薬楽は熊驕嫚たちが門を出て遠ざかっていくのを見送った。
だがこの別れは極めて短く、たった一刻鐘後、熊驕嫚らが再び竹楼に戻ってきた。
「運が悪くて狼潮にぶつかっちまった」熊驕嫚は苦笑いしながら説明した。
竹楼にいた蠱師たちはこの言葉を聞き、皆表情が引き締まった。
熊驕嫚たちのグループは人数も多く戦力もあったのに、山寨へ退かざるを得ない状況――それだけ狼潮の規模が大きい証拠だ。
「みんな急いで準備するんだ。電狼群がすぐに山寨を襲ってくる」熊驕嫚が続けた。
その声が消えるか消えないかという時、「カーンカーン」という警報の音が山寨全てに響き渡った。
山寨は一瞬静寂に包まれると、直後に沸き立った。
「この警報音……大規模な狼群の襲来だ!」
「急げ急げ!メンバーを全員集合させろ!大戦になるぞ」
「くそっ、戻ったばっかりなのに、ゆっくり寝たかったのに……」
蠱師たちは罵り合ったり、無表情で唇を結んだりしていた。瞬く間に、竹楼の屋上や道路には蠱師たちの駆け抜ける姿が現れ、四つの門や寨壁へと向かっていった。
一方、塔楼の数々(かずかず)は外壁よりも高く聳え、威厳ある守護者の如く存在していた。
方源は人波に混じり外壁の下まで来た。ある蠱師が木製の梯子を登りかけており、方源はその者を引き摑んで引き摺り下ろし、自ら登り始めた。
「どの野郎……」その蠱師が罵倒しかけたが、方源だと気付くと即座に口を堅く閉じた。
方源が梯子を登り切り、白玉蠱を発動させて頭を少しだけ覗かせた。
山寨の外には、山野全体が電狼で埋め尽くされている。数千頭は確実だ!
視界いっぽうに広がる無数の緑色に光る狼の瞳は、見る者の背筋を凍えさせる。
これらの狼の大半は飢餓に苛まれており、中には餓死寸前で体躯が明らかに痩せ細そった個体もいた。
電狼の数が多すぎて災害級となり、周辺の野生動物は追い払われるか喰い尽くされるかしていた。狼群にとって食糧は日増しに減少している。
人間の気配が濃厚な山寨は、彼等にとって狂気じみた最大の誘惑だった。
狼は忍耐力に富んだ獣であり、飢えた狼は更に恐ろしく、危険で凶暴になる。
満腹の電狼が山寨を襲うことはない。
これらの普通の電狼以外に、豪電狼も存在していた。
狼群に混じっていても、豪電狼の存在感は圧倒的だった。
その体躯は皆、子牛ほどもある巨体。
三十頭以上が確認された!
多くの者がこの光景を目にし、思わず冷や汗をかいた。
これで今年古月山寨が二度目の狼群包囲を受けることになる。だが今回の規模は前回の二倍以上だ。
これらの豪電狼は各々(おのおの)牛のように逞しく、絶好調の状態。普通の電狼は食糧不足だが、百狼王たる存在は当然十分な食糧を有している。
資源ってやつは、やっぱり組織の上層部に優先供給されるもんだ。
下層は常に収奪され、利益を犠牲にされながら上へ集約される。
この点、人類社会でも獣の群でも共通してるわな。
「この豪電狼ども、まだ本物の脅威じゃねえ」方源は視線を移し、狼群の後方を探ると、すぐに森の陰に三頭の巨大な狼影を見つけた。
千獣王、狂電狼!
