「フフフ……俺をここまで追い詰めた奴は初めてだ!方源……お前は本当に面白い……*息を整えたら必ず殺してやる!」白凝冰は逃げながら心の奥底で咆哮していた。
方源から放たれる殺気が、息もつけないほどの圧迫感を与えていた。
この感覚は彼にとって未体験のものだった。
死の気配が濃厚になるほど、身体が震え病的な興奮が湧き上がってくる。
背後から方源の足音が近づいてくる。
「食らえ!」突然手を振り、黒い蠱虫を投げつけた。
方源は咄嗟に足を止め警戒したが、近づいて見るとそれが熊氈の強纏だと気付いた。
パチリ。軽やかに蠱虫を手に収めた。
強纏は黒甲虫で通常サイズ、頭部に鉄製の鋏を持ち、背中に白斑が散らばっている。
春秋蝉の気を漏らし真元を注ぐと、強纏を瞬時に煉化し空竅へ収納した。
再び追跡を開始するが、白凝冰がここまで手段を講じるのは、まさに追い詰められている証拠。しかしこの一瞬の遅れで、辛うじて縮めた距離が再び開いてしまった。
「残念ながら移動補助の蠱虫を持ってない。あればとっくに白凝冰を追い詰めてるはずなのに」方源は心で嘆息した。
「まさか…方源が強纏を瞬時に煉化!?」白凝冰は目尻でちらりとその様子を捉え、驚きと不安が混ざった感情に襲われた。
彼自身もこの強纏を手に入れてから長い時間煉化を試みていたが、熊氈の死に間接的に関わっていたため、蠱虫の意志が激しく反発。煉化の難易度が異常に高かったのだ。
だが方源は一瞬でそれを成し遂げた。特殊な蠱虫の存在は知っていたが、まさかこの男が持っているとは……
白凝冰の背筋に冷たい汗が伝わる。方源に対する警戒心が再燃し、その危険で謎めいた印象が更に深まった。
しかし時間が経つにつれ、逆に方源の気分は沈んでいった。
時間が経つほど、白凝冰の真元回復が進み、傷も浅くなっていく。方源の優位性は徐々(じょじょ)に薄れつつあった。
「今度こそ殺せないかも…」方源は内心で嘆いた。
このままでは近い将来、白凝冰の体力と真元が大幅に回復してしまう。
月芒蠱で継続的に傷を追い打っているものの、北冥冰魄体の資質は圧倒的で、元石から真元を吸収する方源の速度さえ凌駕していた。
「狼群か蠱師グループに遭遇しなければ……もし白家の小組なら逆に危険だが」
方源の脳裏に撤退の選択肢が浮かび始めた。
これだけの距離を移動しても狼群に遭遇しないのは、白凝冰が偵察蠱で経路を事前に選んでいる証拠だ。
青茅山の広大な地形を活かし、八方へ逃げ道を作る白凝冰を、特定の方向に追い込むことなど不可能だった。
……
「狼群に対処する最重要な点は、結束を固く保つことだ。離散した瞬間に危機が訪れる」古月青書は足早に歩きながら、傍らの方正に指南していた。
「豪電狼群相手なら要害を守り正面突破も可能だが、狂電狼群の場合はまず撤退。信号蠱で周囲の小組と合流だ。最低三組が揃わなければ勝機はない。もちろん狼群だけでなく、蠱師にも警戒が必要だ」
ここで古月青書は一瞬、言葉を切った。
同行の四人全員が彼の指す人物を察していた。
明らかに白凝冰のことだ。
近日、白凝冰は敢えて二転の赤鉄真元で熊力や赤山らを挑発。次の標的として古月青書の名を公言していた。
「もし白凝冰と遭遇したら……」古月青書は重たい空気を押し分けるように続けた。「交戦は極力避けるべきだ」
この言葉を聞いた方正の胸に不満の感情が沸き上がった。
彼の心の中で、古月青書は外見こそ穏やかだが芯が強く、筋を通す人物だった。青書からは濃厚な家族愛を感じ取り、敬愛の念を抱いていた。当然、白凝冰が青書を上回ることを良しとしなかった。
「皆白凝冰のことを噂してるけど、あいつってどんな奴なんだ?」方正が眉を顰めて問う。
小組の他の三人は沈黙に包まれた。
古月青書は穏やかな笑みを浮かべて答えた。「彼は青茅山随一の天才だ。方正、よく聞きなさい。君は若くして甲等の資質を持つ。将来、彼を超える可能性も十分ある。だから成長するまでは正面衝突を避けるんだ。以前話した『頭を下げる時と上げる時』の話、覚えているだろう?」
方正が青書を見上げると、その玉のような潤いある瞳に触れて自然に頷いた。「分かりました。青書兄貴の言う通り(どおり)にします」
「良く分かってくれた……」青書が言葉を続けようとした瞬間、小組の偵察蠱師が声を張り上げた。「前方に蠱師一人、高速で接近中です!」
