金色の満月が空高く浮かび、雲の影が斑に落ちている。
明るい月明かりは蠱師たちにとって大きな朗報だった。
山寨の外は惨烈な戦場と化していた。
電狼の屍が堀から積み上がり、寨壁の半分の高さに迫っていた。これが後続の電狼群に良い足場を提供している。
普通の電狼でさえ、跳躍と爪を使って寨壁を越え、寨内へ飛び込むことさえ可能になっていた。
だがこれらの電狼は、まず高低差によろめき、直ちに厳重に待ち構えた蠱師たちの集中攻撃を受けて仕留められていた。
方源は今、塔楼の頂上に立ち、周囲の数名の蠱師と共に月刃を激しく狼群へ放ち続けていた。
戦場を見下ろすと、塔楼群が最大の火力点となっている。蠱師たちの連携によって、多数の豪電狼が葬られていた。
「殺せ!殺せ!この狼どもを皆殺しにしろ!」
「ナーナ!お前の仇を取ってやる!!」
「踏ん張れ、あと少し(すこし)だ。一族の安泰は我々(われわれ)にかかっている」
周囲では怒号や悲鳴、激励の声が入り乱れていた。
方源は冷ややかに立ち尽し、片手で月刃を時折放ちつつ戦況を観察していた。
明月があるとはいえ、視界は昼間に比べてやはり劣っていた。三頭の狂電狼は依然後方に控え、その巨躯が雲間に浮かんでは消えるように見え隠れしていた。
奴等が無傷である限り、何千頭もの電狼はただの盾に過ぎず、豪電狼でさえ上等な犠牲品でしかなかった。
不意に!
一頭の狂電狼が悠と前へ一歩を踏み出し、巨口を開いて一顆の雷球を吐き出した。
三転、炸雷蠱!
この雷球は体積が大きくはなく、石臼ほどの大きさでしかない。しかし全てが蒼く、膨大な電気を凝縮しており、速度は極めて速い。
瞬く間に、方源のいる塔楼へ激しく轟々(ごうごう)と撃ち込まれた。
激戦が続く中、戦況は膠着しており、多くの蠱師が麻痺したように戦っていたため、雷球が撃ち込まれた時も彼等は反応できなかった。
水罩蠱、白玉蠱!
方源が防護を張った直後、視界は真っ白に染まった。
ドゴォーン!
巨大な轟音が彼の鼓膜を破らんばかりに響いた。
無形の巨力が湧き上がり、彼を高く撃ち飛ばした。
暴れる雷霆の中、水罩は二呼吸しか持たずに崩壊した。残った電流が方源の体を撃ち、白玉蠱の防御があろうとも、電撃によって痺れが走った。
ドスン。
彼は3、4メートルの高さから地面へ叩きつけられた。白玉蠱は霓裳蠱とは違い、衝撃を緩和できず、方源の背中が激しく痛んだ。
急いで地面から這い起がり、目をパチパチさせながら涙が溢れ出した。
三呼吸後、視界が徐ろに回復した。
元の分厚い石造りの塔楼は半壊し、無数の黒焦げた屍が地面に散らばっていた。外壁には大きな穴が開き、今も電狼群がその突破口から濁流のように寨内へ流れ込んでくる。
狂電狼が遂に参戦!
千獣王級の戦力はやはり非凡だ。
ついさっきまで方源の側で塔楼に立っていた数人の蠱師たちは、全く原型を留めずに死亡していた。生き残ったのは方源一人だけだった。
空竅の中で、水母のような水罩蠱が萎れ切っている。
水罩が連続で破れると、水罩蠱も耐え切れず消滅してしまう。
白玉蠱も同様だ。
蠱虫は強さと脆さを併せ持つ。
炸雷蠱を例えに取れば、放つ雷球の破壊力は絶大で速度も速く防ぎ難い。だが欠点もあり、連射できず数呼吸の間隔を置かなければ第二弾を発射できない。
ドゴォーン!