各々(おのおの)の狂電狼は象ほどもある巨体だった。
方源はこれを見て瞳孔をかすかに収縮させたが、すぐに平常に戻った。観察を続けると、さらに多くの豪電狼の群が四方八方から集まってくるのを確認した。
雷冠頭狼の姿は見当たらなかった。
方源は内心で安堵の息を吐いた。雷冠頭狼がいなければ山寨は安全だ。
記憶では、雷冠頭狼は八月末に現れ、古月一族に甚大な被害をもたらした。族長と家老たちが命懸けで防ぎ、古月青書が自らの命を燃やして戦わなければ山寨は滅んでいただろう。
再誕以来、方源は多くの事象を変えてきた。古月青書は既に早期に犠牲となり、方源はさらに油断できなかった。雷冠頭狼が前倒しで出現する可能性も十分あるため、真っ先に観察に赴いたのだ。
「オオォーン――!」
三頭の狂電狼が揃って首を仰ぎ、長く響く遠吠えを放った。
狼の咆哮と共に、無数の電狼が命令を受け、山寨へ突撃を開始した。
山寨側では、蠱師たちが既に万全の準備を整え、陣地を固めていた。
一転の蠱師たちは皆、城壁際に立ち冷たい壁面に両手を押し当てていた。
二転の蠱師たちは木製の梯子を登る者もいれば、塔楼の頂上に集結する者もいた。
彼等の後方では、建築物を改造した臨時要塞にも蠱師が駐屯している。予備部隊や薬堂の治療蠱師、偵察要員が行き交い、絶え間なく戦況を後方へ伝達していた。
家老たちは後方に控える者、塔楼に登って状況を見守る者がおり、戦力を温存しつつ場面を統制していた。
「来るぞ」方源は梯子の上に立ち、冷たい光が瞳に宿っていた。
電狼群が山野を埋め尽くし、濁流の如く山寨へ押し寄せてきた。
ズブズブ……
彼等はまず外壁の外に掘られた罠の堀に転落し、青竹の鋭い破片に体躯を貫かれた。まるで熱湯の鍋に餃子を投げ入れるような光景だ。
即死する者、息だけ残して呻き声を上げる者がいた。
風が吹き抜け、血の匂いが一気に広がり、狼の遠吠えが耳をつんざいた。
狼群の狂乱の攻撃は止むことなく、逆に刺激され、勢いを増して野性のまま突進してきた。
一匹また一匹の電狼が罠穴に落ち、後続の者のため血の道を舗装する。続く電狼たちは同族の屍を踏みつけ、寨壁に体当たりしてきた。
瞬く間、ドンドンという鈍い衝撃音が響き渡った。
一匹の電狼が蟻が大木を揺するように無駄な努力をしても、次々(つぎつぎ)と押し寄せる電狼群によって外壁全体が揺らぎ始めた。
外壁下の一転蠱師たちは恐怖を必死で押さえ、真元を鉄藤蠱や毒花蠱に注ぎ込んだ。
寨壁の茨が電狼の体に突き刺さり、毒花蠱が鉄藤に微量の毒を付与。毒素が電狼の肉体を蝕んでいく。
電狼群は寨壁を引っ掻き、牙を剥き出して狂乱のまま噛み付いた。しかし傷は深まる一方、毒が蓄積するにつれ動作が鈍くなっていく。
シュッシュッ。
梯子や塔楼に立つ二転蠱師たちが一斉に月刃を放った。
月刃が狼群に命中すると、血の華が舞い、狼の四肢が吹き飛んだ。
豪電狼の参戦が始まると、即座に蠱師たちに犠牲が生じた。
方源の守る角落。
細長い青い電流が蛇行しながら飛んできて寨壁を貫通、内側にいた不幸な一転蠱師を即死させた。
その蠱師殺しの豪電狼は直ちに集中攻撃を受けることに。
無数の月刃が飛び交う中、周囲の電狼を盾に左右に身を翻し、軽傷のみで切り抜けた。
「ガオー!」
豪電狼が牙を剥き、鋭い歯の間で電流が迸った。青白い電光が空気を貫き、方源めがけて直撃してくる。
水罩蠱。
方源は冷ややかに鼻息を鳴らし、淡い青の水蒸気を噴き出した。
水煙が膨張し、水の球体となって彼を包み込む。
電流が水罩に命中、水膜が激しく揺れながら辛うじて崩壊を免れた。
月芒蠱!
方源が自ら水罩を解除、手首を電光石火で翻す。三本の月刃が風を切って飛翔した。
月刃は全て(すべて)死角を突く角度。豪電狼は一本目を回避するも、二本目が右前脚を斬りつけ動作を鈍らせ、三本目が頭部を直撃。左目を粉砕する深傷を負わせた。
「ギャオォン!」痛みに狂った咆哮を上げる豪電狼。しかし周囲の蠱師たちが好機と見て取り、再び月刃の雨を降らせた。
ズバッ!ズバッ!
