはなかった。
その時、ザクザクと足音が近づいてきた。
やがて方源の姿が闇から浮かび上がる。
「方源!何するつもりよ!早く放しなさい!さもないとお婆様が酷い目に遭わせるわ!」縄に縛られた体を必死に暴き、柔らかい足で地面を蹴る様は、罠に落ちた子鹿のようだった。
「元気が良いな」方源は鼻で笑った。
薬楽が再び罵声を浴びせようとした瞬間、方源の背後から巨体がゆっくりと現れた。「熊、熊が……」目を見開いたまま、声が喉で詰まった。
方源は薄笑いを浮かべ、熊の黒い毛皮を撫でながら言った。「狼潮の下では、こんな野熊を見つけるのに随分手間取ったんだよ」冷たい声が洞窟に陰気な風のように響き渡った。
古月薬楽は瞬時に察した。方源が熊驕嫚から奪った駆熊蠱の存在を思い出す。
「そういうことか……」嘲笑いながら口を開こうとした刹那、方源が不意に近づき、眼前に膝をついた。
「何をするつもり!?」少女は必死に後ずさるが、方源の右手が容易くその頬をしっかりつかんだ。
「愛くるしい顔だ。確かに人を惹きつける」方源は淡々(たんたん)と評した。
ビリッ!
右手が薬楽の襟首を掴み、強引に引き裂く。
衣服が裂け、中のピンクの腹巻が露に。
「きゃあ―――!!」一瞬の呆然を経て、甲高い悲鳴と共に狂ったように暴れ始める。柔らかい肌が麻縄で血痕を刻んでも構わず。
方源は薄笑いを続け、更に裂き続ける。
ビリビリビリ。
瞬く間に少女の衣服はボロ布と化し、牛乳のような白い肌が露になっていった。
「やめて、やめてよ!」恐怖に震えながら泣き叫ぶ。方源が自分に加えるかもしれない非道を思い、全身が痙攣していた。
しかし方源は彼女の予想に反し、それ以上動かずに立ち上がり、徐ろに後退した。
嗚咽に変わりかけた少女の泣き声――その瞬間、黒熊が熊掌を踏み出した。
瞳が針の先のように収縮する。死の気配が全身を貫いた。
ヒュッ!
熊掌が風を切る音。
カキン!
少女の首が柔らかく折れ曲がり、不自然な角度に傾く。ついさっきまで生気に満ちていた肉体は、温かい屍体と化して岩に縛りつけられた。弄ばれた人形のようだった。
方源が駆熊蠱を操作する必要もなく、黒熊は食の本能に従い頭を垂れ、豊かな饗宴に舌つづみを打ち始めた。
黒熊はまず少女の喉元に食らいつき、鮮血が噴き出して黒い毛皮に飛び散った。
続いて少女の白く透き通る胸――未だ開かぬ蕾のような部位に牙を立てる。右胸を食いちぎった熊は皮肉を剥ぎ取り、白く不気味な肋骨の骨格が露に。熊掌で一撃を加えると、それらの肋骨は簡単に折れ、内臓が押し潰されて血潮が迸った。
骨の障害が消えた熊は口吻を少女の体腔深く突き入れ、尚鼓動する心臓に食らいつくと丸飲みにした。
喉を通り腹に転がり落ちた心臓に、狼潮で飢え続けていた黒熊は満足の唸り声を上げる。
再び頭を垂れた熊は五臓六腑を貪るように食い荒らし始めた。
ボリボリ、ガブガブ。
顎を激しく動かす度に、黒い口腔から血の混じった肉片が零れ落ち、水音のような生々(なまなま)しい音を立てた。
長い時間が過ぎ、熊はようやく頭を引き抜いた。
少女の胸郭は空洞となり、腹部まで裂けた巨大な傷口が広がっていた。白く輝く腸には、黒熊は興味を示さない様子。
熊の注意は蓮根のように白く細い少女の脚へ移る。
少女の手は一本一本が優美な指。黒熊がガブリと食らいつき、バリバリと咀嚼して飲み込むたび、骨の砕ける音が響いた。
太腿もまた絶品。
柔らかな皮肉に処女の芳香が残り、黒熊が満足げに食い尽くすと、白い腿骨だけが残された。
ついに、少女の頭が地面に転がり落ちた。
率直に言えば、確かに愛くるしい顔立ちだった。漆黒の大きな瞳、丸く小さく上を向いた鼻、花のように淡桃色の肌、桜色の唇から覗く真珠のような歯並び。
だが今、血色は失われ青白く変色。黒髪が顔の大半を覆い、見開かれた目は恐怖と怒怨に満ちている。
死に目を閉じず!