方源が地面から起ち上がった途端、またも雷球が飛来してきた。
「こいつ、炸雷蠱を二匹も宿してやがるのか!」方源が表情を変えて急いで回避。
水罩蠱の使用を極力控え、白玉蠱だけで防衛に徹した。
「畜生!調子に乗るな!」決定的瞬間、金色の輝きを放つ人影が空中に現れ、雷球を体当たりで食い止めた。
家老の出撃だ!
しかし一人の家老では不十分。瞬く間に、さらに二人の家老が姿を現し肩を並べて戦った。
一頭の狂電狼に立ち向かうには、少なくとも三組の連携の取れた蠱師チームが共同で狩る必要。三転の蠱師なら最低三人が必要で、やっと食い止められる。
狂電狼が重い足音を響かせ群れを抜け出すと、周囲の狼たちが避け開いた。
次第に小走りになり、速度を増しながら首を垂れて寨壁へ突撃を開始。
この光景を見た一転・二転の蠱師たちは慌てて逃走。
ただ三人の家老だけが毅然としてその場に留まった。
この戦域は暗黙の了解で空け渡され、彼等へ委ねられた。
三人の家老とこの狂電狼が激戦を繰り広げる。
間もなく、残り二頭の狂電狼も山寨を襲撃、他二箇所で新たな戦場が形成。
九人の家老と三頭の狂電狼が三大の戦闘団を形成。その通り道で雷撃が炸裂し竹楼が崩壊。巻き込まれた蠱師や電狼の大半が無残な最期を遂げた。
電狼群が依然突入する中、方源は戦わず戦場の片隅で三大戦団を遠目に見据えていた。
疑いようもなく、この狼群の攻撃は白熱の極みに達していた。
「三頭の狂電狼、一頭は炸雷蠱を二匹宿し攻撃力が突出。もう一頭は雷翼蠱で短時間の飛行が可能、機動力最強。最後の一頭は雷嘯蠱を有し、音波で敵を屠る」方源が観察を続けるうち、徐々(じょじょ)に三頭の狂電狼の実態を見抜いた。
千獣王級の体には大抵二転の蠱が三~四匹、あるいは野生の三転蠱が寄生している。
これらの蠱虫の状況を把握さえすれば、蠱師たちは適切に対応できる。知恵に欠ける狂電狼は、一度対策を取られれば攻撃パターンが単調で変化せず、戦局は必然の結末を迎える。
予想どおり、しばらくすると数人の家老が戦線を離れ、別の家老たちが交代した。
彼等の連携攻撃は戦術的優位を生み、瞬く間に主導権を握った。激闘の末、戦況を完全に制御下に置いた。
勝利は時間の問題となった。
「大局は決まった」薬姫が安堵の息を吐いたその瞬間、東門の方から轟く咆哮が響いた。
一匹の電狼が急激に巨大化し、普通の電狼ほどの体躯から風船のように膨らみ、象ほどの巨体へと変貌した。
「まさか四頭目の狂電狼が!?」家老たちの多く(おおく)がこの光景に驚愕、顔色を失った。
先まで彼等の注意は三箇所の戦闘拠点に集中しており、東門の守備は手薄になっていたのだ。
「まずい!薬楽がまだそこにいる!」薬姫は老いた顔を青ざめさせ、電光の如く東門へ駆け出した。
「ほう、まだこんな伏線が残されていたか。この狂電狼は三転の隠息蠱を宿し、電狼群に紛れて東門の蠱師たちを欺いていたのだな」
方源が凝視する先の東門は危機的状況に陥っていた。
突如現れた狂電狼が東門扉を粉砕、巨大な突破口を穿つ。
無数の電狼が三々五々(さんさんごご)の豪電狼に率いられ、狂ったように吠えながら山寨へ雪崩れ込んでくる。
古月薬楽は電狼群が濁流のように押し寄せるのを目にし、恐怖で凍り付いた。
幸い側には熊驕嫚という熟練者がいた。緊急時、熊驕嫚が即座に指揮を執り「急げ!戸や窓を閉め切れ!拠点を固めて援軍を待つのが唯一の活路だ!」と命じた。
だがこの言葉が消えるか消えないかという時、ドーンという音がし竹楼の屋根が狂電狼の猛撃を受け崩れ落ちた。