瞬く間に千切られたように全身から血を噴き上げ、骨まで達する傷口を負った豪電狼。体を小刻みに震わせると、そのまま崩れ落ちた。周囲の狼群に波紋のような動揺が走る。
しかし後方で三頭の狂電狼が睨みを利かせる中、狼群は一時的な混乱の後、再び牙と爪を振るい寨壁へ突進を開始した。
方源はさらに数発の月刃を放つと、梯子を降りた。この短い時間で、彼の暗赤い真元は大半を消耗しており、補充が必要だった。
彼が降りてくるのを見て、下で待機していた二転蠱師が即座に梯子を登り始めた。
通常、遠距離攻撃手段を持つ蠱師たちは梯子や塔楼の最上層に集結する。彼等は豪電狼を重点的に狙う。豪電狼の脅威は普通の電狼より格段に高いからだ。
跳躍能力を強化する蠱を宿した豪電狼もおり、一気に寨内へ飛び込むことさえある。
方源は梯子を降りると、後方へ向かって歩き続けた。
周囲を行き交う人々(ひとびと)の多くは彼同様、真元が尽きかけ休憩に来た者たちだ。別の一群の蠱師たちは彼等と交代し、戦場へ駆け付けて一族の戦力に加わっていた。
これは正に戦争そのものだった。
二転の頂点の力さえ微々(びび)たるものに感じられる。三転蠱師こそが中核となり、局面を鎮める存在なのだ。
方源はある竹楼に到着した。この建物は改造され多くの補強が施されていた。扉を潜ると、内部では多くの蠱師が胡坐を組み、元石を握り締めて急ぎ真元を回復させていた。
治療蠱師たちが人の間を縫うように動き回り、地に蹲って負傷者の包帯を巻く者もいた。薬箱が傍らに置かれる中、方源は隅を見付けて座ると、直ちに女性の治療蠱師が近寄ってきた。
彼は首を横に振った。女蠱師は頷き、別の蠱師の方へ歩いて行った。
……
こうして交代を繰り返すうち、夕暮れ時までに方源は五回も戦闘に参加していた。しかし電狼群は減る気配もなく、逆に狂電狼の遠吠えに呼び寄せられた新たな電狼群が次々(つぎつぎ)と到着していた。
「どうやら今回の狼潮は夜まで続くようだな」ある家老が寨外を見渡しながら憂色を浮かべた。
夜になれば蠱師たちの視界は制限される。逆に電狼は優れた夜間視力を発揮する。
「今年二回目の襲撃で既にこの強度とは……状況は楽観を許さぬ」傍らにいた別の家老が深い嘆息を漏らした。
古月薬姫も険しい表情を崩さない。
彼女は薬堂家老として治療蠱師を統率し、第一線の犠牲者情報が真っ先に手元に集まる。
薄い竹紙一枚に昼間の被害状況が記録されている。薬姫はそれを握りしめ、手に掛かる重みを感じていた。
犠牲者数は過去の同時期を大幅に上回っている。
しかし彼女は理解していた――蠱師たちの戦闘能力が低下したわけではなく、今年の狼群が異常な数と凶暴性を持つからだと。
「九葉生機草の接収はどうなっておる?」血に染まった夕陽が沈んでいくのを見守りながら、薬姫は息を吸って淡く問うた。部下は即座に報告した――未だ三人が提出しておらず、方源もその一人だと。
薬姫は鼻息を鳴らすと、続けて尋ねた:「薬楽は今どこにおる?」
「薬楽秀は東門近くで治療班を指揮しております。幾度か撤退を勧告しましたが、秀は前線に留まり続けると強いております」部下は恐る恐る跪きながら答えた。
薬姫は沈思した後、軽く頷いて手で部下を下がらせた。
孫娘の近くには一人の家老が陣取っており、熊驕嫚一行も寨壁で奮戦している。言わば前線で最も安全な場所だった。
薬姫は孫を溺愛しながらも、その勇気を支持していた。
上に立つ者には上の思惑がある。
この経験こそ、将来古月薬楽が薬脈を継承するための政治的資本となるのだ!