方源は腕組みして傍観した。古月薬楽の表情を眺めながら、地球の仏語を思い出す――「無我相、無人相、無衆生相、無寿者相、紅粉骷髏、白骨皮肉」
我こそが自我であり、自我は存在しない。自我中心を打ち砕し、己の平凡さを知る。「無我相」とは「万人平等、差異なきこと」
人間は人類に過ぎず、他生物を卑賎と見下さない。「無人相」は「衆生平等、差異なきこと」
衆生は一切の生命。山石や水流にすら霊性を認める。「無衆生相」は「森羅万象平等、差異なきこと」
万物は各々(おのおの)寿命を有す。「無寿者相」は「存在するもせざるも平等、全く同一」
美男美女も終には白骨となる。骨と肉は一体ながら、人は肉に執着し骨を恐れる。これこそ表相に囚われた「平等の真相」を見落としている。
この仏語は全て(すべて)の相を破り、真実を見よと説くのだ。
美色も相ならば、人我・衆生・寿者もまた相なり。諸相を相ならざるものと見れば、即ち如来を見る。本質を見抜き、等しく慈しむこと、これが衆生平等なり。
故に仏祖は身を捨てて虎に食わせ、肉を削いで鷹に与えたり。これこそが大慈悲の心、万物を己の子と見做し、一切を愛し、あらゆる存在へ慈愛を注ぐ証なり。
我であれ他者であれ、動物や植物、命なき山河や水土、さらには存在せざるものに至るまで、全て(すべて)を愛せよ。
凡夫がここに立ち、熊が人を食うのを見れば――血気盛んな男は飛び出し「畜生!人を食うな!」とか「美少女よ、怖がるな!叔父さんが助ける!」などと叫ぶだろう。
これこそ凡夫の愛憎、少女を愛し巨熊を憎む。未だ真相を見透かせず、表相に囚われ紅粉骷髏を見抜けぬ。
仏陀がここに立ち熊が人を食うを見れば、嘆息しつつ仏偈を唱うだろう「我地獄に入らずして誰か入らん」と。少女を救い出し、自らの身を黒熊に捧げるのだ。
これこそ仏の愛憎、少女も巨熊も等しく愛し、差別せぬ大愛なり。
しかし今、ここに立つのは方源である。
少女の惨死を見ても、心に波紋生ぜず。
これは生死に慣れた麻痺ではなく、相を破り執着を脱したからだ。無我相、無人相、無衆生相、無寿者相……
万物を等しく見、衆生を平等と観ず。
故に少女の死は、一匹の蝗、一頭の狐、一本の樹の死と何ら変わらない。
されど凡夫の目には、少女の死が怒りや憎しみを呼び起こす。もし熊が少女に食われたなら、彼らは何とも思わぬだろう。老婆が食われれば、その悲嘆は薄れ、極悪人が食われれば喝采を送る。
真実は――万物平等、天地は仁なくして万物を芻狗と為す。
大自然は公平である。愛憎を語らず、無情に万物を差別せぬ。
弱肉強食、優勝劣汰!
一つの生命が消えようと、広大な自然界にとって、深淵たる星空にとって、滾々(こんこん)と流れる歴史の大河にとって、何の意味があろうか?
死ねば死んだ。不死の者などいない。少女も巨熊も蝗も狐も樹木も老婆も殺人鬼も、皆卑小!下賎!芻狗!
この真理を悟り、一切の相を破り真実を見れば、神性が生ず。
この神性が光明へ一歩踏み出せば仏。闇へ半歩進めば魔。
魔性!