一同の表情が同時に険しくなった。
治療蠱師の古月薬紅が深刻な面持ちで言った。「おそらく狼群に散り散ばりになった小組の残党でしょう。急いで救援に!」
方正が思わず口を滑らせた。「もしかして白凝冰かも?あいつ一人で行動してるじゃん」
「可能性はあるが、ないとも限らん。だが孤立した蠱師なら、どの山寨の者でも今は味方だ」古月青書がそう言い、真っ先に方向を転換した。
四人の仲間も当然のようについて行く。
しかしすぐに偵察蠱師が再び報せた。「一人じゃありません。最初の蠱師の後方にもう一人が追っています」
「二人か……薬紅姉の言う通り(どおり)、小組が崩れたんだな」古月方正は安堵の息をついた。
古月青書は表情を変えなかったが、他の三人の顔から緊張が幾分解けた。
この時、高空から見下ろせば、青書小組と方源・白凝冰の二人が険しい山道で急速に接近しつつあるのが分かるだろう。
「ん?」白凝冰の表情が微かに動いた。偵察蠱が五人組の蠱師グループが真正面から接近してくるのを察知したのだ。
急いで方向を変えた。
偵察用の蠱虫を所有しているが、正確な相手の特定までは不可能だった。各蠱虫の能力は単一機能に限られ、長所と欠点を併せ持つのが常だ。
例えば方源の地聴肉耳草も同様で、足音に特化した聴覚強化は可能だが、男女の判別や、悄歩蠱で消音された足音の感知は出来ない。
正体不明の相手との接触を避けるため、白凝冰は安全策を取った。
だが今回の青書小組は精鋭揃いで、偵察能力も一級品。
「誰かいる!」続いて方源も青書小組の存在に気付いた。
疾走する最中、右耳の人参髭が風に靡いていた。地面に根を張っていないため、偵察範囲は最大時の半分にも満たなかった。
白凝冰が再び走行方向を変更する。
しかし青書小組も即座に進路を調整した。
この動きで、白凝冰も方源も表情を硬くした。
二人とも聡明な者ゆえ、すぐに悟った――この未知の小組が最大の変数となり、最終的な結末を左右することを。
「来るのが白家の小組なら、即座に隠鱗蠱で撤退する。他の山寨なら……フン」方源の目が冷たい光を放った。
この選択に賭けの要素が含まれることも自覚していた。
もし白家の小組で隠形探知手段を持つ者がいれば、絶体絶命に追い込まれる。
だがこの機会を逃せば、白凝冰を葬る最後の可能性も消える。
さらに確率計算すれば、方源に有利な三分の二、白凝冰に不利な三分の一。賭けない理由などない。
疾走する中、両者の距離は縮まり続ける。
「あの二人、もうすぐ角の向こうに見えるはずです」偵察蠱師が山道の曲がり角を指差した。
一同は自然と足を緩め、合流の瞬間に備えた。
白い影が突然角を曲がり、彼等の眼前に現れた。
「白凝冰!」方正が思わず叫んだ。当然、彼は白凝冰の肖像画を見たことがあった。
残る四人も、青書さえも表情を険しくした。
「白凝冰がこんなに狼狽えてる……狂電狼群に襲われたんだな」
「自業自得だ。一人で狼潮を渡り歩くとか威張ってたんだろ?」
一同はしばらく動こうとしなかった。
白凝冰の必死な様子が、青書たちに痛いほど快哉を覚えさせた。
だがその時、方源の怒鳴り声が角の向こうから響いた。「逃げてんじゃねえよ白凝冰!今日こそぶっ殺す!」
この発言には探りが入っていた。
地聴肉耳草で、五人組の存在を把握していた方源の計算だ。もし相手が白家の小組なら、激しい反論が返ってくるはずだった。
角の向こう側で、古月青書らはこの言葉を聞いて目を丸くした。
「どういうこと!?」
「白凝冰を追いかけている奴がいるだと!?」
「冗談じゃないわ!こんなことがありえるの?」
「白凝冰があんなに狼狽えてるなら、追手はどんな化け物だって言うんだ!?」
古月薬紅らは顔を見合わせ、互いの表情に驚愕の色を浮かべていた。
古月方正は混乱しながらも思った。「この声、どこかで聞いたような……」
その声の主を思い出す間もなく、方源が角を曲がって現れた。
「……!?」 古月青書の重たい表情が一瞬凍りついた。
他の四人は目を瞠り、方源の姿を見た瞬間、目玉が飛び出そうになった。
「あ、あれは!」古月薬紅は鴨の卵が入るほど口を開けっ放しにした。
「兄貴!?」方正は声を詰まらせた。
「彼が……?」冷静沈着の古月青書さえ、この事態には驚きを隠せなかった。