古月薬楽は悲鳴を上げ、突然の劇的変化に完全に動揺した。彼女は若すぎて一転の実力しかなく、安全と思って前線に留まっていたが、このような危険に晒されるとは夢にも思っていなかった。
「畜生!止めるんだ!」古月薬姫は疾走しながら叫んだ。
愛おしい孫娘が危機に陥る中、自らは力及ばず歯噛みするしかなかった。
この危急の際、熊驕嫚が身を挺して立ち上がった。
彼女が心を動かすと、残りの棕熊が咆哮を上げ狂電狼へ突進した。
狂電狼が右爪を一閃、400キロ超の棕熊を弾き飛ばす。狼の顎が開き、棕熊の頭部を噛み砕いた。千獣王級の力に、普通の野獣が太刀打ちできるわけがない。
だがこの一瞬の隙に、熊驕嫚は既に古月薬楽を引き摑んで疾走し、僅かながら距離を取ることに成功していた。
狂電狼は轟くような咆哮を発し、狙った獲物を逃すまいと跳躍。十数メートルを一跨ぎに飛び越え、熊驕嫚の眼前に着地した。
突然目の前に現れた狂電狼に、古月薬楽は膝から力が抜け落ちた。
熊驕嫚は彼女を引き摑んだまま前進できず、寨外へ向かって急ぎ後退するしかなかった。
狂電狼がまさに飛び掛かろうとした刹那、古月薬姫が駆け付け、淡い紫色の月刃を狂電狼の背中に斬り付けた。月刃は霧のように散らばり、狂電狼の鼻腔へ浸透していく。
「ゴホッ!ゴホッ!」狂電狼は二度咳き込み、毒に侵された。これは三転の月毒蠱の仕業だ。
「ガオオオーン!!」狂電狼は怒り狂い頭を仰け反らせ、凶暴な咆哮と共に無形の衝撃波を周囲に放った。
雷嘯蠱は威嚇用ではなく、音浪蠱だった。音波が空気を振動させ、見えない推力を生じた。
この力に押されるまま、熊驕嫚と古月薬楽は二人一緒に吹き飛ばされ、空中で別々(べつべつ)の方へ散らばった。熊驕嫚は竹楼に突っ込み、そのまま動きがなくなった。一方古月薬楽は破損した東門から寨外へ放り出された。
彼女は目の回わるような衝撃を受け、よろよろと起き上がろうとした瞬間、血に飢えた牙を剥いた電狼が襲い掛かってきた。
「キャア―――!!」
甲高い悲鳴が上がったその時、月刃が飛来し電狼を貫いた。
彼女が慌てて立ち上がると、命の恩人が若い男性の蠱師で、下半身が崩れた壁の下敷きになっているのを目にした。
血に汚れた顔の男蠱師がかすかに笑いかけると、次の瞬間、押し寄せた電狼に喉を噛み裂かれた。
古月薬楽は涙を滝のように流し、泣きながら逃げ惑った。
この戦域は混乱の極みに達していた。
彼女の身分を慮り、時折蠱師たちが援護の手を差し伸べた。だが彼等も自らの身が危うい状況で、薬楽を窮地から救い出せない。古月薬姫も狂電狼に絡め取られ、孫の危機に駆け付ける余裕などなかった。
古月薬楽の心は混迷し、目の前に広がる電狼の牙と爪は幻想のようだった。混乱の中、突然声が聞こえてくる。「後ろへ一歩下がれ!」
彼女は無意識に従い、電狼の飛び掛かりを寸前で回避した。
「右へ転がれ」その声が再び響く。
薬楽の意識はまだ朦朧としているが、体は既に動いていた。狼の顎がカチリと音を立て、間一髪で噛み付きを躱した。
指示は続き、少女は寸分の狂いもなく従う。時折失敗しても、どこからともなく月刃が飛んできて危機を救った。
気が付くと周囲の電狼が消え、安らぎを感じた。
いつの間にか山寨から離れ、人里離れた山林の一角に立っていた。
人の影が徐ろに現れる。
「あっ……」薬楽は目を丸くした。「古月方源、あなたが助けてくれたの?」
「違うな」方源は不気味な笑いを浮かべた。「俺はただ自分のためを働いただけだ」